第八章 今夜死ぬ

  第八章 今夜死ぬ


 今夜死ぬ。月曜日。家族も友人も恋人もいないので、特に会いたい人はいない。じっと家で家族写真やアルバムをながめていた。

 午後七時、外が暗くなると無性むしょうに酒が飲みたくなった。もはやアル中なのかもしれない。会社の健康診断けんこうしんだんはこの二、三年受けていないから、正確せいかくなことは分からない。私は冷蔵庫れいぞうこの奥にしまっておいたとっておきのシャンパンを開けた。一緒にいちごが欲しいところだが、外出せずに家にこもっていたから生鮮食品せいせんしょくひんは一切ない。

 「いちごか・・・」

 マスターが作ってくれたナポレオンパイが頭に浮かんだ。もしマスターが店にいたら私は会いに行っただろうか。バー・カルティック・ナイト。お気に入りの店だ。死ぬ前に一度行っておくか。私はシャンパンを飲みすと、シャワーをびて着替きがえ、久しぶりに外の空気くうきった。


 「いらっしゃいませ。」

 あの男の声が聞こえた。二度と来ないつもりで寝たはずなのに、再び来ることになろうとは。顔を合わせるとまずい。

 「どうも。」

 私は目を合わせずに軽く会釈えしゃくをして挨拶あいさつわした。

 「何にしますか?」

 男は何を考えているのか分からない顔で尋ねた。真夜中に家から追い出したことを怒っているかもしれないし、そんなことれっこで気にしていないかもしれないし、実は真面目まじめな男でして客とたことを後悔こうかいしているかもしれない。とにかく男の心情しんじょうめなかった。

 「マルガリータ。」

 私は注文した。

 「はい。」

 男は返事をすると作り始めた。私はこの男がシェイカーをる姿が好きだった。均整きんせいの取れた体をうごかし、姿態したいを伸ばすさま妖艶ようえんで美しいと思った。れたようにしっとりとした黒髪も男の色気いろけまとい、絹糸きぬいとのような一本一本が私の視線しせんきつけた。

 「どうぞ。」

 男は白いマルガリータを差し出した。

 「ありがとうございます。」

 いろいろあったが、店に来ると敬語けいごになった。男の方もそうだった。プロ意識いしきなのだろうか。

 「美味おいしいです。」

 私は一口飲んでそう言った。それが礼儀れいぎだ。

 「ありがとうございます。次は何にします?」

 「え?」

 「つぶれたくて来たんですよね?」

 男は私の心を見抜みぬいているかのようにそう言った。見上げるとふところの深そうな眼差まなざしを私に向けていた。

 「じゃあ、マスターのおまかせで。」

 私はそう言ってみた。

 「分かりました。」

 男が二杯目に出したのは色鮮いろあざやかなグリーンのモッキンバードだった。ミントリキュールが効いて清涼感せいりょうかんのあるシャキッと目が覚めるカクテルだ。

 三杯目はメキシカンで、海辺うみべに落ちる夕日のような色をしていた。使われているのはパイナップルジュースで、本来は黄色い。他の店で飲んだ時はオレンジジュースのような色をしていた。こんな綺麗きれい夕焼ゆうやけ色になるのはグレナデンシロップの量が多いからだろう。思った通り甘いカクテルだった。めにちょうどいい。


 「ご馳走様ちそうさまでした。美味おいしかったです。」

 私は三杯目のグラスをけると、会計かいけいを済ませて帰るつもりでそう言った。三杯ともアルコール度数どすうが高く、酒好きだが、強くはない私にはキツかった。すでに今の時点で椅子いすから立ってまっすぐ歩けるかもあやしい状態じょうただった。

 「待って下さい。もう一杯だけ。私も付き合いますから。」

 男はそう言って、私を引き留めた。店内を見渡すと今日も客は私一人だった。それならもう一杯だけ飲んで帰るか。そう思ってカウンターの椅子いすに座り直した。ここの椅子は低くて柔らかくて座り心地ごごちが良かった。長居ながいしても疲れない。前のマスターの配慮はいりょだった。

 「どうぞ。」

 男がそう言って差し出したのはテキーラ・ショットだった。縦長たてながの小さなグラスに度数どすう四十度テキーラが注がれ、グラスのふちには塩とライムがえられていた。トドメをしに来たと思った。

 「じゃあ、乾杯かんぱい。」

 男は自分のショットを取ると私を挑発ちょうはつするように一気いっきに飲み干して見せた。おくれまいと後に続いて私もショットを一気いっきに口に流し込んで、グラスをけた。やはりこれがトドメとなって完全につぶれた。私はカウンターに両肘りょうひじをついて頭を押さえた。そうしなければカウンターにしてねむってしまいそうだった。


 「大丈夫ですか?」

 男が水の入ったグラスを差し出して言った。私はしゃべることすらできなくて、差し出された水をだまって口にふくんだ。

 「何かお困りのようですね。」

 男が静かな声でそう言った。私は頭が回らなくて答えられなかった。テキーラを飲む前に聞かれたら、荒唐無稽こうとうむけい悪魔あくま召喚しょうかん儀式ぎしきにまつわる連続首なし事件の話をしたかもしれない。だが今は話すのが億劫おっくうだった。

 「助けてあげましょうか?」

 男がまた静かな声で言った。

 「助ける?できるわけない。」

 単純たんじゅん会話かいわならできた。

 「これに署名しょめいして下さい。」

 男はそう言って何かぬののようなものを取り出して私の目の前に広げた。そこには見たこともない奇怪きかい図形ずけいえがかれていた。

 「何これ?」

 「契約書けいやくしょです。」

 男は真顔まがおでそう言った。私は奇怪きかい図形ずけいに再び目を落とした。借金しゃっきん保証人ほしょうにん契約書けいやくしょではないのは分かる。

 「揶揄からかってる?」

 「いいえ。いたって真剣しんけんです。」

 「・・・・・・」

 「では仮契約かりけいやくにしましょう。本契約ほんけいやくはまたあらめて。」

 男はそう言うと、頭を支えていた私の右手を取って、奇怪きかい図形ずけいの上に置いた。

 「私はあなたのもの、あなたは私もの。専属契約せんぞくけいやくです。裏切うらぎったらこの右腕みぎうでいただきます。いいですね?」

 「はい?」

 男は聞き返した私の『はい?』をイエスと受け取った。そしてささやきよりも小さな声でブツブツとどこかの異国いこく言語げんご呪文じゅもんのようなものをとなえ始めると、急に私の視界しかいせまくなった。目の前がくら、音が遠くに聞こえ、私は意識いしきうしなった。

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