第71話 幽霊の出る道
かれこれ十年ほど前のことらしい。
当時、私の兄は山奥の小さな町にある、唯一の小学校に勤めていた。
学校の周囲には墓地が二か所あり、一つはお寺に隣接して、もう一つは学校をはさんで対角線上にある山の斜面に沿って段状に設けられていた。
管理はどちらも同じお寺さんだったが、場所を分けたのは山中ならではのスペースのなさ故だろう。
兄の間借りしていたアパートへは、この斜面沿いの墓の前の道を通る必要があった。
さて、兄が春にこの町へ移り、一週間程度が経過した頃である。
彼は家へと車を走らせていた。
時刻は夜の十時過ぎ。
窓の外を影絵のような景色がノロノロと流れていく。
速度メーターは法定速度の半分を示している。
夜の八時を過ぎたら人通りどころか車の灯りすらぷっつりと途絶えるような土地だ。もっとスピードを出していいようなものだが、それでも兄は低速度を維持していた。
一車線の細い道路の両側には
先の見えないカーブや道路に張り出した茂みなどの死角に差し掛かる度に、兄はさらに速度をグンと落とした。
引っ越したばかりで土地勘もなく、運転をするうえで警戒すべき場所をほとんど把握できていない以上、どうしても慎重になってしまう。
なぜなら、土地に慣れきっている地元の人間ほど視界の悪い場所でも無警戒に飛び出してしまうものだからだ。
転任してきたばかりの若い教師が新学期を待たずに事故を起こしたなんて、笑い話にもならない。
そう考えれば、いくら注意を払っても、し過ぎるということはなかった。
道が開けた。
車線が二つに増え、アスファルトの色ははっきりと暗くなり、タイヤからの感触は先ほどまで砂利を踏みしめるようだった細道に比べて随分なめらかだ。
どうやら最近舗装されたばかりらしい。
助手席側の窓の外には、十メートル以上はあろうかという高さの斜面に沿って墓石が車道を見下ろすようにずらりと並んでいる。
その反対――対向車線の外側には退避所のような空間が膨らんでいた。
墓参り用の駐車スペースだろうか。道路沿いに車を五台は並べられそうな広さがあるが、駐車場としてきっちり作らなかったのは、埋まるような機会がないと判断されたからなのかもしれない。
ガードレールの向こうは夜闇に溶けて見えないが、たしか小さな崖になっていて、下には田んぼが広がっていたはずだ。
走りやすさに、ついアクセルを踏み込みそうになる衝動を抑える。
道が広がり舗装されているとはいえ、それは墓地の正面だけだ。距離にして五十メートルにも満たない。その先は再び一車線に戻り、道の両側には木々に紛れるようにして民家の直線的なシルエットが見え隠れしていた。
ここだけ速度を上げても意味はない。むしろスピードに乗ったまま民家が並ぶ車幅の狭いエリアに突っ込むのは危険だ。
ふと、対向車線のガードレール付近で何か動く影が視界の端に映った。
(おっと)
ブレーキを踏み、徐行する。
あらかじめゆっくり走っていなければ気づけなかったろう。
影はガードレールの足元にうずくまって何かを探しているようだ。
(近所の人が散歩中に懐中電灯を落としたとかかな?)
車を停め、声をかける。
「あのー、どうかしましたか」
人影は身体を起こすこともなく、這いつくばったまま蠢いている。
「探し物なら暗いし明日にしませんか。そこ崖ですから危ないですし。よかったら家まで送りますよ?」
「――――」
呻き声だか唸り声だか、耳を澄ましていなければろくに聞き取れないような言葉を人影は発した。
――見つからないの。
そう言った気がした。
声はしわがれていて、老人だというのは辛うじて判別できるが、男性か女性かまでは不明だ。
何にせよ高齢者をこのまま放っておくわけにもいかない。
ダッシュボードから備え置きの懐中電灯を取り出して、人影へと向ける。
「あれ?」
誰もいない。
先ほどまでガサガサとせわしなく続いていた草上をはいずる音も消えていた。
もしや崖下に落ちてしまったのではと慌てて確認に行ったが、どこを照らそうともコンクリートで固められた傾斜と
人影から視線を外し、再び戻すまでに十秒とかかっていない。
そんな短時間で見失うほど、這った状態から素早く移動できるものだろうか?
念のため周囲を探し回ったが、それらしい人物は見つけられず、最終的に動物でも見間違えたのだろうと結論づけて、改めて帰路についたのだった。
それからしばらくは何事もなく当時の記憶も薄れてきた頃、なんと兄の友人が同じ場所で異様な体験をした。
彼は大学以来の付き合いで、隣町で会社勤めをしており、休日を利用して兄のアパートへ遊びに来ていた日の夜のことだ。
車だったため酒こそ控えたが、学生時代の昔話から近況報告まで話題は尽きず、ようやく一区切りがついた頃には午後十一時を回っていた。
出てみれば先ほど見送ったばかりの友人が青い顔をして玄関先に立っている。
「ちょっと……泊めてくんないかな? 朝一で出てくし、床で転がって寝るからさ」
歯切れの悪い友人の頼みを聴いているうちに、ふと、先日の墓地前での出来事が脳裏をよぎった。
彼が出発し戻ってくるまでの時間は、ちょうどあの墓地で折り返すのと同じくらいではないだろうか。
「……もしかして、墓の辺りで何か見た?」
そう訊ねると、友人は少しためらった後にこう言ったのだった。
墓の前の道にバラバラになった人骨がびっしりと敷き詰められていた――と。
* * *
「――この辺りに心霊スポットとかってあるんですか?」
「なんだよ急に?」
休日明け、思い切って教員の一人に訊ねることにした。
自分一人の体験だけなら見間違いで済ませることができるが、友人の目撃談はあまりにも規模が大きかったし、かといって勘違いや冗談にしては彼の反応は真に迫っていた。
声をかけたのは一年早くこの学校に赴任していた三十代前半の男性教師だ。
教員の中ではもっとも年齢が近くて話しを振りやすかったことと、万一この話題が地元の人にとってセンシティブなものだった可能性を鑑みて、やや遠方出身の彼ならば地雷を踏み抜くことにはならないだろうと考えたからだった。
とはいえ、馬鹿正直に幽霊らしきものを見たと言ったところで、鼻で笑われて終わりということもあり得る。
「若い子たちって幽霊の噂とか雰囲気のあるところ、好きじゃないですか。でもそんなところって老朽化だったり、怪しい人間が立ち寄ってる可能性もあって危険でしょ。そういう、注意しなきゃいけないスポットってあるのかと思って」
少々こじつけ感は否めなかったが、男性教師は特に疑問を持つことなく答えてくれた。
しかし、それらしい場所は存在しないとのことだった。
「こんな山ん中だから、どこそこが不気味だ、ってくらいならあるけど、具体的な怪談は聞いたことがないなぁ」
早々に出鼻をくじかれた形になってしまったが、数日後、事態は一気に動いた。
六年生のある生徒が、例の墓地で幽霊を視たと言い出したのだ。
家族で隣町に買い物と外食をした帰り、夜遅くに墓地の前を通ると、道の中央に白い浴衣のようなものを着た老婆がうずくまっている。
父親が車を降り確認のために近づいたのだが、たちまち悲鳴をあげて逃げ帰ってきた。
うろたえつつ車を発進させようとする彼に、母親が何事かと問うよりも先に老婆が家族の方を向いた。
その顔は半ば白骨化し、四肢がないのか身体を芋虫のようにくねらせて車の方へ向かってきたというのだ。
衝撃的な体験談は、一気に学校中に広がった。
また渦中の生徒の両親も「気のせい」だとして口を
あっという間に墓地前の道路は新規の心霊スポットとして、町中の知るところとなってしまった。
しかし、これに首を傾げたのは古参の教師をはじめとした、昔から暮らしている地元の住民である。
男性教師が言ったように、話題になっているような幽霊談などかつて起こったことも噂になったこともなかったからだ。
もともとあの道は一車線半程度の幅しかなく、ガードレールもなかったらしい。
ドライバーの高齢化により離合時の危険性が囁かれるようになり、路面の老朽化もあって一月前に工事をしたのだという。
もちろん、場所が場所だけに一連の手続きや作業は慎重に行われた。
その甲斐もあってか、道路の拡張にあたって埋めなければならない田んぼの所有者との交渉は円滑に進み、工事の過程で墓石が損なわれることも、現場で不可解なことが起こるなどということもなく、トラブルとは一切無縁だった。
つまり、怪奇現象が発生する因果の入り込む余地がなかったのである。
とはいえ生徒の母親などは「あんな恐ろしい体験をするくらいなら引っ越す」とまで発言しているらしく、勘違いや注目を集めるための作り話とは到底考えられなかった。
緊急で開かれた職員会議の折、兄は自身の体験を伝えることにした。
てっきり怒られるか無視されるかだと思っていたが、予想以上に田舎の人たちは迷信深いらしい。
やはり道路の舗装に関わりがあるのかと、皆が皆考え込んでいたのが印象的だった。
…………これ以降、具体的な体験談は出てこないし騒動も短期のうちに収束したため、早々に結末を述べることにする。
原因はやはり道路の舗装にあった。
校長や町長が墓地を管理しているお寺に相談したところ、ご住職が「もしかして」と道路の一部を掘るように指示したのだ。
舗装したての場所を荒らすことに住民は驚いたが、空けられた穴を調べたご住職の話を聞いた一同は「さもありなん」と嘆息することになった。
問題だったのは路盤材である。
路盤材とは、ざっくり言えば地盤を固めるためにアスファルトの下に敷く、細かく砕かれた石のことだ。
なんと今回の舗装に墓石が使われていたというのである。
ただし、それ自体はおかしなことではない。
墓じまいや移転などで不要になってしまった古い墓石は、しかるべき手続きと処置をされたのち石塔や仏像などに再加工されたり、砂利や路盤材としてリサイクルされる。
だが希に、ずさんな墓の管理者や不法な業者の介入により、閉眼供養などをされずに撤去されてしまうことがあるらしいのだ。
今回の騒動は工事に使用された路盤材に、まともな供養を施されないまま砕かれた墓石が混じっていたことが原因だろうとご住職は語った。
身体が欠損し、何かを探し続ける老人。路上を埋めるおびただしい量の人骨の欠片。
兄や友人、生徒の家族が見たそれらはきっと、しかるべき供養をされず魂が残ったままの
道路の脇には供養塔が建てられた。
これが功を奏してか、少なくとも兄が怪異を目撃することはなかったらしい。
しばらくは真偽不明の噂がちらほらと流れていたが、やがては風化するように消えてしまった。
* * *
「なんか、都市伝説みたいやね」
以上の話を聞き終えた私は、そう感想を告げた。
なんで、と対面でビールを手にした兄が首を傾げるが、私もなんとなく口を突いただけで深い意味はない。
それでも訊かれた以上は、と考えをまとめるために指を振りつつ答える。
「個人的な考え、というか、イメージなんだけどね。怪談って、妖怪にしたって幽霊にしたって、基本的に土地に根付いたものだと思うんよ」
「ああ。あの家でこんな事件があったから幽霊が出る。とか、あそこのカーブで事故が多いのは何かが祟っているからだ。って言うもんな」
「大昔の怪談本なんかだと、どこそこの誰々がこんな目にあったとか、〇〇山の狸に化かされた、とか、場所や名前をやたら具体的に書いてるしね」
怪談は因果関係が土地と明確に紐づいている。
対して、都市伝説はその辺りがひどく曖昧だ。伝説と銘打ちつつも、固有のホームグラウンドを持たない。
「人面犬だって口裂け女だってダッシュババアだって、話題になった時は全国規模だったでしょ。あっちにもこっちにも現れてさ。そういう怪人系じゃなくっても『赤い部屋』とか『鮫島事件』なんてネットでの出来事だから、場所なんてなおさら関係ないし。怪談みたいに危ないって言われてる場所に近寄らなくても、ひょっとしたら何かの拍子に遭遇してしまうかもしれない、ってところが都市伝説の
「物理的?」
「うん。人面犬はゴミ漁ってるし、口裂け女なんかは直接襲ってくるやん。ネット系のヤツにしたってホームページ作ったりとか、真実を知った人の口を封じる謎組織とか。程度の差はあるけど、どれも肉体を持った何かが関わってるって感じがする」
かなりふんわりとした説明になってしまったが、兄は一応の納得をしたらしい。
「ふうん。俺の話も幽霊は出てくるけど、その原因は舗装をするための材料に供養されていない墓石が混ざっていたせいで、場所が問題だったわけじゃないもんな。さらに元をただせばどこかの違法業者が事の元凶、と。で、そんな業者は探せばどこにでもいるだろうし、加工した材料なんて流通するのが普通…………なるほど、心霊的な出来事だけど発端には人が関わってて、全国どこにいたって遭遇するかもしれないって意味では、たしかに都市伝説っぽい。誰かの悪意が原因で生まれた障りが無作為に広がるって考えると、ちょっと『呪いの手紙』に似てるか?」
「ちょっとだけ、ね」
「なるほどねぇ。都市伝説か…………田舎の話なのにな」
そう呟くと、兄は何が面白いのかクツクツと笑い出した。
ずいぶん酔いが回っているらしい。
そろそろいい時間だし、会計をすませようと伝票を確認した私に、兄は人差し指をたてた。
「せっかくだからもうちょっと都市伝説っぽい後押しをしようか」
「どういう意味?」
「お前、ガーデニングとかするか?」
「しない」
私の部屋は物があふれて花瓶一つ分の余裕すらないし、たとえ置けたとしてもずぼらな性格のせいですぐに枯らしてしまうのがオチだ。
「あ、でも景観のためにって、オーナーがアパートの表と裏側に新しく花壇造ってる」
「部屋一階だっけ」
「角部屋。カーテン開けたらすぐ目の前に花壇だね」
「そりゃご愁傷さま」
「なんでさ」
「墓石をリサイクルしてできる路盤材ってさ、『路』って字がついてるけど別に道路だけに使用するってわけじゃないんだよ」
む、と私は口を尖らせた。
なんだか嫌な予感がする。
兄は昔から私を怖がらせてからかうことに余念がない。
「もしかして……」
「そ。花壇の下地なんかにも使われてるってこと。しかも、ホームセンターで普通に買える」
供養のされていない墓石の欠片。それが市販の材料に混入し、無作為に売られる。
夜中、窓の外に気配を感じカーテンを開ける。部屋から漏れ出る明かりと、その先の暗がりに紛れるようにして花壇に咲いた花をかき分ける人影――。
見つからないの。見つからないの。しわがれた声がお経のように辺りを漂う。
硝子窓を隔てたすぐそばで、欠けた身体を探し求める亡者の姿を想像し、私は言葉を失った。
「ま、さすがにそんなことはないだろうけどな」
そう意地悪く笑ってビールを煽った兄を睨みつけ、私も手元のウーロン茶を飲みほしたのだった。
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