第44話 旅館の肝試し

 昔、こんな体験をした。


 友人との旅行で、安さだけで選んだ古い旅館に泊まった時のことである。

 風呂とトイレは共同のみ。食事も食堂での提供だけという、全体的にくすんだ木造一階建てで棺桶のように縦長の建物だった。

 陰気な印象の拭えない旅館だったが、観光が主目的で宿に関しては眠る場所があればいい、と質は二の次だった私たちは特に気にもしなかった。


 夕方になり、食事をとりに部屋を出る。

 小学校の教室ほどの広さの食堂には、私たち以外に一組宿泊客がいた。

 男女の二人組で、大学生ぐらいのように見える。

 旅行で浮かれているのだろう。他に客がいないこともあってか、食堂内に響くほど声高に会話をしていた。


――えー、ホントにぃ?

――ホントだって。夜中の二時になったら、鏡に引き込まれるって噂があるんだよ。


 ケラケラと笑う二人組。

 遠慮のない声音に、聞くつもりがなくても勝手にその内容が入ってくる。

 どうやら、この旅館に『出る』という噂があり、それを確かめに来たらしい。


(おいおい。そんな話、こんなところでするなよ)


 客室でならともかく、共同の食堂で他の宿泊客がいるにもかかわらず旅館が心霊スポットだと話題にする神経に、私は顔をしかめた。

 調理場のカウンターを横目で確認すると、こういった客には慣れているのか、従業員たちは素知らぬ顔で作業をしている。

 宿の人たちが気にしないのであれば、私たちが意識をする必要なない。適当な定食を注文し――味は予想外にとても美味しかった――留まることのない二人組の会話をBGMに食事を終え部屋へと引き上げた。


 翌日に備え、私も友人も早々に床に就いたのだが、妙な物音で目が覚めてしまった。

 時計を見れば深夜二時。

 廊下の方からバタバタと、木製の床で地団駄でも踏んでいるような音が響いてくる。


 友人は眠りが深いのか、起きる気配はない。

 私も寝直そうと布団をかぶるが、それと気づいてしまうと、音が気になって再び眠れるものではなかった。


 食堂での二人組の会話が思い出される。

 深夜、旅館の奥――廊下の突き当りにある鏡を覗きこむと、そこに引きずり込まれてしまう。とかなんとか。

 時間から考えて連中に違いない。


(勘弁してくれよ)


 私は盛大にため息をつき、髪をかきむしった。

 私たちの部屋は廊下の一番奥まった場所にある。

 さらに突き当りの方へ斜向はすむかいに浴場の入り口があり、その正面に姿見が壁に取り付けられていた。

 つまり彼らが興味を抱いている鏡は、私たちの客室の戸口から数メートルしか離れていない位置にあるのだ。

 好奇心が旺盛なのは結構だが、場所と時間を選ばない輩に安眠を邪魔されてはたまったものではない。


 私は布団から出て、上着を羽織る。

 客室の入り口は木製の格子戸に曇り硝子が張られている。

 戸を少しだけ開き、隙間から外の様子をうかがう。


 夜中で照明を落としたのか、廊下は真っ暗だ。所々に設置されている非常灯は点いているはずだが、薄っすらとも先が見えない。

 バタバタと木製の廊下を踏みつけるような音は、今も聞こえている。玄関の方から少しずつ近づいてきているようだ。耳をすませば、それに紛れてズッ……ズッ……と何かを引きずるような音もする。

 闇にようやく目が慣れてきた時、フッと前を何かが横切った。


 私は反射的に後ずさった。

 格子状に区切られた曇りガラスの向こうに何かがいる。

 見上げるほど巨大な深い深い影が、闇の中、眼前を通り過ぎていく。


 床板を激しく叩く異音が響く。

 影が何かを引きずっている。

 硝子戸の隙間からが視界に入った。

 のど元までせりあがった悲鳴を、とっさに口をふさいでせき止める。


 それは、例の二人組だった。

 目と口を太い糸で縫い合わされ、苦悶の悲鳴をあげている。

 全身を必死に揺らし床板を何度も蹴って抵抗するが、影は彼らの髪をぎっちりと掴んで速度も緩めず奥へと進んでいく。


 ガクガクと震える膝を支えられず、私は尻もちをついた。

 ドン、と鈍い音が心臓を大きく叩いた。

 影がピタリとその歩を止める。


 私は身体を必死に縮める。両手で口を覆ったまま立てた両膝に顔を半ば埋め、硝子戸を凝視した。

 引き戸が急速に開かれ影が私も連れて行く――そんな想像が何度も脳裏をループする。

 だが影は再び歩き出し、硝子戸の前を通り過ぎていった。


 音が離れたのを確認し、そろそろとわずかに開いた戸へ手をかける。

 静かに、静かに、音をたてないよう隙間を広げ、顔だけを出す。


 引きずられていく男女の脚が、廊下の角を曲がって消えていくのが見えた。

 私は静かに戸を閉めると、頭から布団へと飛び込んだ。


 翌朝、朝食をとるために部屋を出た時、ふと例の影が消えていった先を確認し、私は目を疑った。

 そこには壁しかなかった。

 この旅館は長方形である。玄関からと廊下の突き当りまで一本道で、そもそもなど存在しない。


 夢でも見たのだろうか。

 この陰気な旅館の雰囲気と、小耳にはさんだ怪談話にあてられ、悪い夢にうなされたのかもしれない。

 しかしそれでも納得がいかず、女将さんにそれとなく例の客について聞いてみたのだが、不思議そうに首を傾げられてしまった。

 なんと、私たちの他に宿泊客はいないと言うのだ。

 ならば食堂だけを利用しに来た客かと思ったが、そんなサービスはしていないと首を振る。

 念のため食堂の従業員に話を聞いても同様だった。


 混乱した頭で、私は彼らが消えた廊下に立つ。

 影が曲がった場所。そこには大きな姿見が壁に固定され、真っ青な顔の私を映していた。

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