第5話 蔡
焦点の合わない瞳が蔡を捉えた。
「……ここは」
琦震国の弓震学台だ、と丹惟が言った。左腕の具合を診ている。その様子を不思議そうに眺め、それから不意に、ユジは目を見開いた。
「左腕――」
「なんだ、痛むか?」
「――いや」
そういえば、斬ったんだった、と力の抜けた声で呟いた。それから、生気の無い硝子玉のような目で蔡と文浩を見る。
「……俺は殺されないのか……どうして、こんなところに」
訛りの無い琦震国の言葉だ。コダの人間には大体きつい訛りがあるが、どこかで習ったのだろうか。どうでもいいことをぼんやり考えていると、文浩が例の眠たげな口調で言った。
「さあね。君が妙な状況で捕まったから、調べてるんじゃないの。あるいは――」
ちらっと背後の扉を気にして、文浩は口を噤んだ。何を言いかけたのだろう。
「妙な状況……」
「君の仲間は全員死んで、君だけが生き残ってた。何があったんだろうって」
「ああ……」
ユジは思い出そうとするように目を細める。ゆるゆる首を横に振った。
「何も……あなたたちには関係ない。さっさと、殺してくれれば良かったのに」
「蔡、捕虜ってどうなるんだっけ?」
「……労働に就くか、あまりに罪が重い場合は死刑が一般的です。あなたの罪状を見る限りは、死刑かと」
「だってさ」
ユジは俯いて笑う。あけすけな物言いに、丹惟が顔をしかめた。
「おい、やめろ、文浩」
「なんでさ。この人、人殺しじゃないの?」
「お前は関係ないだろ。それに、俺の気分が悪くなる」
「はいはいそうですか」
文浩は肩を竦めた。ユジはまったく構わず、ぼんやり宙を見つめている。何を考えているのか分かりにくい人だと蔡は思う。
「――峠は越したな。痛みを抑える薬を後でやるから飲めよ」
丹惟の言葉にユジは小さく頷き、それから訊いた。
「俺の国は、どうなった」
丹惟と文浩は蔡を見た。たぶん、二人は知らないのだ。一瞬迷い、結局、ありのままを言った。
「今はもう、無いです。コダ国はこの国に服属しました」
「そう――なのか」
諦めたように言う。実際諦めるしかないだろう。たぶん、『黒牙』が全滅しなかったところで、コダが負けるのは時間の問題だった。
「先生方、よろしいですか」
後ろから声がした。振り返ると、女が立っていた。文浩が嫌そうに顔をしかめる。あいつ軍の人間だよ、と蔡に向かってこっそり囁いてきた。女は気にせず、ユジに向き直った。
「あなたにお聞きしたいことがあります」
ユジは特に何の反応もしない。丹惟が抗議するように声を上げた。
「起きたばっかりじゃ無理だろう。尋問するなら、もうちょっと回復した後だ。峠越したとはいえ、何かの拍子ですぐ悪くなるぞ」
女は迷うように一瞬目を泳がせる。生かす意思があるのか、とその様子を見て蔡は意外に思った。
この国は、思った以上に法というものを遵守する。普通なら即刻殺すはずのユジを、連れ帰って治療させただけでなく、これから先も生かす意思があるのはかなり例外的なことだ。
「――では、尋問しても構わないと丹惟先生が判断されたら、私におっしゃってください。それまで監視の人間を付けさせていただきますが、ご了承ください」
「分かった」
丹惟は頷く。ユジはやはり、反応しない。この状況をきちんと認識できているのか、分からなかった。
図書館の卓で死んだように寝ている丹惟を見つけ、蔡はその頭を小突いた。
「ここ、眠る場所じゃないですよ」
「……仕方ねえだろ。医院はどこも煩いんだ」
三日ぶりの睡眠だったのに、と眠そうに目をこすっている。コダとの戦いで重傷を負った兵士の治療で追われているらしい。それでも、ここの医院では治る人間より死んでいく人間の方が多いから、精神的にもだいぶきついのだろう。
「文浩は? 一緒じゃないんですか」
「俺とあいつがいつも一緒にいるみたいな風に訊くなよ。自分の研究室にでもいるんじゃないか」
何か用か、と丹惟は蔡を見上げる。蔡は丹惟の前に座り、脇に持っていた本を置いた。
「――ずいぶん古い本だな。俺、古字は読めないぞ」
「昔の法令集です。法士の方にお借りして」
「お前、そっちも首突っ込んでるのか? 見境ないなあ。医学教えてくれって話なら、文浩に頼めよ」
「お二人には頼みませんよ。そもそもそんな話じゃなくてですね、気になったんです、ユジの待遇」
丹惟は眉をひそめた。
「特別扱いされてるってことか?」
「平たく言えば。でもさすがに、法に背いているのはどうかと思うんです。尋問した後も処刑するかどうか怪しいでしょう。何より法士が反対すると思うんです。で、法士に訊いてみました」
「見上げた行動力だな」
「そしたら、過去に事例があったんです。私は見落としましたが、この法」
本を開き、ある一文を指差す。丹惟は目を細め、苦労して読んだ。
「あー、……兵? って書いてあるか? だから古字読めねえって」
「
「ふうん。でも規定されてるかどうかなんて重要か?」
「重要ですよ。こういう制度があった、だから正当性を得るんです」
「お前は処刑した方がいいと思ってるってことか?」
「はい」
丹惟は蔡を見た。少しだけ驚いているように思えた。
「……あの人は、どうあっても罪人です。この国に捕まった時点でそれが決まったんです。なのに覆すのは、国にとって良くない。そういうのは綻びになります」
「綻び」
「国の体制なんて、ちょっとしたことで崩れるんです。ユジの存在はたぶん、そうなってしまう。体内に異物が入った、ということです」
丹惟は少し笑った。なるほど、と呟く。
「書士らしい考え方だな。俺は難しいことは分からん。だが、俺は命を助けるのが仕事だから、誰であっても処刑は嫌な気分になる。おまけに、俺自身が必死で助けた奴だぞ」
「ユジは人殺しなのに」
「俺が救ってる人間の九割が人殺しだ。で、俺は偏った思想を持ってるわけだから、人殺しだからといって必ず処刑、ってのはなんか気分が悪い」
なあ、と丹惟は蔡を見た。
「どこからが処刑していい人間だろうな? お前、散々そういう話も読んだんだろ。分かったか?」
「――分かってたら、とっくにこんなところ出てます」
そうだよなあ、と丹惟は笑う。
「ここは業の集まりだって文浩が言ってた。その通りだ。業の深い俺たちが、ユジのことをどうこう考えようが、判断なんてできるわけがない」
そもそも誰が裁けばいいんだろうな、と丹惟は呟く。
蔡は答えられず、口を噤んだ。
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