第十四章 呪いの本

  第十四章 呪いの本


 けいがたになると目をまして、じゃれるように私の体をさわって来たが、ねむくて相手にしないでいると、いつの間にかいなくなっていた。昔、っていた猫もそうだった。がたになると訳もなくまわって私をこした。


 一人になったベッドで目覚めざめると、いつもの週末のようにコーヒーをれ、トーストにバターとママレードをたっぷりった。怠惰たいだ優雅ゆうがな朝の始まりだ。あまじょっぱくて美味おいしいトーストをかじりながら、テレビをつけ、ニュースの天気予報てんきよほうを見た。今日も一日雨らしい。

 天気に関わらず、週末は家から一歩も出ない。昼寝か読書どくしょをして過ごす。天気予報を見るのは洗濯物せんたくものを外にせるか確認しているだけだった。


 朝食を終えると二杯目のコーヒー片手にリビングのソファーに座った。お酒と同じくらいコーヒーも好きで十杯以上飲むこともあった。私はサイドテーブルにコーヒーを置くと、もう片方の手に持っていた本を開いた。昨日預かったラーマーヤナだ。歴史の授業で習ったことがある。ラーマーヤナはインドを代表する長編ちょうへん叙事詩じょじしで、紀元前四世紀に作られた。全七巻のはずだが、ここには一冊しかない。一体これは何巻目なのだろうか。ルビーやサファイヤ、エメラルドのように美しい石がい付けられた表紙に目を落としながら考えていると、着信音が部屋に響いた。知らない番号からだった。


 「もしもし。」

 「黒沼くろぬまさんですか?」

 藤島ふじしま教授の声だった。

 「はい。黒沼くろぬまです。」

 「あのう、今、水川みずかわ先生と一緒なんですけど、一緒にランチでもどうかって・・・水川みずかわ先生が・・・」

 藤島ふじしまがいやいや水川みずかわに付き合わされているのがひしひしと伝わって来た。そしてこの電話が私にとって迷惑なのも分かっていてかけているのも伝わって来た。

 「今どちらに?」

 私の担当ではないが、失礼があってはいけない。譲歩じょうほできるところまでしようと思ってそう尋ねた。

 「西麻布にしあざぶです。」

 藤島ふじしまが答えた。場所を聞いただけで行きたくなくなった。だがその時、ふと何かに呼ばれたようにリビングのサイドテーブルの上にある本に視線が奪われた。

 「・・・お二人にご覧頂きたいものがあるのですが、持って行ってもいいですか?」

 「はい、もちろんどうぞ。」

 雨の降る土曜日の真っ昼間に私は本を持って西麻布にしあざぶへ向かった。


 先に店についていた藤島ふじしま水川みずかわは私が現れると、藤島ふじしまは申し訳なさそうに会釈えしゃくし、水川みずかわはこっちこっちと手招てまねきした。

 「やあ、黒沼くろぬまさん、来てくれてありがとう。何か東京を満喫まんきつしておきたくてね。黒沼くろぬまさんとももっと話したくて。」

 水川みずかわはシラフでも昨日と同じテンションだった。藤島ふじしまは昨日から付き合わされて、明らかに疲れていた。

 「私も水川みずかわ先生と藤島ふじしま先生にご覧頂きたいものがあったので、ちょうど良かったです。」

 私は愛想あいし笑いを浮かべてそう言った。

 「何かな何かな。」

 水川みずかわがニコニコして言った。

 「ラーマーヤナです。」

 私は紙袋に入れて来た美しい本を取り出した。二人が息をのんで目を見張みはった。

 「それは、どうしたの?」

 水川みずかわが本から目を離さずにそう尋ねた。

 「昨日、古賀こが先生の奥様からお預かりました。うちの編集長に渡すようにと。もとは編集長がラーマーヤナの翻訳ほんやくを依頼した時に古賀こが先生のところに持って来たものだったそうです。」

 私は奥様から聞いた話をそのまま伝えた。二人の様子が明らかに変わった。何か恐ろしいものでも見ているかのような青ざめた表情に変わった。

 「持ってて何ともない?」

 水川みずかわの鳴くような小さな声で尋ねた。さっきまで饒舌じょうぜつ快活かいかつに話していたのに、どうしたことだろうか。


 「何ともありませんが?」

 私は質問の意図いとするところが分からなかったが、そう答えた。

 「本を開いてみた?」

 水川みずかわがまるで悪魔に魅入みいられたような顔をして言った。

 「水川みずかわ先生!」

 藤島ふじしま血相けっそうを変えて制止せいしするように大声を出した。訳が分からなかったが、美しい表紙ばかり見て、まだこの本を開いたことはなかったので私は本を開いてみた。

 「やめろ!」

 藤島ふじしまが立ち上がり、目を見開いて叫んだ。

 「え?」

 私は本に手をかけ、ページを開いていた。

 西麻布にしあざぶのお洒落しゃれなレストランに藤島ふじしまの声が響いただけで、何も起こらなかった。


 藤島ふじしまは気が抜けたように椅子の上に崩れ落ちた。

 「考えすぎだったみたいだ。」

 藤島ふじしまが大声を出して恥ずかしそうにそう言った。けれどまだ恐怖の色がその顔から消えていなかった。それは水川みずかわも同じで、本から目を離せずにいた。

 「この本がどうかしましたか?」

 私は二人に尋ねた。

 「昨日、ラーマーヤナの呪いの話をしたでしょう?あの話にはまだ続きがあってね。ラーマーヤナの翻訳ほんやくを受けると、どこからともなく呪われた本が送り付けられて来るって話なんだよ。その本の特徴がこれと似ていてね。宝石をあしらった表紙に、ラーマーヤナ文字がきざまれているってね。」

 水川みずかわ手汗てあせをハンカチで押さえながら言った。その隣で藤島ふじしまは本から目をらそうと自分の手で両目をおおっていた。


 「黒沼くろぬまさん、その本、しばらくお借りできませんか?」

 水川みずかわがまた悪魔に魅入みいられたような顔で尋ねた。

 「え?あ、でも・・・。」

 「大丈夫。黒沼くろぬまさんが困るようなことにはなりませんから。私から編集長さんには連絡を入れますから。」

 水川みずかわは押して来た。

 「水川みずかわ先生、何を考えていらっしゃるんです?あちらの編集長のものならお返しするべきですよ。」

 横から目をおおったままで藤島ふじしまが言った。厄介事やっかいごとに首を突っ込むなと言っているようだった。

 「お願いします。黒沼くろぬまさん。」

 水川は藤島ふじしまを無視して強引ごういんに押し切ろうとした。

 私は何かに呼ばれたような気がして、ふと持っている本に目を落とした。

 「分かりました。水川みずかわ先生におしします。」

 私は顔を上げるとそう口にしていた。

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