第27話 花火

 八月。

 私はこの時期、家族と一緒に父方の実家へ帰る。

 四国の山奥にある片田舎。お盆の終わりの時期になると毎年、神社で夏祭りが行われていた。


 二つ上の姉がいるが、彼女とはずっと前に別れ別れに暮らすようになっており、私にとってこの時期が一年を通して唯一彼女と会えるタイミングだった。


 夜、私たち姉妹は出店を回るために、神社の鳥居の前に立っていた。

 お姉ちゃんの年齢は十歳。九歳になってから身長がぐんと伸びて、大人の人ほどではないけれど背が高い。スラリとした身体に、白と水色の花が描かれた薄桃色の浴衣が似合っていて、長い髪を頭の後ろにまとめている姿はお姫様のようだ。

 着付けをしてくれたおばあちゃんも「美人さんだねぇ」としきりにほめてたっけ。


「よぉっし、全部回るわよ。全部」


 目の前にずらっと並んだ屋台を前に、お姉ちゃんは宣言する。

 両手を腰に当てて足を開いて、期待にらんらんと眼を輝かせながらにっかりと大きく口を広げた姿は、とてもとてもお姫様がするポーズじゃない。

 でもそれで「美人が台無し」になるなんてことはなく、妹の私にもずっとずっと魅力的に映ってしまうのだから「ずるいなぁ」って思ってしまう。


 私は、水色の生地に白と桃色の花があしらわれた浴衣。お姉ちゃんと色違いで同じ柄だけれど、なんだかぱっとしない。髪形も同じなのにどうしてだろう。元気で物怖じしなくて年下でも年上でも関係なく友達ができる姉とは正反対な私は、お祭りに来ている他の人たちから、似ていないつりあわない姉妹だ、なんて思われるんじゃないかと、なんだか不安になってしまって、


「う、うん」


 と姉の背中に隠れるようにして、小さく頷くのが精いっぱいだった。


 そんな私に気づかなかったのか、気にもしていなかったのか、お姉ちゃんは歓声をあげてパッと走りだした。

 慌てて追いかける。

 お姉ちゃんは活発な性格に似合って、足もすごく早い。かけっこならとても追いつけないけれど、今は左の屋台に突撃して中をのぞき込んで、反対の屋台で店のおじさんと仲良くお話しして、と参道の左右に並んだお店をジグザグに片っ端から回っているものだから、ついて行くのは簡単だった。

 でも、姉の勢いに圧されるだけで、何かお話したり買ったりなんてできなかったのだけど。


 参道の入り口から、まっすぐ歩くより何倍も時間をかけて、私たちは境内の前にたどり着いた。

 お姉ちゃんが大きな鳥居をじっと見つめているから私は、


「おまいりするの?」


 と聞いてみたけれど、お姉ちゃんは興味がなかったのかプイっと振り返り、


「そろそろ花火の時間じゃない?」


 そう言うなり来た方へ走りだした。


 花火は神社から離れた川岸で打ち上げられる。

 神社から見えなくはないが、敷地の周りを木が取り囲んでいるせいで花火がところどころ隠れてしまう。

 けれど道路にさえ出れば、遮るものもなく満開の花火を眺めることができた。


 お姉ちゃんの背中がぐんぐん遠くなっていく。

 私は必死に走るけれど、離れていく一方だ。


 

 


 人も、屋台も、見たことのない勢いで景色が後ろに流れていく。

 けれどお姉ちゃんの背中は逆に小さくなる。

 石階段に姉の姿がすっぽり呑み込まれて、私の心臓がキュッと縮む。

 やっと階段にたどり着いた時、お姉ちゃんはとっくに下りきっていた。


 もう追いつくなんてできる距離じゃあない。

 お姉ちゃんの身体が鳥居をくぐって――



   * * *



 鳴り響くブレーキ音。

 ゴムの焦げた嫌な臭い。

 誰かの悲鳴、大人の人の怒鳴り声。


 見たことのない、ぐったりとして動かない、おねえちゃん。



   * * *



 昔、姉に聞いたことがある。


「夢? しょうらいの? ん~とね……」


 保育士さん、アイドル、お医者さん、先生、歌手――


 たくさんの夢。

 子供らしく、欲ばりな、抱えきれない、夢、夢、夢。


「その中で一番なりたいもの? 一つだけ? もう、ぜぇ~んぶになったっていいじゃない」


 口を尖らせてほっぺたを膨らませたお姉ちゃんはとてもかわいらしくて、子供っぽくて、もしかして実は私がお姉ちゃんなんじゃないかって、ありえない期待もうそうが浮かんでクスリと笑ってしまった。

 お姉ちゃんはそんな私をチロリと睨んだけれど、怒るでもなく、気を悪くするでもなく「そうだなぁ」とさっきの質問の答えを考えてくれていた。


「うん」


 一つ頷いて、お姉ちゃんは、私をまっすぐに見ると、少し照れくさそうに、こう言ったのだ。


「将来の夢はね、お嫁さん」



   * * *



 おねえちゃんが死んで、家族はバラバラになりました。

 かわいらしくて、りこうで、なんでもできたおねえちゃんは、家族のたからものでした。

 おとうさん、おかあさん、おじいちゃん、おばあちゃん、みんなみんなものすごく悲しんで、とても怒りました。

 子供たちだけでお祭りに行かせたとお互いにおおごえをだして、おねえちゃんを止められなかった私のむりょくをののしりました。

 おとうさんもおかあさんも別れることになりましたが、どんくさい私はいらないと、みんなおしつけあいました。


 けっきょく、顔もしらないとおいとおい親戚が、このケンカを見かねて、私を引き取ってくれることになったのです。


――

――――


 親戚は、こんな私でも不自由なく育ててくれました。

 そこには感謝しかありません。


 姉のお墓参りのためにを再び訪れたのは、高校に入ってからでした。

 祖父母が他界して、父も母も土地を離れてしまったことで、私を疎む人間がいない今なら大丈夫だろうという、養父ちちの判断です。


 夏祭りの日、姉がいました。

 神社の鳥居の前で、あの頃と同じ浴衣を着て。

 彼女は屋台を巡って、境内の前で引き返して、再び車に轢かれました。


――

――――


 それからずっと。

 私は毎年ここで、姉を追いかけ続けている。



   * * *



 姉の姿は階段の下。

 私はまだ一段目を踏み出してすらいない。


 今年もダメだった。

 姉はあの鳥居を抜けて、車にはねられるだろう。


 今までもそうだった、お姉ちゃんは私を置いてく。

 後ろを顧みず、置き去りにする。


 学生の時ですら間に合わなかったのだ。さらに歳が経ち体力がなくなってきた今、追いつくなんて到底できない。

 耳元でぜぇぜぇと荒い息遣いが聞こえる。

 情けないその音に、どんどん自分が惨めに思えてきた。


 どうして私は、走ってるんだろう。

 もう追いつけっこない。

 いつの頃からか、それはわかっていたはずだ。

 なのに毎年毎年、河原でいずれは崩されるとわかっている石を積みあげるような無駄な行為をしているんだろう。

 決まっている、贖罪だ。

 姉を助けるとか助けられないとかは関係ない。

 だってのだから。

 これは、自分の無力つみを何度も何度も繰り返して、噛みしめる。

 たったそれだけの、私に課せられた罰であり償い――


「ふざけないで!」


 誰かの怒鳴り声が聞こえた気がした。

 いつの間にか噛みしめていたらしい唇の痛みに、頭が晴れる。


 後悔するのはいい。あの時、私の脚がもっと速ければ、他に何かしていれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。

 だから、謝った。お墓の前で何度も、何年も。

 でも「姉の死を何回も見届けるのが、罪滅ぼし」? バカを言うな。

 私の自己満足しょくざいのために大好きなお姉ちゃんが痛い思いをするなんて、そんなふざけた話があるか。

 そんなの弱くて情けない私の言い訳だ。


 目を覚ませ。

 私はそんなもののためにずっと彼女を追い続けていたわけじゃないはずだ。


 もう追いつけない?

 なら考えろ。

 他に方法はないか考えろ。

 自分が何かをすれば嫌われるんじゃないかとか、変に思われるとか、人の目なんて気にするな。

 今できることを、

 あの時しなかったことを――


「お姉ちゃん、待って!」


 叫んだ。

 腹の底から。

 今まで出したことのない声に、喉がヒリヒリする。


 姉の足が止まった。

 道路にでる一歩手前だった。

 私は急いで姉のもとへ向かう。


「――なあに、アンタ。アタシに待ってほしかったの?」


 姉が振り返る。

 まさか話しかけられるなんて予想していなかった私は声も出ず、とっさに頷くのが精いっぱいだった。


「…………もしかして、昔っからずっと?」


 こくり。


「うっそ。はじめっから言いなさいよ。いつでもどこでも何も言わずについてくるもんだから、んだと思ってたわ」


 それはその通りだ。

 お姉ちゃんが大好きだった。

 私よりずっと先を行くお姉ちゃんが自慢で、ずっと見ていたかった。

 ついて行きたかった。


 でも、


 私はお姉ちゃんのようにはできないから、

 たまには待ってほしかった。


「そっかぁー……」


 お姉ちゃんは呆れたようにため息をつく。


「あ、あの、お姉ちゃん」


 私、ずっと言いたかったことが――


「あ~、“ごめんなさい”なら聞かないよ。ていうか、聞きすぎて飽きた。アンタ、毎年毎年何回も何回も、お墓の前で謝ってるじゃん。こっちはもういいよって言ってるのに!…………そういえば昔っからそうだったのよね。いっかいスイッチ入ると、こっちのことは聞かないで黙々と納得するまで続けるような子だったわ……」

「…………待ってって言ったら、お姉ちゃんは待ってくれたの?」

「とうっぜんでしょ! 今も待ってあげたじゃない。妹のお願いを聞かないほど格好悪いお姉ちゃんのつもりはなかったんだけど?」


 心外だと片目をつむる。


 私は、お姉ちゃんを一度前に進むと止まったりなんてしない人だと思っていたけれど、「むしろそれはお前だ」と言われて、なんだかおかしくなった。


「で、今度は、満足した?」


 私は頷く。

 これまでにないくらい、晴れ晴れとした気分だ。


「そう、じゃ、今年はこれでお開き。来年は“ごめん”以外の話を聞かせてよね」

「でも……」

「でもじゃない」


 お姉ちゃんが見上げてくる。

 背があんなに高かったはずの姉をいつの間にか私は追い抜いていた。

 それに、彼女の“一番の夢”を叶えてしまっている。

 そのことを思うと、また胸の奥に膿んだような痛みが広がる。


「ごめ……」

「ていっ」


 反射的に「ごめん」と言いかけて、姉におでこをはたかれた。

 ジロリと睨まれる。

 手をあげられたのは初めてかもしれない。


「飽きたの。もういいの。そんな辛気臭つまんない言葉は」


 きっと、お姉ちゃんは、今の私のことはとっくにわかっていて、私が考えていることなんてお見通しで、それでも「もういい」と言ってくれている。

 ぽろりと、頬を伝って何かが落ちた。


「…………大きくなっても泣き虫は相変わらずね~。ハンカチある? アタシは持ってないからね。…………まったくもう。アンタが言ったでしょ。“待って”って。来年もその次も。何かあったらいつでもおいで。アタシはここでずっと待ってるから。アンタは、アンタのペースで、ゆっくり来なさい」

「……うん」


 話したいことがいっぱいある。

 あれからのこと。

 就職したこと。

 結婚したこと。

 お姉ちゃんに少しだけ似ている、娘のこと。


 でも、これ以上は来年にしよう。

 だってお姉ちゃんは、待っていてくれるのだから。


「さーぁ、そろそろ花火じゃない? ひっさしぶりに見るな~、死んでからだと十年? 二十年? もっと?」


 雲一つない星空を仰いで、お姉ちゃんがはしゃいだ声をあげる。


「――と、最後に」くるんとお姉ちゃんが振り向いて、私を見つめた。


「いま、幸せ?」



――うん。



 澄みきった夏の夜空に大輪の華が咲いた。

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