第一部番外編
犬になりたい男:ヤニク視点
腐敗、カビ、排泄物。そんな物が溢れ、遺棄される場所――貧民街。そこにはゴミだけではなく、子供や老人、時には貴族が捨てられたりもする。
そこに捨てられた人間の大半は死ぬが、運よく生き残る者もいる。
最初、闇ギルドはそんな人間達が集まって出来た組織だった。
結成当時の闇ギルドは強盗や殺人、不正な取引や人身売買なども行っていた。金さえ手に入れば何でもする組織だった。
そんな組織がある時から義賊のような事を始めるようになった。
始めたのは今では闇ギルドで伝説になっているチャボと名乗った男だ。
彼は実家が没落して迷い込んだ貴族の一人だった。
本名を捨て、豪華な衣服を捨て、身を窶して貧民街を彷徨っていた男は、品のある顔の良さを買われて闇ギルドへと迎え入れられた。
裕福な女を相手にする詐欺師にしようとしたのだ。
だがチャボは詐欺師にはならなかった。
詐欺はしたが、裕福で、欲望に塗れた悪女からしか金を奪わなかった。
相手が善人だった時には何もしなかったため、失敗したと思った組織の人間には殺されそうになるほど殴られた。
そんな目に合ってもチャボは信念だけは持ち続けた。
底には居ても、底の底までは落ちたくはなかったのだろう。
いつしか、そんなチャボに呼応する者達が現れた。
貧民だからと言って優しい人間まで殺したくなかった者達だ。
彼らは貧民の中から素質のある者を組織に入れ、悪巧みをしていた上層部を消していった。
そして、闇ギルドは盗みや殺人は悪徳な貴族や商人からしか行わないようになり、すべては弱者のため、という大義名分を掲げるようになった。
=====
闇ギルドで主に暗殺を請け負っている男、ヤニクも赤子の頃に貧民街に捨てられ、生き残ったうちの一人だ。
黒い外套に黒いブーツ、全身黒ずくめで貧民街の裏路地を歩くヤニクはどこからどう見ても怪しい人間にしか見えないが、月もない夜の闇に紛れるには最適の格好をしていた。
彼は今日の仕事を終え、迷路のような裏路地の道を抜けて、とある建物の地下へと潜る。
ところどころ傷のついた分厚い扉を押し開ければ、そこにあるのは酒場だ。
カウンターの向こう側には質の悪い曇ったグラスを拭く厳つい顔の男が一人で立っている。
ヤニクは他に人が居ない事を確認した後、カウンターの席の一つへと軽快に座った。
「ガウちゃん、終わったっすよぉ」
「……ん」
ガウと呼ばれたカウンターの男は、一つ頷くと机に金の入った袋を置く。続いて一枚の紙を出してヤニクに見せた。
「はー? また依頼なんすかー?」
ヤニクが渋々受け取り、中を読むと、今度は遅行性の毒を入手しろと書いてある。
「え、これって俺の担当じゃなくない?」
「……」
ヤニクはいつもの軽口が思わず出なくなるほど衝撃を受けたが、ガウは何も言わずに黙っている。
それはそうだ。彼は話せない。
彼は体格が良く、厳つい顔をしているが、優しい男だった。
優しい男は仕事仲間に借金を負わされ、咽喉を潰された上に身ぐるみを剥がされて貧民街に捨てられたところを闇ギルドに拾われた。
現在はこの酒場で依頼の仲介役のような事をしている。
彼には文字は教えられていない。
話せないし、文字もわからなければ、最悪捕まったとしても酷い拷問にはかけられないだろうという闇ギルド的な配慮だった。
文字を教えられない事を本人がどう思っているのかは知らないが、彼は忠実に言われた事だけを守って今日もカウンターに立っている。
そんな彼相手だから、ヤニクも今の仕事について存分に愚痴る事が出来た。
「嫌っすー! 毒の入手なんて足が速攻で付きそうな事やりたくないっすぅ! 死ぬ未来しか見えなーい!」
駄々を捏ね、カウンターに突っ伏す。
そして小さく呟いた。
「ガウちゃん、お酒……」
「ん」
ガウは頷いて後ろの棚からヤニクの名札のついた酒を取り出した。
この酒場では酒をボトルで買う事を推奨している。毒対策だ。名札の名前は文字の書けないガウの代わりに購入者が書く。
文字を教わっていなくても、どの名札が誰のものかわかるガウは実は頭が良いのではないかとヤニクは思った。
ガウがさっきまで拭いていたグラスにぬるい酒を注いでくれる。
ヤニクはそれを受け取ると一気に煽った。
「くぁー! まずい!」
騎士団の飲み会で飲む冷えたエールの方が断然美味い。
しかしここは貧民街だ。
物を冷やす魔道具なんてものを置ける訳がない。
ヤニクはガウにもう一杯注いで貰うと、今度はそれを一口だけ飲んだ。
「俺が入った時はもっとやりがいのあるお仕事をしてたはずなのに、なーんでこんな事になっちまったんすかねぇ……」
元はと言えば前王弟のせいだ。
ヤニクはもうすでに死んでいるとわかっていても前王弟を呪わずにはいられなかった。
義賊はある時騎士団に捕まったが、彼らの志を聞いた王様が闇ギルドを雇ってくれた。
そこから闇ギルドは影でコソコソと生きなくてもよくなった。
彼らは貧民を助けるために自分達の身も削っていたが、王様からの依頼の報酬があれば貧民街の住人に食事と簡単な文字程度であれば教えられるようになった。
赤子が捨てられていた場合には孤児院に預けられるようにもなった。
闇ギルドはいつからか、王家の影となって働く事が生き甲斐となっていた。
その関係は、前王弟が国を乗っ取った事で終わった。
闇ギルドの事を知っていた王族は軒並み殺され、圧政によって貧民街に逃げ込む人間が増え、秩序も悪くなった。
闇ギルドの総括は暫く迷った後、決めた。
貧民街を守るために、新たな主を見つけようと。
「はぁ、総括も選択肢を間違えたっすよねぇ……」
総括が選んだのはカラドネル公爵家だった。
カラドネル公爵は領民からも良い領主だと噂もされていたため、悪いようにはならないだろうと考えたのだ。
ヤニクも当時はあそこなら良いだろうと思ったくらいだ。
カラドネル公爵は自身の闇を隠すのがとても上手い人物だった。
今思えば、もっとよく調べるべきだったと思う。
だが、その時は選択肢がかなり限られていたのだ。
王太子は王都から遠い辺境に逃げ、カラドネル公爵家以外の王族は殺されている。そして貧民街にはどんどん人が増え、毎日のようにどこかで誰かが殺された。
捨てられた子供を受け入れていた孤児院も、もう預かる事は出来ない、預かっても死なせてしまうだけだと涙を流す。そんな悲惨な状態だった。
総括を責める事は出来ない。
良い事もあった。
ちゃんとした契約書を作れるようになったし、簡単な文字だけではなく複雑な文字も覚えられるようになったし、計算だって出来るようになった。
最初はよかったのだ。
そう、前王弟が死ぬまでは……。
ヤニクは息を吐いた。
(身体が中から腐りそう……)
曇ったグラスの中の茶色の液体を、ヤニクは光のない目で見つめる。
以前だったら善人なのか、悪人なのかを調べてから殺していた。
それも依頼のうちの一つだった。
こいつなら殺してもいいだろう。そう思って殺していた。
ヤニクは快楽殺人者ではない。
剣の腕にちょっと自信があるだけの男だ。
ただ、自分よりも小さな子供にやらせるくらいなら自分がやろうと思い、率先して暗殺依頼を請け負っていただけ。
それなのに、ここ最近は善人か悪人かを調べる事もしなくなった。
善人だったと報告しても、殺せと言われるからだ。
ヤニクは納得できなかった。
依頼を受けるのを渋るようになり、そしてヤニクがやらなかった依頼を代わりに請け負った仲間は――死んだ。
それからヤニクは、ただ黙々と依頼された暗殺を行っている。
すべては、自分よりも弱い弱者のために……。
「しかし、俺が毒の入手なんてやるってことは、もうかなりやばいって事っすよねぇ……」
王太子が国王になった事で、治安はかなり落ち着いてきた。
だというのに、闇ギルドの人間はカラドネル家の無理な依頼のために数を減らすばかり。
今、闇ギルドの人間がどのくらい残っているのかもヤニクは知らない。
次に死ぬのは自分かもしれない。
ヤニクはそう思って溜め息を吐いた。
――ガチャ
「ヤニク、まだ居たか」
そこに幹部のヨルが現れた。
「カラドネル公爵家はもう駄目だ。我らはまた王家に仕えようと思う」
「はいぃ?」
ヤニクはそこで、カラドネル家のキチガイ女が愛しの近衛隊長をとうとう殺すよう命令した話を聞いた。
ヨルはその命令を逆手に取り、近衛隊長は殺さず、解毒薬と引き換えに国王と取引をする腹積もりのようだ。
「でももう毒なんて……」
「俺が持っている。これが最後だ」
渡されたのは麻痺毒だった。
摂取量が多ければ死ぬが、相手の体格次第では数時間身体が痺れるくらいの代物。
主に剣の腕に自信のない者や、自分よりも格上とわかっている相手に使うような毒だ。
「この量じゃ数時間で起き上がると思うっす」
ヤニクが近衛隊長レオネルの体格を思い出しながら言うと、ヨルはそんなヤニクの頭をはたいた。
「馬鹿か、殺したら雇って貰えないだろうが」
それはそうだ。
ヤニクは納得して毒を懐に仕舞う。
それを見たヨルは事もなげに言った。
「今から行ってこい」
「は?」
「お嬢様は今日中に動けと仰せだ。その方が相手が油断しているだろうと」
「え? 俺、さっき仕事終わったんすよ?」
「近衛隊長はまだ城に居るそうだ」
「ヨルさん?」
「城に着いたらカラドネル公爵が雇ったヤツらと連携しろ。ああ、そいつらは殺してもいい」
「もしもし?」
「お嬢様が何かしら小細工をしているかもしれないが、フォローは頼んだぞ」
ヤニクはそうして酒場から追い出された。
=====
騎士団に紛れ込んでいるのは色んな場面、特に仲間を逃がす時などに有用だったからだが、こういう時にも役に立つ。
「あれ、近衛隊長さんじゃないすか」
ヤニクは偶然を装って話しかけた。
馬を連れて来たら馬車で帰った方が良いと話すつもりだった。
だが、近衛隊長はどうやら鐙に仕込まれた針に気づいたようで、婚約者と言われる少女を片手で抱きながら騎士団に応援を頼んできた。
(隊長さんってば優秀だなぁ)
話に聞く限り正義感も強いし、子供を大切にしている。
王族に失望しそうになっていたが、これなら少しは期待できるかもしれない。
ヤニクはぶっちゃけレオネルの事を舐めていた。
騎士団長をやっている男より強いのは知っていたが、狡賢いのは自分だと言う自信があったからだ。
毒を塗った武器を持つ自分相手に勝てる訳がないと思っていた。
その後の展開はヤニクには驚きの連続だった。
まさか少女が武器を自分に投げつけるとは思わなかったし、その隙を突いて刺されるとも思っていなかったし、更には少女が婚約者のために身を挺して毒を吸い出すだなんて想像もしていなかった。
貴族の令嬢が普通そんな事出来るはずがない。
ヤニクは王都の貴族令嬢をこれまで何人も見てきたが、何をするにも侍女にやってもらうお姫様ばかりだったのだ。
(あの瞳、今思い出してもゾクゾクしちゃうね……)
少女が短剣を自分に向かって投げた時の、あの強い瞳の輝き。その瞳は馬車の灯に照らされ、燃えるようにきらめいていた。
何がなんでも婚約者を守ると、その瞳は雄弁に語っていた。
刺されて死んだふりをした後、すぐに追いかけたのは取引をするためじゃない。
あの瞳をもう一度見たかったからだ。
結局、解毒薬が本当に必要になったのは少女の方で、近衛隊長にはほぼ必要のないものとなったが、取引は成立した。
ついでに少女の護衛の任務も勝ち取った。
(あー、早く起きないかなぁ)
ヤニクは眠っている少女、セルディの顔をじっと見つめる。
これからいつでもあの瞳を見る事が出来るのはわかっているのだが、やっぱり日の当たる場所でもう一度見たい。
(俺相手でも、あんな目をしてくれるのかなぁ)
弱者が強者を守ろうとする世界が存在するとは思わなかった。
ヤニクの中で弱者は強者に守られる者でしかなかった。
その思い込みを、セルディは覆した。
弱者だって、強者を守る事が出来るのだと。
もし自分がセルディの犬になったら、あんな風に守ってもらえるのだろうか――。
ヤニクはその瞬間を想像するだけで、幸福感に包まれる。
「ご主人サマ、朝ですよ」
ヤニクが耳元で優しく囁くと、セルディの瞼がピクリと動いた。
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