#140字小説「口紅」

 カクモンに登録していない真緒も、自作を読んでくれている。

 普段は予約した時間にログインしないが、ちゃんと投稿できているか確認してしまう。教室で一人ほくそ笑んだ。


 読んだ足跡が残っていなくても、閲覧者はいたんだな。


 インターネットの世界は広い。自分の放つ言葉が沈む光景を、何度も見てきた。行き場のない苛立ちから攻撃されたとき、存在意義が分からなくなった。

 だから俺は、支えてもらう資格のない人間だと思っていたのかもしれない。


 真緒のように、何も言わずに応援してくれる人がいる。山椒の木さんのように、空白期間に声を掛けるのをためらう優しい人がいる。


 アンチに惑わされて、大切なものから目を背けていた。俺はこんなに幸せだったんだ。


 スランプを断ち切れてよかった。きっかけを作ってくれた有紀さんには、いくら感謝の言葉を伝えても足りない。俺はSNSをチェックする。


 藤堂有紀@yukitoudou

 #140字小説「口紅」

 口紅が折れた。新品を惜しむより先に、中途半端に直した唇と指先のラメを拭う。浮気。それが何。一晩きりの関係を持っても、私は誠治が好き。「相手は社長令嬢だぞ。タクシーで送った僕に下心があった、なんて言われたらクビだ」私は手切れ金の珈琲代をつまむ。両思いのリップなんて嘘つきだ。


 投稿時間は今日の四時。俺との会話から四時間も経っていない。有紀さんの負担になった気がして、胸が痛んだ。


「天城くん」


 隣の犬山萌が肩をつつく。顔を上げると、目の前に担任が立っていた。


「学年首位だからって、スマホ依存はよくないぞ。ホームルーム前には鞄に入れなさい」

「すみません」


 弱みを握ったように、教室中が騒がしくなる。俺は低姿勢でやり過ごした。ネットと比べれば、これくらいの視線はどうと言うことはない。

 私が早く教えていれば。犬山が囁いたような気がした。




 目元を覆う前髪に、ぼさぼさのセミロング。それが犬山の見た目だ。自分からモブキャラの道を進んでいると判断していいだろう。だが、意志を伝える力は持っていた。以前、ヘアピン付けてあげよっかと言うリア充の気まぐれを、これが落ち着くからと一蹴していた。


 観察対象として興味深い隣人は、活用形を思い出せずに困っているらしい。指を折ったり、シャーペンを回したりしている。


「では次の問題を犬山さん、答えてください」

「ひゃい」


 俺はふせんに答えを書いた。犬山に見える位置に貼り、落とした消しゴムを拾う演技をする。


「あ。完了の助動詞『ぬ』の連用形、です」


 先生の視線が他の生徒に移った後で、犬山は前髪を右側に寄せる。意外とまつげが長かった。


 くぐもった声の隣人は美少女でした。ベタなタイトルが脳裏に浮かぶ。

 とんでもない刺客を送り込んできたな。俺は有紀さん一筋だ。量産型ラブコメはいらない。


 だが、人生という物語の書き手ではない俺に、学園イベントの進行は止められなかった。

 発動条件は昼休みに入り、弁当を机に置いたとき。


「来て」


 犬山がシャツの袖を掴んだ。


「教室でいいだろ。お腹空いたし、手短に頼む」

「屋上が好ましい」

「分かったよ。だから、手を離してくれないか」


 犬山は素直に応じた。俺が立ち上がると、足早に屋上へ向かう。風呂敷に描かれた甲斐犬のしっぽが揺れて見えた。


 告白ってことはないよな。犬山の背中を眺めながら、ぼんやりと考えていた。あの手助けで惚れさせたのかもしれない。なんて罪な男なんだ。


 屋上のドアを開けた犬山は、他に誰もいないか確かめる。無人の舞台を味わうように、真ん中に進んだ。俺は固唾を呑んで、犬山の行動を見守る。


 ぱくぱく。何か話しているが聞こえない。三歩近付いた。

 ぱくぱくぱく。耳を澄ませても、犬山の声は風に流される。屋上に移動する必要があったのか。俺は大股で犬山に近付く。


「天城くんが見ていたユーザーさん」

「有紀さんのことか」


 犬山はポケットからスマホを出す。見せられた画面は、もえにゃんという匿名アイコンの呟きだ。


「この読書垢がどうしたんだ?」

「譲渡してもらった白猫とそっくり。たぶん、母猫」


 スマホの画像を拡大すると、有紀さんのアイコンに使われている写真と似ていた。猫の品種に詳しくないが、純白の毛並みや目元が一致しているように見える。

 有益な手掛かりに対する興奮は、俺の中の頭脳担当が待ったを掛けた。


「犬山、同じような猫は世の中にたくさんいる。決めつけはよくないと思うぞ」

「オーダーメイドの首輪」


 犬山は有紀さんのアイコンをタップする。白猫が付けているバンダナは、ハンドメイド作家による一点ものらしい。


「譲渡した人って分かるのか?」

「父の取引先の人。会おうと思えばアポを取り付けられる」

「本当か?」

 

 有紀さんと直接話せるかもしれない。俺は犬山の申し出に縋りたくなった。

 歓喜の表情が浮かんだのは一瞬だけ。プライバシーを詮索しないという誓いと、有紀さんの言葉が脳内に旋回する。


「聞かなかったことにしてくれ。もし本人だったら、どう接すればいいか分からない」

「ん」


 犬山は座り込み、弁当を広げていた。



 

「母さん、遅いな」


 九時に飲み会が終わると言っていたのに。酔いつぶれた母をベッドまで運ぶ役目が果たせない。


 俺は天井に手を伸ばした。生活圏内に有紀さんがいるのだろうか。犬山の話を思い出す度、胸が高鳴る。有紀さんの方は会いたくないかもしれないが、話したい気持ちを抑えきれない。


「たっだいま~」


 上機嫌な母がふらつきながら帰宅した。玄関にあった回覧板を頭に乗せている。


「凛緖。この水色の帽子はなあに?」

「回覧板だよ。ポストに入ってた。向かいの宮田さん、最近は手渡しじゃないんだね」

「会長だったお婆さんが要支援者になっちゃったからね。同居しているご夫婦に、近所付き合いの余裕がないのかも」


 母は俺の隣に座った。


「その顔、何かあった?」


 家にいる時間の方が短いのに、母の観察眼はさすがだ。


「最近仲良くしてもらっている、フォロワーさんのことが気になって」


 俺は今朝更新された140字小説を見せる。読み直せば読み直すほど、画面の奥で泣く有紀の姿がちらつく。


「ハイヒールと口紅は、大人の証じゃないのよ。旧時代の、負の遺産」


 小説に書かれていない言葉が出てきたぞ。酔っ払いの戯言と思い、一歩引いて主張を聞いた。


「男の人だってハイヒールが似合うし、化粧映えする人はいる。特別になれる魔法のアイテムは、誰が使ってもいいじゃない」


 ドヤ顔をしているところ悪いが、その論理は今回求めているものじゃない。


「母さん、水」

「母さんはお水じゃありません。言葉を大事にしない子に育てた覚えはないわ」

 

 うんうん。そうだね。母さんに育ててもらって良かったよ。適当に頷いた凛緖に、母の目は潤んだ。受け取ったコップをあおる。


「名前みたいに綺麗な子に育って」


 美しさよりも強さがほしかった。好きな人を支えられるような人になりたかった。

 唇を噛む俺に、母は眠そうに眼を擦る。


「さっき古き遺産って言ったけど。お気に入りの口紅を、もしも壊されたら。母さんは立ち直れないかも」


 有紀さんも悲しいのかな。折れた口紅は、何を示しているの。

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