第三十一章 三冊目のラーマーヤナ

  第三十一章 三冊目のラーマーヤナ


 私は黒魔術くろまじゅつサイトの管理人かんりにんである豊田とよだへの取材しゅざいを終えると会社に戻った。オフィスの扉を開けた瞬間に電話の音が聞こえた。まるで私の戻りを待ち構えていたように鳴った電話はやはり私宛だった。


 「黒沼くろぬまさん、ちょうど良かった。電話です。」

 電話番のアルバイトがそう言って私の方を見た。私は自分の席で電話を取った。

 「もしもし。」

 「小夜さよ。」

 声の主はけいだった。まさかけいが会社に電話をかけて来るとは思わなかった。けいに仕事の話なんてほとんどしたことがなかった。会社の番号は調べたのだろうか。そもそもどうして私のスマホにかけて来ないのだろう。ああ、そうか。けいとは連絡先を交換していなかった。けいは私の家しか知らないのだ。


 「どうしたの?」

 何かあったのかと思ってそう尋ねた。

 「今日、店に来て。高槻たかつきさんも来るから。」

 けいはそう言った。店から電話をかけて来ているようだった。

 「高槻たかつきさんも来るって、どういうこと?」

 「いいから来て。じゃあね。」

 けいは楽し気にそれだけ言って、一方的に電話を切った。

 「何よ。もったいぶって。」

 私はあたたりをするように受話器じゅわきに向かってそうつぶやいた。店で一体何があるというのだろうか。


 その日、私がカルティック・ナイトに行ったのは午後七時を回った頃だった。飲みたい気分でもないのに、バーに呼び出されて行くのは不本意ふほんいだったが、気になったので足を運んだ。

 「こんばんは。」

 私はそう言って店に入ると、店の奥のカウンター席に座っていた高槻たかつきが私に気づいて手をった。高槻たかつきの相手をしていたけいもこちらを向いていた。口元にうっすら怪しい笑みを浮かべて私を見つめていた。そのうすら笑みを横目よこめに私は高槻たかつきとなりに座った。


 「こんばんは。高槻たかつきさん。」

 「こんばんは。」

 高槻たかつきは今日もブランデーを飲んでいた。

 「何にしますか?」

 けいがバーのマスターらしくそう尋ねた。

 「マルガリータ。」

 「はい。」

 私が答えると、けいは上機嫌らしくいつも以上に愛想あいそうりまいて、営業用の笑顔で返事をした。


 「随分ずいぶん機嫌きげんじゃない。」

 私がそう話しかけると、けいは無言のまま得意とくいげな顔をしてカウンター越しに一冊の本を差し出した。宝石がはめ込まれたこの世で最も美しい本。ラーマーヤナだった。

 「ラーマーヤナ!」

 私は思わず大きな声を出してしまった。取材で豊田とよだから話を聞いた時にまさかとは思ったが、やはりけいが関わっていた。


 「お客様、お静かに。」

 けいはわざとらしく口元くちもと人差ひとさゆびえて言った。ふざけている場合ではない。イラつく男だ。

 「警察署けいさつしょからぬすんで来たの!?」

 私は声を落として尋ねた。

 「違うよ。藤島ふじしま先生のところからいただいて来た。」

 けいはシェイカーに氷とテキーラを注ぎながら答えた。悪びれずにそう言ったが、藤島ふじしまから了承りょうしょうていなかったら同じことだ。藤島ふじしまけいにラーマーヤナをあずける理由りゆうはないし、この感じは勝手かってに持ち出して来たに違いない。だがおかしい。ラーマーヤナは二冊とも警察に押収おうしゅうされて藤島ふじしま手元てもとにはないはずだ。

 「藤島ふじしま先生は持っていないはずだけど!?」

 やはり警察署けいさつしょから持ち出したのではないかと思って尋ねた。

 「それが持っていたんだな。三冊目のラーマーヤナを。」

 けいはニコニコしてシェイカーを振りながら言った。

 「三冊目のラーマーヤナ?」

 私が尋ね返した。

 「よく見て。本にほどこされている装飾そうしょくが違うし、表紙ひょうしにも三と書いてある。」

 けいはそう言ったが、装飾そうしょく細部さいぶは見ていなかったし、表紙ひょうしの文字は読めなかった。

 「読めないわよ。」

 「そうだった。」

 けいは少し意地悪いじわるく笑って言った。

 「どうして圭が三冊目のラーマーヤナを持っているの?」

 私が尋ねると、横に座っていた高槻たかつきが会話に加わって来た。

 「黒沼くろぬまさん、私も今しがたその話を聞いたところです。マスター、黒沼くろぬまさんにも同じ話を聞かせてあげて。」

 高槻たかつき興奮気味こうふんぎみに言った。高槻たかつきはもう一度話を聞きたがっているようだった。

 「喜んで。」

 けいは白いマルガリータを私に差し出しながら言った。


 「どこから話そうか?」

 けいが楽し気に言った。

 「寝ている小夜さよを置いて・・・」

 「ゴホンッ!」

 私は咳払せきばらいしてけいの言葉をさえぎった。高槻たかつきの前であからさまに関係を暴露ばくろされるのはいただけなかった。高槻たかつきは今のけいの言葉をしっかり聞いていたし、二人の関係にも気づいていたが、何も知らない顔をしてだまっていた。二人の関係には立ち入らないし、詮索せんさくもしない。大人な対応をした。

 「朝一あさいちで警察署と藤島ふじしま先生の研究室けんきゅうしつまわって本を探して始末しまつした。小夜さよには話したでしょ?西域さいいきからの旅の僧侶そうりょは本の殺し方を伝えていて、チベット僧はそれを書きしるして残していたって。」

 「うん。」

 そううなずく私の横顔を高槻たかつき興味きょうみぶかそうに見つめていた。

 「その方法で本を殺した。」

 『本を殺した』と言った時のけいの顔が少し悲しそうだった。

 「文字もじは本の命。その文字をすみでつぶせば本は死ぬ。それが本の殺し方だ。俺は三冊の歴史的価値のある本をこの世からほうむった。」

 けい後悔こうかいしているようだった。口では淡々たんたんと話しているが、心をいためているのが分かった。

 「あのラーマーヤナはただの本ではない。生きているから、大人しく俺に殺されたりはしなかった。警察署では上手くいったけど、藤島ふじしま先生の研究室では少し手こずった。手こずって藤島ふじしま先生が巻き込まれた。」

 「えっ!?」

 「大丈夫。藤島ふじしま先生は生きているよ。軽傷けいしょうっただけ。」

 私を安心させようとけいはそう言った。


 「本と格闘かくとうしていたら研究室にやって来た藤島ふじしま先生と鉢合はちあわせしてしまって、俺から本を取り返そうと藤島ふじしま先生が手を伸ばした瞬間、先生が本におそわれた。生存本能せいぞんほんのうで、生き残るために藤島ふじしま先生の精気せいきうばおうとしたんだ。俺がすぐに止めに入ったけど、藤島ふじしま先生は手と顔にきずを負った。」

 けいはそう言った。顔にきずが残るのは誰だっていやに決まっている。私は藤島ふじしま心中しんちゅうをおもんばかった。


 「藤島ふじしま先生の顔のことは本当にお気の毒だと思うけど、自業自得じごうじとくとも言える。」

 けいが少しきびしい言い方をした。

 「藤島ふじしま先生はラーマーヤナに魅入みいられて、本に人をわせていた。」

 けいが恐ろしいことを言った。

 「それってどういうこと?」

 「本はその文字もじを読める人間の精気せいきう。知識ちしきあたえた対価たいかとして。だから小夜さよが本をあずかった時は何も起こらなかったんだ。小夜さよはサンスクリット語が読めないからね。」

 けい悪気わるぎなくそう言ったのは分かっているが、小馬鹿こばかにされた気がして、気分きぶんが悪かった。


 「藤島ふじしま先生はサンスクリット語が読める研究者だけが襲われ、読めない人間は襲われないことから、そのことに気づいていて、わざと長野ながのの寺の住職じゅうしょくに送りつけた。おそらく知り合いだったのだろう。住職じゅうしょくが本を開いて読むと分かっていて送り付けたんだ。」

 そう言ってけいがニッと笑った。まるで人間の悪意あくい垣間かいま見て喜んでいるようだった。その顔を見てドキッとした。恐怖を感じたからだ。


 「サンスクリット語を勉強していたなら当然インド研究者の間でがれて来たラーマーヤナの存在そんざいを知っているし、それが送られて来たら誰だってひらいてみたくなる。藤島ふじしま先生の狙い通り住職じゅうしょくは本を開いて読んだ。」

 けいがそこまで言ったところで住職じゅうしょくがどうなったのか容易ようい想像そうぞうがついた。干からびたミイラにされたのだ。私はつばをゴクリと飲み込んだ。


 「藤島ふじしま先生は頭がいい。ラーマーヤナのもう一つの秘密にも気づいていた。本は人間の精気せいきって増える。正確にはもとかたち。七冊のラーマーヤナに戻ろうとするんだ。ずっと閉じ込められて人間の精気せいきられずにいたから、しょうエネモードで一冊の本のかたちをとっていたにぎない。一人の人間の精気せいきまるごとったことによって、二冊目のラーマーヤナが誕生たんじょうし、藤島ふじしま先生はそのことにも気づいたんだ。」

 私はけいの話を聞きながら藤島ふじしまが二冊のラーマーヤナをかかえて水川みずかわのホテルの部屋から逃げ去る姿を思い浮かべていた。おそらくその時には藤島ふじしま決心けっしんかたまっていた。ラーマーヤナを守るために人間をわせると。


 「住職じゅうしょく精気せいきってラーマーヤナは三冊に増えた。二冊目は死んだ住職じゅうしょく手元てもとに残され、警察に押収おうしゅうされたが、三冊目は藤島ふじしま先生のもとに送られ、戻って来た。あらかじめ住職じゅうしょくの家族にでも頼んでおいたのだろう。自分のものだから返してくれとでも電話で言っておくか、本と一緒に手紙をえておけば、良心的りょうしんてきな人なら送り返してくれる。」

 けいはまた口元に笑みを浮かべていた。良心的な住職じゅうしょくの家族がまんまと住職じゅうしょくを死にいたらしめた藤島ふじしまに本を返したことを馬鹿ばかだと笑っているのか、それとも用意周到よういしゅうとうに手を回していた藤島ふじしま手際てぎわの良さに感心かんしんして笑っているのか、私には分からなかった。私はけいのその笑い方が好きではなかった。


 「藤島ふじしま先生からはどうやって本を取り上げたの?」

 私は不気味ぶきみな笑みを浮かべるけいに尋ねた。

 「警察署けいさつしょを回った後で、研究室けんきゅうしつにお邪魔じゃまして、他の二冊と同様にすみでつぶして、そこへ藤島ふじしま先生がやって来て、先生が負傷ふしょうして・・・お大事にって言ってそのまま持って来た。」

 けいは何の罪悪感ざいあくかんもないのだろう。涼しい顔でそう言った。

 「勝手かってに持ち出したらダメじゃない。それに藤島ふじしま先生のことほうって来たの?」

 私は藤島ふじしま負傷ふしょう自業自得じごうじとくか、天罰てんばつだと思いながらも、けいめるように言った。善人ぜんにんぶった物言ものいいだと自分でも思った。


 「どうして?もとは小夜さよのものだ。古賀こが先生の奥様が小夜さよたくしたんだから。先生なら軽傷だから大丈夫だよ。」

 けいはそう言って、いつもの眼差まなざしを私に向けた。けいは私のものとして本を取り返して来たつもりだった。

 「警察署にある二冊の本もいずれ小夜さよのところに戻って来る。古賀こが先生の奥様のところにも警察は事情じじょうを聞きに行っているはずだから。奥様はきっと小夜さよたくしたことを言うだろう。」

 けいはいつもの表情でそう言った。私のためだと知ってそれ以上責めるようなことは言えなかった。


 「それでは懸賞金けんしょうきんはマスターと黒沼くろぬまさんのものですね。」

 横にいた高槻たかつきが口を開いた。

 「懸賞金けんしょうきん?」

 私はすっかり忘れていて何のことだろうと首をかしげた。

 「お忘れですか?私はラーマーヤナに懸賞金けんしょうきんをかけていたのですよ。もちろん生死は問わない。」

 高槻たかつきはそう言ってお茶目ちゃめにもウインクした。

 「私はラーマーヤナを手に入れて所有しょゆうしたかったわけではないので、これで十分要件ようけんたしています。ラーマーヤナを私のもとへ持って来たマスターと黒沼くろぬまさんにはきちんと懸賞金けんしょうきんをお支払いいたします。」

 高槻たかつきはビジネスマンの顔をしてそう言った。


 「懸賞金けんしょうきんは仲良く二人で半々はんはんでいいですかね?黒沼くろぬまさんの口座こうざは知っていますが、マスターの口座こうざは知らない。後で教えてもらえるかな?マスター?」

 高槻たかつきが事務的なことを言った。

 「全額小夜さよの口座に振り込んで下さい。俺、銀行口座持っていないので。」

 けいがそう答えたので、私も高槻たかつきも驚いた。

 「けい、口座がないなら作れば?私の口座にって・・・」

 「小夜さよ信用しんようしている。それに俺には事情じじょうがあって口座は作れないんだ。」

 けいはそう言った。訳アリか。過去に犯罪に手をめていた可能性がある。そんな事情があるにせよ、あまりにも私を信用し過ぎていると思った。持ち逃げされるとは思わないのだろうか?

 「懸賞金けんしょうきんは現金をここへ持って来て支払える額ではないので、私はその方が助かります。いいですか?黒沼くろぬまさん?」

 「あ、ええ。はい。」

 私は押し切られるかたちで承諾しょうだくした。


 「ところで、懸賞金けんしょうきんはいくなんですか?」

 けいが尋ねた。

 「七億円です。」

 高槻たかつきが答えた。

 私は思わず飲もうとしていたマルガリータを吹き出すところだった。

 「七億円!?」

 「黒沼くろぬまさん、声が大きいです。他のお客さんもいらっしゃるのですから。」

 高槻たかつきが周囲を気にしながら私に言った。

 「もう宝くじ買う必要ないね。小夜さよ。」

 けいがカウンター越しにそう言った。金額を聞いてこしかしている私を見て可笑おかしそうに笑っていた。



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