第2話 瑛青

 瑛青えいせいは屈みこんで呻いた。泥と血の臭いがする。後ろを歩く男が怒声を上げ、瑛青の背中を蹴った。

「さっさと歩け!」

 よろよろと起き上がると、思い切り突き飛ばされる。辛うじて倒れ込みそうになるのを堪え、瑛青は前を向いた。


 地獄だ、と思った。酷い戦場だった。北端にある山間の国、コダ国とはずっと争ってきたが、こんなに激しいものは初めてだ。

 今回で決着をつける、と告げられたのを思い出す。コダには、琦震国には少ない鉱山資源が大量に存在する。手に入れられれば、莫大な利益を生むだろう。瑛青だって分かっている――だが。


 ――どうして俺が。


 鉱山だなんてどうでもいい。ひたすら怖かった。早く国に帰りたい。だってこの先には、『黒牙こくが』が待っている。


 琦震国と小国のコダ国では戦力の差は歴然としていた。それなのに今まで潰しきれなかったのは、コダにある『黒牙』と呼ばれる部隊のせいだった。山岳での戦いでは勝ち目が無い。だから、今まではコダに入る前の山岳地帯で足止めを喰らっていたのだ。

 しかしやっと、『黒牙』を山岳から少し離れた長峻江の畔まで誘き出すことに成功した。瑛青には分からないが、敵の拠点を見つける速さといい、都合よくこちらに有利な戦況といい、向こうに間諜がいるようだった。今回は倒せるかも、と軍の士気も上がっている。

 だが、平野に下っても彼らは強かった。何度か撤退を繰り返し、今は、四度目の突撃だ。


 『黒牙』を率いる男は、ありえないほど強かった。何度か遠目に見たが、そのたびに恐ろしくなった。正確に急所を突く腕は人間離れしていたし、隊の立て直しも撤退の判断も鋭い。

「――あいつさえいなければ」

 思わず言葉を零す。あいつさえいなければ、瑛青がこんな思いをすることも無かっただろう。コダの制圧なんて一日で終わる。国に帰って、家に帰って、妻と息子に会って――。


 瑛青の夢想は、前方から聞こえてきた異様なざわめきに打ち消された。急に、隊列の歩く速度が遅くなる。戸惑うような空気が流れた。

「おい、なんだ? 何があった」

 後方から苛々した声が飛ぶ。瑛青の前の男も足を止めた。指示が来ない。しばらく待っても伝達の一つも無かった。会敵したわけでもなさそうだ。何人かが前方に向かって駆けて行く。

 お前行ってこい、と誰かに小突かれた。散々歩いて疲れているから、ここは下っ端に押しつけようということなのだろう。文句を言うのを我慢して、瑛青は駆け出した。

「何があったんですか――」

 先頭には、思ったよりも早く辿り着いた。先頭では完全に隊形が崩れていて、誰もが前方を見てざわめいている。不測の事態が起こったというには緊張感が無さすぎる。どちらかというと、戸惑いが多数を占めているようだった。

「すみません、ちょっと」

 誰かに返事をもらうより、自分で見た方が早い。そう判断した瑛青は、人混みを掻き分けて前へ出た。前に進むにつれ、酷い死臭が強くなっていくのに気がついた。鼻が曲がりそうなほどだ。ここで戦ったわけでもないのに――。


 前に出た瑛青の目に飛び込んできたのは、黒い山だった。本当にそう見えた。それが折り重なった人の死体だと気づいた時、見慣れていたはずなのに、吐きそうになった。


 死体が、地面が見えないほど大量に横たわっている。『黒牙』の特徴的な、黒くて裾の長い詰襟の着物を着ていた。何人死んでいるのだろう、と瑛青はぼんやりした頭で考える。部隊の一部――には見えない。全滅したのか、という声が聞えた。そう、それくらいだろう。傍を流れる長峻江にも、何体も死体が浮いている。

 明らかに異常な光景に、誰もが動けなくなっていた。戦ったわけでもないのに、敵が全滅している――。それが、こんなに恐ろしいことだとは思わなかった。

「――とりあえず、生きている者がいないか確認した方が――」

 誰かがそう言った。しかし、途中で言葉を呑む。黒い死体の山を乗り越えるようにして、こちらに向かってくる人影があった。


 日に透けて、金色の髪が輝くのが見えた。眩しそうに目を細めている。頭から血を被ったように全身赤黒く染まっていたが、表情はむしろ、穏やかだった。


 ――あれは。


 彼は、途方に暮れたように死体の山を眺めていた。ぞっとするほど整った顔のせいで、邪気が無いように見える。それから彼はこちらを見た。瑛青と目が合ったような気がした。困ったように微笑した後、無造作に腰の剣を引き抜いた。


 たったそれだけの仕草で、緊張が走る。こちらは呆れるほど無防備だった。あっちは一人だ。それなのに直感的に、勝てない、と思った。逃げ帰りたい衝動に駆られる。

 しかし彼は、右手に剣を持ち変えると、自分の左腕を真っ直ぐに伸ばし、剣を振り上げた。

 ――何を、

 気づけば叫んでいた。ひどく恐ろしかった。自分の左腕を見据える彼は、なんの迷いも無さそうに見えた。ひどく人間離れしていて、現実味が無い。その一瞬がまるで儀式めいていて、誰も動けずに、ただじっと見ていただけだった。


 『黒牙』のかしらは、仲間の死体の真ん中で、自分の左腕を斬り落とした。

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