第75話 髪の毛
友人のAの家に泊まった時のことである。
久しぶりに予定が噛み合ったのでせっかくだから外で食事でもと居酒屋に行ったのだが、つい話し込んで終電をすっかり逃してしまった。
タクシーで帰るには少々今月の懐事情が厳しいこともあり、近くだというAの部屋に頼んで泊めてもらうことになったのだ。
二十分ほどの徒歩の後にたどり着いたAの住居は二階の角部屋で、玄関から案内された洋室に至るまで小奇麗に整えられていた。
二つ返事で了承したにもかかわらずわざわざ「いいけど、髪が落ちてるよ」などと変な断りを入れるものだから、もしやいわゆる『汚部屋』なのかと少しばかり緊張していた分、少々肩透かしをくった気分だ。
私がカーペットに腰を下ろしたのを確認すると、Aは「お茶持ってくる」とキッチンへ戻っていった。
ここまでの道程でほぼほぼ酔いも醒めているとはいえ、酒のせいで喉も乾いている。私は言葉に甘えて待つことにした。
部屋に独り残された手持無沙汰もあって、カーペットになんとなく指を這わせていると何やらまとわりつく感触がある。
摘まんで持ち上げてみれば、それは数本の真っ黒な髪の毛だった。五十センチ以上はあり、とうていAのものではありえない。
あきらかに女性のものと思われるそれに、私は「ああ」と納得していた。
きっとAのあの発言は、彼女の存在をほのめかしていたに違いない。
私を招き入れたくらいだから同棲はしていないのだろうが、洗面所に行けば歯ブラシが二本置かれている、なんて定番のようなものがそこかしこにあるのかもしれない。
それにしても「髪が落ちている」などとはずいぶん婉曲的な物言いである。照れ隠しなのか何なのか。Aはもともと芝居の脚本なんぞ書いている男で変わった言い回しも珍しくはないが、それにしてもわかりづらい。
私は苦笑しつつ指の中の髪をゴミ箱に入れると、折よくAがキッチンから戻ってきた。
しかし、彼の手にあるグラスを見て、私は軽く目を見張った。
二つの透明な容器にはウーロン茶らしい液体が九分目まで注がれ、そのどちらにもフタがかぶせられているのだ。
こじゃれたグラスに専用のフタ、というわけでもない。
グラスはどこにでもあるような無地の円柱型のガラス容器だし、何よりフタに至ってはスーパーで売っている海苔のプラスチック容器のそれである。
他人の反応にあまり頓着しないAは、私の視線にも気づかず片方のグラスを差し出してきた。
礼を言いつつ受け取り、すぐさま黒色の薄い樹脂製のフタを取り上げる。
中身がこぼれないようにするにはサイズが合っていない。ならばホコリ避けかと考えるには、少々変わったところはありつつもこの友人はそこまでの潔癖症ではなかったはずである。
「フタをとったんなら早く飲んだ方がいい」
まじまじと何の変哲もないフタを眺めていると、唐突にAがそんなことを言い出した。
え、と彼の方へ向くが早いか、ポシャン、と手の中の液体が揺れた。
視線を戻せばウーロン茶の中にもやもやとした何かが浮いている。
ジワリと古びた池の水草のように広がったそれが髪の毛の束であると遅まきながら理解して、私は危うくグラスを放り出しそうになった。
すんでのところで自制をきかせられたのは奇跡に近い。
事態を呑み込めずAとグラスを目で往復するばかりの私に対して「あー、遅かったかぁ」と友人は至って暢気な様子で説明をしてくれた。
髪が落ちてくるらしい。
自分のものではない長い髪の毛が、気がつけばそこかしこにパラパラと。
「ほっとくと面倒くさいことになるから、定期的に掃除しなきゃいけなくてさ」
この現象は引っ越した当初からずっと続いており、だからもう慣れた、とAは事もなげに言う。
「食事とかどうしてるかって? どうも一定の高さから落ちてきてるっぽくてさ。だから傘さして飯食ってる」
手製らしい傘を垂直に立てるためのスタンドを座卓の上に置いて実践してみせるA。
喫茶店の屋外スペースみたいじゃないか? と友人はおどけてみせるが、室内に透明なビニール傘が突き立っている様はシュールでしかない。
思い切って家賃を訊いてみれば、間取りは2Kのくせになんと私の住んでいるワンルームよりもずっと安い。
あからさますぎるその数字に顔をしかめていると、さすがに察したAが笑う。
「別に気にしなけりゃ大したこともないよ。掃除する癖がついて部屋を散らかすこともなくなったし」
ここまであっけらかんとしていると、感心を通り越してコイツこそホラーじゃないのかと思えてくる。
――それにしても、一定の高さから髪が落ちてくるっていうのは……。
目に見えない第三者が自分たちのすぐそばを歩き回っている、そんな光景が脳裏をよぎり、なんとなく唇から頬にかけてチクチクとかゆくなってきた。
何度かこすってみるものの抜け落ちた髪の毛が首元や唇の端に引っかかっているような違和感がどうにも拭えない。さすがに気持ちが悪いので洗面所を借りることにした。
「あ、鏡は見ない方がいいぞ」
Aが思い出したようにそう声をかけてきた。
私は返事をしなかった。
きっと風圧が原因だろう。
いくら事故物件だからといっても、何でもかんでもそっちに考えるのはこじつけが過ぎるというものだ。
しかし――
ちょうど洗面所の扉を開けたその時、鏡を隠すように覆いかぶせられた布が、先ほどのAの言葉に反応するように不自然に揺れたのだった。
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