檻の祈り
陽子
第1話 ユジ
濃紺の夜空に、薄く刷いたように一面、星が散っている。
零れ落ちそうなほどの星の数だった。
世界の北端にある小さな国、そのさらに辺境の山岳地帯が、ユジの故郷だった。
「どうしたんですか」
手に帳面を携えた
「こんなにたくさん、星を見たのは初めてだ」
「綺麗でしょう。コダでは見なかったのですか」
「夜には外に出ない。寒いから」
なるほど、と呟きながら、蔡はその場に座り込んで何か書き付け始める。覗き込むと、よく分からない数式が見えた。
「――それは?」
「暦の計算です」
「こよみ」
年に一度配られる暦を思い出す。こうやって誰かが計算しているものだということが、不思議だった。この日から種を撒けばいい、この日から寒くなる、この日に収穫しろ、と暦はなんでも教えてくれる。それが、こんな数式から導き出されるのだという事実が、ユジにはひどくそぐわないことのように思えた。
「暦は天から授かるものだと思っていた……」
「そう言う国もありますね。でも、そんな国にしても誰かが作っているんですよ」
顔を上げずに蔡は答える。ユジは僅かに苦笑した。
「ここにいると、自分が何も知らないんだと身に沁みる」
そこで、蔡は初めてユジをまっすぐに見た。黒い瞳に夜空が映っている。賢そうな目だ、とユジは思う。蔡を見ると、かつての――部下を思い出した。
「私も知らないことばかりです。そもそも、暦は別の人の担当です。やり方を教わって、やってみてるだけなんです」
「どうして」
「――知らないことばかりなのは、不安だからです」
蔡は目を伏せた。へえ、とユジは口の中で呟く。真逆だ、と思った。知らないことは多い方がいい。その分、苦しい思いをしなくて済むからだ。
「……ここでは、担当が決まっているのか。暦はこの人、とか」
会話を繋ぐため、ユジは何となくそう訊く。蔡は頷いた。
「そうです。暦は
ユジは左腕を押さえる。長い袖に隠れているが、その腕の肘から先は存在しない。朦朧とした意識の中、縛って止血されたことを思い出す。止血した医士――
「古書研究というのは、何をするんだ?」
それ以上腕のことに触れて欲しくなくて、ユジはさりげなく話題を変える。蔡は初めて筆を置いた。
「ざっくり言うと、ひたすら古い記録を解読するだけです。何年前のどの日に何があったのか、とか。それを纏め直します」
「それをやって、なんの役に立つ? 別に、必要になるわけじゃないのに」
「そんなことありませんよ。何か災害が起こった時なんかは、過去の対応を見て参考にすることもありますし。それに、過去の積み重ねが、今ですから。自分が一体何の上に立っているのか、気になりませんか」
「何の上に――」
「来歴不明のものは、不気味でしょう。自分の立っている土地で何があったのか、自分の暮らす国がどんな風に出来たのか、自分がどんな場所で生まれ育ったのか――それを失うと、きっと、みんな不安定になると思うんです」
ユジは瞳を揺らした。この国――
「……過去なんて消えた方が、生きるのが楽だ」
「そう言う人もいます。意見が違うだけです。――忘れたいんですか?」
そう問われて言葉を詰まらせた。全て忘れたら、きっと何も残らないのだろう。ユジの全ては過去にあって、これから先には何も無い。
「みんな、噂してますよ、あなたのこと」
「……部下を皆殺しにして捕まった、間抜けな敵国の軍人って?」
「そうですね、まあ」
迷うように蔡は小さく首を傾げ、言った。
「――気が狂ったんだって。みんな怖がってるんです。ひょっとしたら殺されるかもしれないって」
ユジは俯いて微笑する。
「左腕が
「自分で斬り落としたんでしょう。どうしてそんなことしたんですか」
「そういうこと、訊くのか。今まで訊かなかったのに」
「私は知りたがりですし、ここはそういう人ばかりです」
蔡は肩を竦めて言う。実際その通りだ。琦震国の弓震学台は、他国でも有名な場所だった。琦震国の頭脳、と呼ばれ、優秀な学者が集められて研究を行っている。医院なども併設されていて、最先端の技術が日々生み出されていた。
「どうして俺はこんなところで生かされているんだろう……」
ユジは呟く。
「ひょっとしたら、琦震国の為に戦ってもらう気かもしれませんね」
冗談なのか何なのか、蔡はそう言って笑う。無理だ、とユジは首を横に振った。
「利き腕が使えない。剣もろくに振れないだろ」
「そうですか?」
怪しむように蔡は目を細める。ユジは逃げるように目を逸らした。
――きっと、また戦えるようにはなる。
方法なんていくらでもある。首ではなく左腕を落としたのは、ユジの未練の現れなのだ。戦えと言われて武器を渡されれば、簡単に従ってしまいそうな自分が怖かった。
でもユジは部下を殺した。累々と横たわる死体の中、ユジは茫然と突っ立って、そのまま捕らえられた。その光景が繰り返し繰り返し、目の前で瞬いている。
二度と、あんな場所には戻りたくなかった。
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