第80話 オザシキサン
良助は姉夫婦の一人息子で二歳になる。
私の記憶の中ではおくるみに包まれて姉の腕の中で眠る赤ん坊だったのだが、今現在の彼は倍のサイズに大きくなり、危なっかしくも二足歩行で動き回る活発な男の子だ。
盆の長期休暇を利用し久しぶりに帰省したところ、ちょうど姉夫婦の来訪とタイミングが重なった。
実家は曾祖父の代からある古民家で、部屋の戸や区切りのほとんどは襖や障子がいまだに現役を張っている。
良助はこの初めて目にする紙の仕切り戸に随分と興味を刺激されたらしく、格子に貼られた真っ白な和紙に鼻先をくっつけるようにしていつまでも眺めていた。
が、どうやら旺盛な好奇心は見るだけにとどまらなかったらしい。気がつけばずぶりずぶりと穴をあけていた。
姉の夫で良助の父であるY氏が慌てて制止の声をあげるが、やんちゃ盛りの男の子は止まらない。楽し気な笑い声と共に障子の上にポンポンと豆粒のような穴が量産されていく。
Y氏は申し訳なさげに父と母に頭を下げた。
しかし父も母も「ええよ、ええよ」と笑うばかりで咎める様子はない。
はて、と私は内心首を傾げた。
父も母も厳格というほどではないが、それなりに躾はきっちりとする方だ。実際、兄も姉も幼少時に今の良助と同様の悪戯をして叱られている。
叱られた現場をこそ目撃していないものの、障子を前に大泣きしている兄姉の姿から、結果的に私がその類のおいたと無縁に育ったほどだ。
さてはてそんな父母の反応について、歳をとって丸くなったのかそれとも孫が可愛いだけなのか、とも思ったのだが、どういうわけか同居している兄夫婦や姉すらも特に何も言わない。どころか「じきに収まるから放っておけ」という始末である。
Y氏はそんな妻の家族の反応に「はあ」とどうにも要領を得ない様子で生返事をする。
私も彼と同じ表情をしていたと思う。
さすがに理由を訊ねようと口を開きかけた時、良助が大声を上げた。
コケてどこかぶつけでもしたかとそちらに目をやれば、虫食いのように穴だらけになった障子の前で泣き叫んでいる。
姉は慌てることなく息子を抱き上げると「はいはい、怖かったねぇ」などとまるで何が起こったかなど承知のようにあやし始めた。
対照的にY氏は慌てに慌てて何があったかと我が子に確認している。
良助曰く、怖い顔の人に怒られた、のだそうだ。
この悪戯っ子はチマチマと穴をあけているうちに調子づいて、ついには格子の中の枠を手の平で丸々破いてしまったらしい。
すると、ぽっかりと空いた長方形の洞、その向こうからぎょろりと巨大な黒目が覗いたのだという。
それは枠に収まりきらないほど大きな大きな目玉だった。
やがて眼がゆっくりと上にずれていき、赤い皮膚と寝かせた三日月のような裂け目が現れ、それが勢いよく上下に開いたと思った瞬間――
「こらぁっ!!」
障子戸がビリビリと震えるほどの大音声だったそうだ。
我が子のたどたどしい説明を聞いたY氏は心底困ったようにこちらを向いた。
氏の困惑も最もで、良助の遊んでいた場所と私たちの距離は一メートルとそこらといったところだ。
だが彼が泣き出すまでそのような大声など聞いていない。
Y氏になにか明確な答えを出せるわけでもなく無言で目を合わせていると、
「オザシキサンに叱られてしもうたねぇ」
からかうように、父が初めて耳にする名称を口にした。
「なにそれ?」
と、私は反射的に訊ねたのだが、どういうわけか父は質問した我が子をスルーして孫に説明を始めた。
私の実家には『オザシキサン』というのがいるらしい。
オザシキサンはずっと家のことを見ていて、悪いことをすれば今のように怒って懲らしめる。しかし良い子ならば遊び相手になってくれたり、悪いことから守ってくれるのだとか。
内容だけなら「悪い子には〇〇がくるぞ!」と親が子供のしつけに利用する架空のお化けのようだ。
だが私の脳裏には、いまだに泣きじゃくる良助の姿と、かつての兄や姉が重なっていた。
なるほど、あの日の光景は両親の叱責ではなく『オザシキサン』の洗礼だったらしい。
「…………私、その、オザシキサン? 見たことないんやけど」
「あんた、あたしらが泣いてるの見て、叱られるようなことせんかったやろ」
「遊びにしても、本読んだり、ゲームしたり、一人遊びばっかしてたしなぁ」
……どうやら私は知らないうちにオザシキサンとの遭遇ルートを逃していたようだ。
神棚や仏壇があるわけでもないのに、盆正月など季節の合間合間に、床の間に清酒などがお供えされていた意味を今さらながらに理解する。
この分だと、夜中以外は外出中ですら鍵がオープン状態の我が家に一度も空き巣の類がやって来ていないことにも、それなりの理由を考えてしまう。
「オザシキサンってどんなの?」
がぜん興味の湧いた私の問いかけに、兄姉が微妙な表情をする。
「あー、一緒に遊んでるときは小さいよ。子供とほとんど変わんない。赤ら顔で、目と口がちょっと大きくて」姉が言う。
「じゃあ座敷童みたいなもん?」
「いやぁ、顔は、子供っぽく、ない、かな」
姉の躊躇いがちな言葉に、兄がうんうんと頷いた。
どうやら顔は随分と厳めしいらしい。
「ほらぁ悪いモンを追い返さんと
母の指摘に、あー、と兄姉がそろって手を叩いた。
そもそも生まれの違うY氏はともかく、同じ家に育っているのに私だけ『オザシキサン』を知らないというのは、なんとも疎外感を覚える。
釈然としない気持ちで、ちらりと視線を横に向ける。
立ち並ぶ障子戸は穴だらけだが、まだ無事な所も残っている。
そろり、と指先をひとつ立てて薄い和紙に近づける。
ぽん、と肩を叩かれた。
振り返れば、兄が静かに首を振っている。
その表情が「いい年をしていらんトラウマを抱え込むこともないだろう」と無言で語っていた。
幾ばくかの逡巡の後、私は静かに指を引いたのだった。
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