第6話 蓮葉

 学台の先生方は苦手だ、と思う。


 こんなに本ばかりに囲まれて、延々と勉強をして、何が楽しいのだろうか。特に解剖をしている文浩という医士は、理解できなかった。怯えたような落ち着きの無い目で蓮葉れんようを見るところが嫌いだ。


 ――口外したらどうなるの?


 罰される、私に、と心の中で答えた。解剖は人間の冒涜だ。なのに、この一件を蓮葉に任せた上官も上官で、意地が悪い。たぶん誰も解剖には関わりたくなかったのだろう。だから立場の弱い女の蓮葉が選ばれるわけだ。


 そんなことを考えながら、治療室の扉を眺めていた。ユジの監視役は三人交代で、蓮葉もその中に含まれている。腕診るんだから部屋に入ってくんな、と丹惟に追い出されて、廊下でぼんやりしているしかすることがない。


「――あれ、君、前の。何でここにいるの?」


 唐突に現実に引き戻される。見ると、文浩が立っていた。なぜか分からないが、腕が血塗れだ。

「……ユジの監視です。あと、君じゃなく、蓮葉です」

「はあ、そうですか」

 ご苦労様です、と眠そうな目で言う。血が廊下に垂れているのに、まったく気づいていない。蓮葉は顔をしかめて言った。

「血が垂れてます」

「あれ。……乾いたと思ったんだけど」

「何の血ですか」

「サル。解剖」

 ぞっとした。引いている蓮葉に構わず、困ったように文浩は首を傾げている。

「参ったな。洗わないと。こんなんで治療室入ったら丹惟に怒鳴られるな」

 あいつは細かいんだよねえと言いながら、自分の服の袖で床の血を拭こうとしている。ぎょっとして、蓮葉は止めた。

「要らない布とか、無いんですか? それに血って、衛生上どうかと」

「……ああ、衛生」

 眠くて考えらんない、とぶつぶつ言いながら周囲を見回す。ちょうど廊下の端から歩いてきた女の医士――桂花とかいった――に向かって手を振った。

「ちょっと、血を拭くものある? 垂れちゃって」

「え、何やってるんですか。うわあ、丹惟先生怒りますよ。私拭いておくので先生着替えてください」

 わあわあと騒ぎ出した二人を無感動に眺めながら、蓮葉はひたすら待つ。桂花が文浩を追い出し、床の血に取り掛かった辺りで治療室の扉が開いた。

「――桂花、何やってるんだ」

「気にしないでください」

 床に蹲っている桂花を不信げに見下ろした後、丹惟は蓮葉を見た。

「だいぶ良くなってきたから、身体を動かす練習をしなくちゃいけない。ただ歩き回るだけだが、監視のついでに手助けできるか」

 は、と蓮葉は眉をひそめる。

「倒れそうになったら支えるだけだよ。軍人ならできるだろ。俺は仕事が忙しいし、適任だ」

 一方的にそう言う。そういうことだ、と今度は背後に向かって、丹惟は言った。


 丹惟の後ろにはユジが立っていた。ぼんやりとした翠の目が蓮葉を向く。


「学台内は、個人の研究室じゃないかぎりどこ行こうが自由だ。医院内はまずいけど、天文台とかは楽しいと思うぞ」

 じゃあ仕事あるから、と丹惟は早足で蓮葉の脇をすり抜けていく。桂花も後で来い、と怒鳴るようにそう言っていた。

 蓮葉はユジを見る。ユジの目は、蓮葉をきちんと捉えているのか分からない。

「――あなたは軍人、か」

 久しぶりにまともに発声したのか、ユジの声はひどく掠れていた。蓮葉はただ頷くだけだ。

 ユジは困ったように小さく笑った。引き攣れたような笑顔が、ひどく忌まわしく思えた。





「……弓震学台はすごいところだと聞いていたけど、本当にその通りだ」

 適当に歩きながら、ユジは言う。はあ、と蓮葉は生返事を返した。同じ国内にあるにしろ、軍人の蓮葉と学台の先生方は遥かに隔たっていた。

「うちの国は、学問をする人なんてほとんどいなかった。本なんてあったら薪にされていたし」

 蓮葉もきっとそうする。正直、医学以外は何の役に立っているのかもわからなかった。


 今まで寝たきりだったと思えないほど、ユジの歩みはしっかりしていた。時々ふらついても、蓮葉の助けがいるほどではない。

 そこら中にいる書士や暦士たちの反応は、きっぱり二つに分かれた。興味深そうにじろじろ見るか、一切気にせず無視するか、だ。居心地が悪いが、ユジはあまり気にしていないようだった。

「丹惟先生にも訊いたが、俺はどうなるんだろう。正直、ここにいる意味が分からない」

 ユジはそう言った。蓮葉は言葉に詰まる。こんなにあっさり訊かれるとは思っていなかった。

「――私は詳しく知りません。普通なら処刑ですが、そんな意向も見えない」

「軍の規則に反するのに?」

「そう――ですが」

「なら処刑してくれ」

 蓮葉は息を飲み、ユジを見た。自然、向き合う恰好になる。

「こんなところに来るなら、腕じゃなく首を切れば良かったのに、怖かった」

 ユジは悄然と俯く。


 ――この男は、何を考えているのだろう。


「……あなたは、何をしたんですか」

「何って」

「部下を殺したこと、本当は、違うんでしょう」


 ――やっぱりあの人じゃないよ。


 文浩の解剖の結果。怠そうにしながら、あの頭のおかしい医士は言った。


 ――斬られたのは死んだ後だね、ほとんどね。分かりにくいけど、しっかり調べりゃ紅燐草こうりんそうの中毒症状が出てるのに藪しかいないんだからさ。


 紅燐草。軍人によく使われる薬草だ。適量を服用すれば、気分が高揚して恐怖心が薄れる。飲み過ぎれば死ぬ。蓮葉も使ったことはあった。


 ――じゃあ事故ですか。


 ――違うよ。全員飲み過ぎたってことはないだろ。誰かが混ぜたんだ。あと、一人だけ、全く中毒症状が出てなかった。


 斬られて死んでいたのは一人だけ。蓮葉と同じくらいの、若い女。


 ユジは目を見開いた。

「そんなこと」

「解剖すれば分かるんです。解剖。死体を切り開く、ことです」

「死体を――」

 そんなことを、とユジは絶句する。何百と殺しても、死体を切り開くことへの忌避感は同じらしい。


 不意に、風圧を感じた。一瞬後、息が詰まる。呼吸ができない。喉に、ユジの手が食い込んでいる。


 周囲にいる人々が騒ぎ出す。蓮葉は声も上げられない。目の前に、凍ったような翠の瞳がある。青ざめた顔で、ユジは言った。

「――殺してくれ。剣を取って。今なら罰されない」

 蓮葉に言っているのだろうか。

 でも、剣を掴んだ手は動かない。今ならユジを殺すのは容易だし、たぶんこの状況なら見逃してもらえる。

 でも。


「――何やってるんですか!」


 心底驚いたような声が聞えた。

 直後に、蓮葉は解放された。突き飛ばされたユジが床に蹲っている。顔をしかめて左腕を押さえていた。突き飛ばしたのは、――蓮葉は記憶を引っ張りだす――蔡という、書士だ。

「大丈夫ですか」

 蔡が蓮葉に言う。なんとか頷いたが、言葉が続かなかった。

「どうして」

 戸惑ったように蓮葉とユジを見比べている。蓮葉はやっと、「気にしないでください」と呟いた。

「私が侮辱するようなことを言いました。この件は不問にします。腕が痛むなら、丹惟先生に診て貰いましょう」

 そう言っている自分が、まるで自分ではないようだった。

 縋るように蓮葉を見つめるユジの顔に、失望が浮かぶ。

 どうしてこうも人間らしいのだろう、と蓮葉は思った。

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