ラフマニノフの前奏曲
増田朋美
ラフマニノフの前奏曲
今日もまた暑いひであった。富士市ではないけれど、どこかの県では、36度まで上がったらしい。偉い人たちは、このままいくと、地球の平均気温が一度上がるとか宣言しているらしいが、杉ちゃんたち一般庶民には、そんなことを言われても、困るだけなのであった。
さて、そんななか、杉ちゃんがいつも通り水穂さんに、茶碗蒸しを食べさせようと、躍起になっていたところ。
「こんにちは。右城先生は、いらっしゃいますか?桂です。今日は、あるお弟子さんの、演奏を聞いていただきたくて来ました。」
と、玄関から若い男性の声がした。杉ちゃんたちは、あれ、浩二くんが何しに来たんだろう?と顔をみあわせた。
「浩二くん、どうしたの?」
と、杉ちゃんがいうと、
「こちらの方の演奏を右城先生に聞いていただきたくて。お名前は、森下正さんで、御年、80歳です。」
と、浩二は、にこやかに笑っていった。
「あいにくのところ、いま食事中なんだがな?」
と、杉ちゃんがいうと、
「じゃあ、食事が終わるまで待たせていただきますから、ぜひ、森下さんの演奏を聞いてやってください。」
と、浩二は話を続けた。森下さんといわれたおじいさんが、申し訳なさそうに頭を下げる。
「そんなに、頭を下げないでもかまいません。より緊張感があった方が、演奏が映えるものですし、いま演奏してもらえませんか?」
水穂さんが、よろよろと、布団の上に起きた。ほんならそうしようということにして、森下さんは、グロトリアンのピアノの前に座った。
「では、ラフマニノフの前奏曲op23-5を弾かせていただきます。」
森下さんはそういって、ラフマニノフの前奏曲op23-5、ト短調を弾き始める。
「な、なんか演歌みたいな曲だな。」
と杉ちゃんが、いうように、ずんたかたった、ずんた、ずんた、のリズムを繰り返すので、確かに昭和歌謡曲に近いものがあった。中間部は、ラフマニノフらしい物悲しい雰囲気であるが、その前後は確かに演歌のようであった。
演奏が終わると杉ちゃんたちは、拍手をした。
「いやあ、ありがとうございます。こんな演奏で、拍手がもらえる何て。夢みたいですよ。」
「夢みたいなんて、そんなことを言ってはいけませんよ。これから、コンクールに出るんじゃありませんか。いまよりもっとよい演奏をする人がたくさんいますよ。」
森下さんがそういうと、浩二は急いで訂正した。
「コンクールに出るんですか?」
と、杉ちゃんがきくと、
「はい、ピティナのシニア部門に出場してもらうことになっています。今日は、その事前練習で、こちらに来させてもらったんです。」
と、浩二は説明した。
「どうですか、右城先生。なにか、改善すべき点などありましたら、何なりと仰っていただきたいのですが。」
「そうですね。」
水穂さんは、なにか、考えたようすで、少し黙った。
「もう少し上の音を響かせたらどうでしょうか。この曲は音が多いため、それをしないと、ただのうるさい音楽になってしまいますよ。」
「さすが、右城先生ですね。ピアニストの方にみてもらうと、全然違うものです。先生、よいヒントをありがとうございます。」
浩二がそういうと、森下さんもありがとうございますといって、水穂さんに、頭を下げた。
「そんな、たいした指導じゃありません。ただ、音楽として、提案しただけのことですから、あまりきにかけずに、演奏してください。」
水穂さんは、謙虚な姿勢でそういったのであるが、森下さんはとても嬉しそうだった。
「本番は、もっとより良い音楽が演奏できるといいですね。
ラフマニノフは、最近流行りですから。ロシアものって、はまってしまう人がおおいんですよ。なんだろう、物悲しい感じだからかな。」
浩二がそう言うと、水穂さんが、もう疲れてしまったのか、少し咳き込みだしたので、
「ああ、もう帰らないといけませんね。ピティナは、非公開のコンクールじゃありませんから、右城先生もお時間があればぜひ、見に来てください。」
と、浩二は、杉ちゃんにチラシをわたして、森下さんと一緒に立ち上がった。水穂さんは、咳き込んでしまっていて、お返事どころではなかった。浩二は、こうなることは知っていたからさほど驚かず、またきます、といって、四畳半をあとにした。森下さんの方は、いまどき珍しいなという顔をしていたが、
「あんまり口に出して言わないでやってくれよ。昔ほど怖い病気ではないという言葉は、こいつには毒だよ。」
と、杉ちゃんが言ったため、なにもいわなかった。
そのころ、蘭はマーシーのピアノ教室に呼び出されて、マーシーこと、高野正志の家にいた。生徒さんの中にはコンクールで賞をいただいた人も多いので、優秀指導者などをもらっている、ピアノ教師のマーシーだったが、いずれも辞退していた。
「なんだよ、急ぎの相談事って。」
と、蘭がいうと、
「じゃあ、白鳥さん、カプースチンの、トッカッティーナを弾いてみてくれ。」
白鳥さんと呼ばれたピアノの前に座っていた女性は、ピアノを弾き始めた。確かに、カプースチンのトッカッティーナなんだけど、調性もなければ和声もなく、いわゆる現代音楽の典型であった。これでは、ピアノをひくというより、上からひっぱたいているといった方が正しいかもしれない。
「はあ、すごい曲だな。シンセサイザーなんかでやれば面白いかも。」
と、蘭はマーシーに感想を言った。マーシーは、ほらね、という顔をして、
「だから、言ったでしょ、カプースチンなんて、コンクールでは使えないんだよ。こんなピアノをハンマーで叩くような曲は、コンクールではやめた方がいい。それよりも、もっときれいな、ショパンとか、そういうものがいいよ。」
といった。
「これをコンクールでひくつもりだったのか?」
蘭が驚いてそういうと、
「そうらしいよ、独創的なものでないと勝てないといったら、こんな曲を持ち出してきた。こんなもの、早くやめさせなければと思って、蘭にも来てもらったんだ。」
と、マーシーは、いった。
「まてまて、まず始めに彼女の気持ちを聞いてみるべきじゃないの?なんでカプースチンを選んだのか、きいてみたのか?」
蘭がそういって、彼女を、弁護した。確かにカプースチンは、全く無名に近い作曲家で、よほどマニアでなければ弾かないと思われる人物でもある。
「だって、独創的で難しいのをやらないと勝てないと言ったのは、先生じゃないですか。だから私はカプースチンを持ってきたんですよ。」
そういう白鳥さんに、
「ちょっと意味が違うんだけどね。個性的な作品といっても、ピアノをトンカチで叩くような曲を持ってこいとは言わなかったよ。」
マーシーは、困った顔で言った。
「はあ、そうなんですか。それでは、ちょっと困りますね。確かにカプースチンの曲は個性が強くて面白いんですけど、ちょっと強烈すぎるというか、そういうところがあります。何か別の曲をやったらどうですか?」
蘭が、そういうことを言うと、白鳥さんと言われた女性は、
「他に何も思いつかないんです。コンクールに出られるのも、一生に一度だけで、それで、必ず入賞しなければならないとなると。」
と、小さな声で言った。
「そうですね。こういうときは、素直に先生である高野正志さんに任せてみると言うのも、一つの手ですよね。」
蘭はできるだけ優しくそういうことを言った。
「それに、コンクールは一生に一度だけしか出られないということもありませんし、必ず入賞しなければならないということもありません。何を勘違いしているのかな。」
と、マーシーが言った。
「そうだねえ。」
蘭も小さくつぶやく。
「まあ、気合を入れるのはいいけどさ、それよりも、楽しむことを忘れないでね。無理してピアノをトンカチで叩くような曲をやらなくたっていいんだよ。」
蘭が、そう言うとマーシーは、もうその言葉、何回も言っているのにという顔をした。身近な人よりも、遠縁の他人に言われたことのほうが、頭に残っているのはなぜだろう。
「それでは、先生。私、何を弾いたらいいのかしら。コンクールに出るわけだから、とても派手な曲でないと、だめでしょう?」
「まあそうなんだけどねえ。それにこだわりすぎる必要もありませんよ。まあ、さほど大曲をやらなくても、入賞できる可能性は十分ありますよ。そういうことなら、えーと、これなんかどうですか?」
と、マーシーは、本棚から楽譜を一冊出した。
「あ、これ、演歌みたいな歌ということで、一斉を風靡した曲ですね。」
蘭は、すぐマーシーに言った。そのタイトルは、ラフマニノフの前奏曲OP23−5であった。
「あ、あたしが、こんなものできるんでしょうか?」
白鳥さんは、マーシーに尋ねる、
「ええ大丈夫ですよ。それは僕が保証します。このくらいの作品をやれるほど、あなたは十分演奏技術があります。」
と、マーシーは白鳥さんに言った。
「ありがとうございます。それでは、その曲、やらせていただきます。あたし、頑張ってやってみますから、先生、ご指導よろしくおねがいします。」
と、白鳥さんは、改めて頭を下げる。
「じゃあ、早速、来週のお稽古から、この曲をやってみましょうね。譜読みで大変なところがあったら、遠慮なく言ってくれて結構ですよ。そういうことはお気軽に問い合わせてください。」
マーシーはにこやかに笑って、彼女に言った。そして、彼女に、スマートフォンで楽譜を撮影させて、それを印刷してくるように言った。マーシーは、正式な紙の楽譜を持ってこなくてもいいようにしている。楽譜を購入できる人ばかりではないことを、マーシーは知っているのだ。
「わかりました。それでは、ちゃんと、やりますから、よろしくおねがいします。」
と、彼女はとても嬉しそうに言った。蘭は、やれやれ、一件落着か、と大きなため息をついた。
そして、迎えたコンクール当日。
蘭はまた、マーシーに呼び出されて、白鳥さんについていてあげてくれと頼まれ、彼女と一緒に、コンクールが行われる、市民文化センターに行った。
コンクールは、確かに公開で行われていたから、出場者の演奏も聞くことができるし、他の出場者の演奏も聞くことができるようになっている。つまり、お客さんは出入りがいつでもできるようになっているということだ。蘭が、車椅子専用の席に座ると、
「よう、蘭!誰か、お目当ての美女でもいるのか?」
と、いきなり声をかけられてまたびっくり。
「いや、美女というわけでもないけどさ。杉ちゃんは、どうしてここにいるんだよ。」
と、蘭が急いで聞くと、
「ああ、ただ、浩二君のお弟子さんで、森下正さんというおじいさんが、このコンクールに出場するので、応援に来ただけだ。」
と杉ちゃんが答える。その近くの席には、浩二の姿が確かにあった。
「ああ、そうなのか。で、杉ちゃんの応援する人は、何をやるの?」
と蘭が聞くと、
「ラフマニノフの、前奏曲OP23−5だよ。」
と、杉ちゃんは即答した。何!同じ曲ではないか!コンクールだから、そういうことが起きてしまうのは仕方ないことだが、不人気な演歌みたいな曲を、他の誰かが弾くとは思わなかった。
「どうしたんだよ。もうすぐ、森下正さんの演奏始まるよ。そんなこの世の終わり見たいな顔して、何があったのよ。」
杉ちゃんに言われて蘭は、その人が、極端に下手であればいいのになあと思ってしまったのだった。
「それでは、エントリーナンバー5番、森下正さんの演奏です。曲は、ラフマニノフ作曲、前奏曲ト短調、OP23−5です。」
と、司会者が、声高らかにアナウンスした。やがて、どこかのおえらいさんかと思われそうなおじいさんが、舞台にやってきて、一礼し、ピアノの前に座った。そして、鍵盤を布で拭いて、演奏を始めた。それが、大変上手な演奏で、やっぱりラフマニノフは男の人のほうが向いているのがよく分かる演奏であった。本当に上手だなあと思われる、堂々とした男らしい演奏である。なんだか、日本の楽曲に強引に例えて言うのであれば、兄弟船というところだろう。
「さすが、森下さんだね。やっぱり水穂さんが太鼓判を押すだけあるな。」
と、杉ちゃんが思わずつぶやくほど演奏は上手だった。演奏が終わると、お客さんたちは、ブラボーと言って、彼の演奏を大きな拍手でたたえた。森下さんは、年齢を感じさせない、堂々とした態度で、舞台袖に戻っていった。
その次は、別の人物が全く違う雰囲気の曲を弾いて、いよいよ白鳥さんの番である。
「エントリーナンバー七番、白鳥絵美子さんの演奏です。曲は、ラフマニノフ作曲、前奏曲ト短調、OP23−5です。」
司会者が、森下正さんと同じように、曲の紹介をする。蘭は、あの女性が、先程の森下さんの演奏のせいで、絶対自身をなくしていることは、明らかになったなと思った。事実、彼女は、とても小さくなっていて、自信がなさそうな表情で、ピアノの前に座った。それから、前奏曲を弾いたのであるが、たしかに森下正さんの演奏に比べたら、音量もないし、迫力もないし、音のバランスも悪かった。明らかに、前に演奏した、森下正さんのほうが数段上であった。でも、彼女は、それでも、ちゃんと最後まで前奏曲を弾いた。それだけでも今回は、良かったのではないかと蘭は思った。
それから、残りの3名が演奏して、コンクールは終わった。続いて結果発表と表彰式に移る。舞台に司会者が出てきて、
「それでは、皆さんの演奏が無事に終わりました。結果発表を行います。第三位、三番、遠藤希さん。第二位、八番、今井明さん、第一位は、五番、森下正さんです。」
と、高らかに結果を発表した。やっぱりなと蘭は思った。この三名は、際立って演奏がうまかったからだ。
「それでは、今名前を呼ばれた皆さんは、舞台に並んでください。」
と、司会者に言われて三人の受賞者は、舞台の上に上がった。そして、主催者から、それぞれ賞状をもらった。
「それでは、優勝インタビューに移ります。第一位の森下正さんに伺います。優勝おめでとうございます。」
もう、こうなると、勝った人にしか目を向けなくなるのが勝負の世界だ。それは、蘭もタトゥーコンペディションで優勝したときそうだったから、それは、しょうがないことだと思う。出演者席に座っている、白鳥さんになにか声をかけて上げたかったが、蘭にはそれができなかった。
「ありがとうございます。」
と、森下さんは言った。
「歴代最年長での優勝ですが、お気持ちはいかがですか?」
司会者に言われて、森下さんは、ちょっと戸惑ったような笑顔で、
「はい、なんだかわけがわからないうちに勝ってしまって。どうしたらいいのかわからないでおります。」
と、言った。
「演奏が終わったとき、どんなことを考えていましたか?」
司会者にいわれて、森下さんはちょっと考えるような仕草をして、
「はい。負ける人のおかげで勝てるんだと思っていました。私と同じ曲をやっていた方の演奏を聞いて、大変勉強になった気がしました。どんな勝負でも、負ける人がいて、勝つ人がいる。これを忘れないで、演奏をしたいと思っています。」
この意外なセリフに、蘭は、そういうことを言ってくれてよかったと思った。このおじいさんは、負けることの尊さを知っている。きっと、そういう経験をしたのだろう。
「それでは、今回の優勝を記念いたしまして、これからピアノをやっていこうという方々に、なにか一言お願いします。」
と、司会者に言われて、森下さんは、
「はい。勝って兜の緒をしめよ。これを忘れずに、一日一日を大事にし、ピアノを楽しんでください。ピアノは何よりも、楽しんでやることが一番だと思います。」
と、にこやかに笑っていった。その顔は、まるで能面の翁のような、超人的な顔だった。
「ありがとうございました。本年度の優勝者は、森下正さんでございました。皆様、森下さんに温かい拍手をおねがいします!」
司会者がそう言ったので、お客さんたちは、大きな拍手をする。森下さんはガッツポーズもしないで、ただ頭を下げた。蘭はその姿を見て、人間もこういうふうに老いたいと思った。
それを持って、コンクールは閉幕した。優勝者の森下正さんも、他の入賞者も報道関係からのインタビューを受け答えするのに忙しそうだった。その間に、白鳥絵美子さんが、蘭のところに戻ってきた。
「お疲れさまでした。」
蘭は、彼女に声をかけた。
「はい、今回は、あのおじいさんの圧勝だったと思います。私は全く歯が立ちませんでした。今回は、ボロ負けです。」
白鳥さんは不思議とないていなかった。蘭は、そんなに泣かなくていいんだといってあげるつもりだったので、予想外の反応に答えが出なかった。杉ちゃんの方は浩二と一緒に、優勝した森下正さんのインタビューが終了するのを待っている。なんだか杉ちゃん、ちょっと嫌だなと蘭は思ったのであるが、彼女は爽やかな顔をしていて、何も後悔していることもなさそうだった。
「大丈夫ですか?」
と、蘭は白鳥さんに聞く。
「はい、今日は、あのおじいさんと、肩を並べることができてよかったと思います。私なんて、足元にも及ばないのに、おんなじ曲をやることができたんですから。」
白鳥さんは、にこやかに笑っていた。
「あたし、カプースチンとか、そういうことを言ったけど、今回は、ラフマニノフの前奏曲をやることができて本当に良かった。すごくいい勉強をすることができたから。」
不意に彼女がそういうことを言った。もしかしたら、やっぱりカプースチンのほうが良かったというのではないかと思っていた蘭は、彼女がそんな意外なセリフを言うとは、思いもしなかったので、大いに驚いてしまう。
「ありがとうございました。勉強ができて私は幸せです。蘭さん帰りましょう。」
彼女は、インタビューを受け続けている、入賞者たちを眺めながら、そういったのであった。蘭は、彼女に本当はそうなってほしかったと思ったので、なんだか彼女がかわいそうになった。でも、彼女は悔いはない様子だった。蘭は、いつの間にか、演奏した本人よりも、自分のほうが悔しがっていることに気づいた。
ラフマニノフの前奏曲 増田朋美 @masubuchi4996
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