第74話 役所の怪
役所に行ったんですよ。
知っての通り、春の終わりに転職しましてね。
人間関係にうんざりしてすっぱり辞めて。しばらくの休養を兼ねた無職期間を過ごして新しい会社に勤めたんです。
ええ、今のところおおむね良好ですとも。
ああ、いや、そっちは本題じゃないんですよ。
役所に行ったんです。
健康保険が国民保険から社会保険に切り替わったんで、その手続きに。
まあ、お役所ってのは面倒くさいですね。
手続きの煩雑さはもちろんなんですが、平日の夕方五時までしかやってないなんてどうなのかと。こっちはその時間帯は仕事してて行けないっていうのに。
別に年中二十四時間営業してくれってわけじゃありませんけれども、せめて平日一日定休日にして、代わりに土日のどちらかを営業日にしてくれれば利用しやすいんですけどねぇ。
まったく、融通の利かないったら。
そのフォローが週一の夜間窓口ってことなんでしょうけど。それでもねぇ。
おっと……ともかく、その夜間窓口に行ったんです。
定時で仕事を切り上げて、一時間と少しかけて役所に着いたのは夕方の六時半を過ぎたとこでした。
夜間なんて言っても、単に営業時間を延長してるだけで七時には閉じちゃいますから、わりとギリギリですよ。
七月も目の前だってのに連日雨か曇りで、全然気温も上がらなくてずっと肌寒いままでしょ。
だけどその日は妙に蒸してて。朝から今にもパラつきそうな空模様のくせに、結局そのまま振らずじまいでさ。そのせいか気温は二十度程度しかないっていうのに、歩いてるだけでじっとりと汗ばむし、だからって上着を脱ぐげば毛穴から染み込むようにじわじわと冷えてくる。
出歩くだけで体調崩しそうな気持ちの悪い日でした。
後から後から流れる汗を袖口で拭いつつ『夜間窓口入り口』って書かれた案内に従って建物をぐるっと回って、表の玄関と比べれば小窓のような自動ドアをくぐって階段を上がってね。二階の総合受付ってところに出たんだけど、誰もいないんです。
いや、利用者がいなくってガラガラだってわけじゃなくて、職員も誰も、文字通り人っ子一人いないの。
来る日を間違えたんじゃないかと焦りましたよ。
けど、電気もついてるし、節電用の扇風機も回ってる。受付番号の発券機も動いてて、どうもフロアの奥にある職員たちが使ってるパソコンも電源は入っているらしい。
まあ、特定の手続きをする窓口が臨時で営業してるだけなんで、他の部署は当然真っ暗です。だから勤務している職員もそんなにはいないでしょうし、たまたま来客が切れて席を離れたタイミングに重なっただけかもしれません。
ちょっと面喰いましたけれど、事実いないのはどうしようもないし。案内板を確認してみれば僕の手続きをするのはもう一つ上の三階らしいんで、そっちに人が居さえすればいいかって無理やり納得して階段を上がりました。
で、やっぱり誰もいない。
二階と同じで電気が煌々とついてるってのに、誰も。
ふざけんなと思いましたよ。
やる気ねぇんじゃねえかって。
この建物は『コ』の字型になってまして。縦の線のトコにいろんな窓口がずらっと並んでて、僕は縦の線と下の線の交わってる角の部分にいました。どっちにも廊下が真っ直ぐ通ってて視界が開けてるんですけど、ほんとに誰の姿も見えないんですよ。
声をあげようにもこれじゃあ意味がないし、窓口以外の場所はどこも真っ暗でしょ。
さすがに途方にくれましたよ。
広い廊下の左側は壁と窓で、右側に各種受付のカウンターが連なって、さらに奥には事務机やらパソコンやらの機材がぎっちりと並んでいます。
窓の外は晴れてればまだまだ明るいはずなのに、厚い雨雲のせいで陰気なくらいに暗くてね。
そこから中庭をはさんで建物の対岸が見えるんですが、この役所がまたかなり古くて、年季の入った赤レンガ造りなんですよ。
それが余計に辛気臭い雰囲気に拍車をかけてて、わざわざ疲れた体に鞭打ってきたのにこの仕打ちはないだろうって、うっかりすれば惨めな気分になりそうなほどでした。
そうこうしてるうちに、ふと、窓の向こうに光が見えました。
対岸の棟の、真っ暗な廊下を小さな明かりがぽつんと一つ、移動しているんです。
それ見た瞬間、思わずほっとしちゃいました。
初めこそ疲れてるのも手伝ってイラついてましたけどね、それが落ち着いてくると、もしかしてとっくに閉館になってるところに手違いで入り込んだんじゃないか、なんて思いだしてたんですよ。
つきっぱなしの電気やら機械やらは、ほら、何かしらトラブルが起きて全員強制的に出ていかなくちゃいけなくなったとか。
そう考えると、まあ恥ずかしい話、不安で心細くなってきちゃって。
どうも向こうでチラチラしてる明かりは同じ階のようだし、こっちへ来るらしい。
なら、このまま待って事情を聞いて、問題なく営業してるっていうんなら最初の予定通り手続きを済ましてもらおうって、廊下の角っこに立って様子をうかがってたんです。
さっき、窓口の所は軒並み電気がついてるって言いましたけど、正確には窓口に使われてるスペースは僕のいるところから奥に向かって全体の三分の二ってところで、それから先の照明は落とされていて、突き当りまでは見えません。
やがて奥の廊下の陰から、まるで墨汁の中で灯された豆電球みたいに薄い小さな光がゆっくりと浮かび上がってきました。
けれど真正面からそれを見た時、なんか変だな、って思ったんです。
懐中電灯の明かりってこんなんだったかな、って。
もちろん明るいところから暗がりの光を見てるんだから、見え方が違うってのもわかりますよ。
でも、それとはちょっと違うんだよな。
なんていうか、電気の光ってもっとこう、刺々してるっていうか、はっきりしてるっていうか……。
けど廊下の奥からやって来るそれは、ぼうっと淡い感じで。一直線にのびているっていうよりは、まあるく周りを照らしてるんですよ。光量もなんだか安定してなくて、時々ゆらめいたりチラついたりするし。
少しく頭をひねって、あっ、て気がつきました。
あれは、ランプとかランタンの
そうとわかって、また不安の気がざわざわと起き上がってきました。
だってそうでしょう。わざわざ暗がりを歩くのにランプを使うなんて、考えられます? 建物の中で火までおこして。
ぜったいまともな神経じゃありません。
幸い向こうはこっちにまだ気づいてないのか、歩く調子はゆっくりとしたままです。
僕はばれないうちに退散しようと、そっと踵を返そうとした瞬間――プツン、と一番奥の受付の電気が消えました。
どうしてと思う間もなくさらにプツン、とその手前の電気も消え、それを皮切りにどんどんと暗闇が迫ってきて…………ついにはなにも見えなくなってしまいました。
明かりといえば相も変わらずゆらゆらと近づいて来る灯だけ。
動こうにもどこに何があるかもわからないし、携帯のライトを使えば気づかれるかもしれない。
どうにもできずに息をひそめていると、ぺた、ぺた、って薄い靴で歩いてるような足音まで聞こえるようになって…………つい、焦ってしまったんです。
とっさにパッと数歩足を動かしたところで何かに蹴躓いて、転びました。
ガターンと大きな音が響き渡りました。
どうも全然見当違いな方向に動いて、受付の椅子に引っかかってしまったようです。
なんとか上体を起こしたところで前を見ると、なんと暗闇の向こうから灯が大きく右に左に振れながら迫ってくるじゃないですか。
パタパタパタパタパタパタ――
明らかに走ってる足音までする。
もう恐ろしさのあまり声も出ないし動けない。
いっそこのままじっとしていれば闇に紛れてやり過ごせないかとすら考えました。
けれど、いよいよオレンジがかった光に照らされたそいつの姿がぼんやりと確認できるようになったところで、こっちの位置は完全にばれてるんだって悟りました。
そうとなったら悠長にしゃがんでなんていられません。
大声をあげて立ち上がって、遮二無二駆け出しました。
運が良かったのは、階段の非常灯だけがうっすらと生きてたこと。それを頭に血が上った状態で、どうにか見つけられたことですかね。
壁にぶつかったり長椅子に脛をぶつけたり、まともにまっすぐ走れやしませんでしたが、なんとか倒れることもなく階段にたどり着くことができました。
それから……。
……いえ、それからが今思い返しても本当に不思議なんですけど。
階段を駆けおりて踊り場を回った瞬間、下のフロアから光が見えました。
ランプの明かりなんかじゃない、電気の人工的なそれです。
この暗闇から逃れたい一心で、まるで夏の羽虫が引き寄せられるように飛び込みました。
すると、なんとそこは一番初めに僕が行った二階の総合受付だったんです。
しかも無人なんかじゃない。静かではあるけれど大勢人がいて、
絵にかいたような役所の光景がそこに広がってました。
肩で息をしながら茫然としている僕を見て、案内の女性職員が声をかけてきました。
今考えるとちょっと可笑しいというか、ずいぶん間抜けだったなと思うんですけれど、その時は頭の中はもう真っ白で、ようやく「あの、保険の手続きを」なんてしどろもどろに口にするのが精いっぱいで。
そのままその職員に案内される形で、下りてきた階段をまた上がって、普通に手続きを済ませたんです。
ええ、三階にも人はいました。
電気もしっかりついてて。
逃げた拍子にいろいろぶつけて動かしたり、ぶちまけちゃったはずなんだけど、そんな様子はどこにもありません。
狐につままれた感じって、まさにあの時のことを言うんでしょうね。
ちょっとしまりが悪いですけど、僕の体験はこれで終わりです。
あの役所もずいぶん古いんで、建物自体に何か曰くでもあったりするんですかねぇ
…………へぇ、もとは病院なんですか。
ああ、ああ、それで合点がいきました。
いやね、闇の向こうからやって来る人影、その姿が見えたって言ったでしょう。
給食帽みたいに丸っこい帽子。同じように丸みを帯びた野暮ったい上着。足首まで隠れた長いスカート。その全部が真っ白でした。
胴にも見覚えがあると思ってたんですが、あれは……そう、むかし映画で見た、古い看護婦の制服です。
なるほど、あれはきっと夜間の見回りだったんでしょうね。
そうすると、もしあの時見つかっていたら…………いったいどうなってたんでしょうか。
患者と間違われてどこかこの世ではない病室に閉じ込められる――そう考えると、やっぱりゾッとしますね。
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