第十二章 ラーマーヤナの呪い

  第十二章 ラーマーヤナの呪い


 金曜午後、編集長へんしゅうちょうに呼ばれた。編集長へんしゅうちょうのデスクにはれかけてしたを向くひまわりのような青木あおきがいた。

 「黒沼くろぬまさん、今日の夜、何か予定ある?」

 編集長へんしゅうちょうは怒った口調くちょうでそう尋ねた。もちろん私にではなく、青木あおきに怒っているのだと分かっていた。

 「いいえ。特にありません。」

 おそらく編集長へんしゅうちょうは私ごときに予定はないと思っている。

 「悪いんだけど、僕の代理だいりでお通夜つやに行って来て欲しんだ。場所は府中ふちゅうでね。駅から少し遠い。」

 編集長へんしゅうちょうはそう言って告別式こくべつしき案内状あんないじょうを引き出しから出して私にし出した。

 「古賀こが勝次かつじさん?」

 私は受け取ると故人こじんの名前を読み上げた。私に代理だいりで行かせるということは仕事関係のはずだが、この名前を聞いたことはなかった。

 「黒沼くろぬまさんは畑違はたけちがいだし、古賀こが先生も引退してずいぶん経つから知らないのも当然とうぜんか。古賀こが先生はね、梵語ぼんごの第一人者だったんだ。定年まで大学で教鞭きょうべんを取っていた。」

 「梵語ぼんご?」

 「サンスクリット語だよ。」

 そんなことも知らないのかと編集長へんしゅうちょうは言いたげだった。

 「古賀こが先生が大学で教えている頃、何度も取材しゅざい協力してもらった。僕が行くつもりだったんだが、これから青木あおきと一緒にティアラ先生のところに謝罪しゃざいしに行かなければならなくなった。」

 編集長へんしゅうちょうはそう言って青木あおきにらみつけた。ティアラ先生は雑誌ざっしの占いコーナーに記事きじ提供ていきょうしてくれているうらなで、記事きじ提供者ていきょうしゃわりはいくらでもいるというのが正直しょうじきなところだった。他社では編集者が適当てきとうに占いコーナーを書いているところもある。

 ティアラ先生の代わりがきかないのは記事きじ提供ていきょうではなく、ネタの提供ていきょうの方だ。おもしろい相談者そうだんしゃなやみをうちにリークし、それを青木あおき記事きじにしている。うらなにも守秘義務しゅひぎむがあるというのが暗黙あんもくのルールで、報酬ほうしゅうえにそれをやぶってくれるのがティアラ先生なのだ。


 「ほんと、すみません。」

 青木あおきがいつもより小さな声で言った。何をやらかしたのかは大体想像がつく。ネタもとが分かるような記事きじの書き方をして、ティアラ先生が相談者そうだんしゃられでもしたのだろう。

 「そういうことでしたら、お通夜つやには私が行って来ます。」

 そう言って私は案内状あんないじょうを持って自分のデスクに戻った。


 お通夜つやは午後七時からだったので一度自宅に戻り、喪服もふく着替きがえた。会場には時間ぴったりに到着するつもりで家を出たが、実際に着いたのは七時半を回っていた。今時いまどきめずしく自宅でのお通夜つやで、編集長へんしゅうちょうが言っていた通り駅から遠く、似たような民家みんかはたけのある道を迷いながら歩いてようやくたどり着いた。


 会場かいじょうにはすでに多くの弔問客ちょうもんきゃくが訪れ、れつをなしていた。私もそのれつ最後尾さいこうびくわわると前に並んでいた男がかえった。

 「黒沼くろぬまさん。」

 見上げると、インド哲学てつだく藤島ふじしま教授きょうじゅだった。

 「藤島ふじしま教授きょうじゅでしたか。後ろ姿で気づきませんでした。ご挨拶あいさつおくれてすみません。うちの青木あおきがお世話せわになっております。」

 私はそう言って頭をげた。

 「いえいえ。こちらこそお世話せわになっています。」

 お互いかたちばかりの挨拶あいさつをした。


 「黒沼くろぬまさんは古賀こが先生と面識めんしきがあったんですね。」

 藤島ふじしまが話を振って来た。

 「いえ、私は編集長の代理です。編集長はどうしても外せない急用ができてしまいまして。」

 「そうでしたか。私は学生時代、古賀こが先生の授業じゅぎょうを取っていたんですよ。」

 藤島ふじしまは自分のことを話し始めた。

 「古賀こが先生の授業じゅぎょうを?藤島ふじしま先生はサンスクリット語をお話になるんですか?」

 「ええ、まあ。ある程度は。」

 藤島ふじしまほこらしげに言った。めずしい言語を話せるというのが自慢じまんらしい。

 「すごいですね。私は日本語しか話せないので尊敬そんけいします。」

 相手を持ち上げるのも仕事のうち。そう思って言った一言ひとこと藤島ふじしま歓心かんしんった。

 「黒沼くろぬまさん、もしご興味きょうみがあったらいつでもうちの研究室に遊びに来て下さい。サンスクリット語ならお教えしますよ。」

 藤島ふじしま得意とくいになって言った。


 私と藤島ふじしま順番じゅんばんが回って来るとお焼香しょうこうを上げ、ご家族におやみの言葉をかけた。私が喪主もしゅである古賀こが先生の奥様に編集長の代理だいりだとげると、奥様は何かを思い出したようにハッとして、斎場さいじょうとなっている居間いまを出てどこかへ行ってしまった。いなくなった奥様の代わりに息子さんが後に続く弔問客ちょうもんきゃくの対応をした。


 お焼香しょうこうえた弔問客ちょうもんきゃくには通夜振つやぶいがあった。和室わしつに長方形の小さな机と座布団ざぶとんならべられ、先に来た年配ねんぱい弔問客ちょうもんきゃく物顔ものがお陣取じんどり、お寿司すしとビールをかっらっていた。


 「せっかくだから私たちも頂いていきましょう。」

 藤島ふじしまは私にそう言って、和室わしつ陣取じんど先輩方せんぱいがたあいだに入って行った。他の弔問客ちょうもんきゃく遠慮えんりょして帰って行ったというのに意外いがい図太ずぶとい男だった。


 「先生方、お久しぶりです。」

 藤島ふじしまはそう声をかけた。どうやら全員研究者のようだ。

 「いやあ、藤島ふじしま君じゃないか。ささ、ここに座りなさいよ。」

 「水川みずかわ先生、お久しぶりです。去年の学会がっかい以来ですね。」

 藤島ふじしま顔見知かおみしりの先生に挨拶あいさつしながら、私に手招てまねきして呼び寄せた。私は半分帰りたいと思いながらも、人脈じんみゃく作りは大切だと思って、藤島ふじしまの横についた。


 「おやあ、こちらは?」

 水川みずしまという男はだいぶ出来上がっていた。お洒落しゃれなのか、むねポケットにサングラスをしていた。こんな日の暮れた時間に必要ないだろうに。

 「雑誌編集者の黒沼くろぬまさんです。」

 藤島ふじsまがそう言って、私を水川みずかわ紹介しょうかいした。

 「初めまして。黒沼くろぬまです。」

 私は素早すばやくカバンから名刺めいしを取り出して、水川みずかわに差し出した。

 「これはご丁寧ていねいに。私も名刺めいし名刺めいし。」

 水川みずかわはそう言いながらポケットを確認したが、名刺めいしは見つからなかった。

 「すみません。名刺めいしを家に忘れて来ちゃったみたいで。名刺めいしわりに、ささ、アーター・セー・バナー・フアー・ラッシーをどうぞ。」

 水川みずかわ意味不明いみふめいなことを言った。私がかたまっていると、藤島ふじしま苦笑にがわらいしながら言った。

 「黒沼くろぬまさん、ビールのことですよ。」

 水川みずかわ片手かたてにビールびんを持っていて、私についでくれるつもりだったようだ。


 「死ぬほどつまらないヒンディー語ジョークです。ヒンディー語ってインドの公用語こようごなんですけど、インドでは酒を飲むことが嫌厭けんえんされることがあって、小麦こむぎでできたラッシーって遠回とおまわしにビールのこと言ったんですよ。死ぬほどつまらないジョークでしょう?」

 藤島ふじしま水川みずかわに聞こえないように小声で言った。私にはことばの意味すら分からなかったので、ジョークの面白おもしろさもさむさもはかれなかった。少なくとも藤島ふじしま評価ひょうかは低かった。

 「黒沼くろぬまさん、グラスどうぞ。」

 藤島ふじしまが私にグラスを取ってくれた。

 「ありがとうございます。」

 私がグラスを受け取ると、待ちきれない様子で水川みずかわいきおいよくビールを注いだ。白い泡があふれそうになって、びんビールの口がグラスから離れると、私はあわててグラスに口をつけ、一気いっき飲みした。

 「いい飲みっぷりだね。」

 水川みずかわが手をたたいてよろこんで言った。

 「水川みずかわ先生、私からも一杯。」

 私はそう言ってびんビールを取り上げた。

 「どうもどうも。」

 水川みずかわうれしそうにグラスをかたむけた。

 「藤島ふじしま先生もどうぞ。」

 水川みずかわのグラスにそそぎ終わると、藤島ふじしまにもそう言った。

 「ありがとうございます。」

 藤島ふじしまもグラスを取ってこちらにかたむけた。


 「それにしも、古賀こが先生は良かったね。長生ながいきできて。やっぱりアレかな。ラーマーヤナの翻訳ほんやくを引き受けなかったのが良かったのかな。」

 水川みずかわ故人こじんしのんで話し始めた。

 「ああ。ラーマーヤナののろいですね。」

 藤島ふじしまは話にった。

 「そう。ラーマーヤナののろい。黒沼くろぬまさん、知ってる?」

 水川みずかわってからむように言った。

 「いいえ。」

 「ラーマーヤナの翻訳ほんやくはね、この世界の一番にならないとできないんだ。暗黙あんもくのルールで、インてつを含むすべてのインド研究における一番じゃないと、やっちゃいけないことになってる。だからラーマーヤナの翻訳ほんやくをするのはとても名誉めいよなことなんだけど、ジンクスがあってね。」

 水川みずかわはもったいぶった口ぶりで焦点しょうてんの合わない目で、顔を私に近づけて言った。

 「ラーマーヤナの翻訳ほんやくをすると死ぬんですよね。」

 横から藤島ふじしまがオチを言った。

 「ああ!藤島ふじしま君、私が言おうと思ってたのに!」

 っぱらった水川みずかわねたように言った。

 「すみません。先生。」

 そう言った藤島ふじしま反省はんせいいろはなかった。先輩せんぱい研究者ということで敬意けいいはらってはいるが、

おそらく藤島ふじしま水川みずかわのことをあまり好きではない。


 「なぜラーマーヤナの翻訳ほんやくをすると死ぬんですか?」

 私は興味きょうみから水川みずかわに尋ねた。

 「さあ。それはなぞだね。だからラーマーヤナののろいなんて言われてるんだよ。歴代れきだい翻訳者ほんやくしゃは誰一人として最後まで翻訳ほんやくし切れずに亡くなって、最後はいつもそのお弟子でしさんが完成させているんだ。古賀こが先生のところにも、大手出版社からラーマーヤナの翻訳ほんやくの話が来ていたそうなんだけど、ことわったらしい。だから長生ながいきできたんじゃないかってこの世界の連中れんちゅうは皆言ってるよ。」

 「そうなんですか。」

 ますます興味きょうみかれた。取材しゅざいしたいと思った。


 「水川みずかわ先生はどちらの大学で研究なさっているんですか?もし宜しければ後日改めてお話を聞かせて頂けませんか?」

 私はやんわりと取材しゅざいもうんだ。

 「いいけど。私、大阪おおさかの方にいるんだよね。今日は古賀こが先生のお通夜つやのために新幹線しんかんせんで来たんだ。」

 大阪おおさかは遠い。経費けいひを考えると採算さいさんが合わない。

 「藤島ふじしま君に聞くといいよ。藤島ふじしま君も私と同じインてつの研究者だから。な、藤島ふじしま君?」

 水川みずかわはそう言った。

 「私で宜しければ。」

 藤島ふじしまはそう言った。


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