02.夢を見ました


「セルディ、そろそろ起きなさい」

「……ハッ!!」


 すぐ傍から聞こえた男の声に、セルディと呼ばれた少女は飛び上がるように起き上がった。


 彼女の目に入ってきたのは、クリーム色の壁。マホガニー色をした高級そうな家具。それらが揃った豪奢な部屋の大きな窓からは美しい街並みが見え、明るい光が射しこんでいる。


 しかし、そんな美しい部屋を見た少女の心にせり上がってきたのは、悲しみと不安、そして恐怖だ。

 何が悲しいのか、何が不安なのか、何が怖いのかもわからず、少女はただただ荒い呼吸を繰り返す。額には汗が滲み、目尻からは一粒の涙が零れ落ちていった。


 何故涙が零れたのか、その理由すらわからず、震える手で不思議そうに涙を拭うと、声をかけてきたと思われる男がこちらを心配気に見つめていることに彼女はようやく気が付いた。


 濃い茶色の髪と赤土色の瞳を持った、どこかで見た気がする男の人。

 ぼんやりとした頭で、どこで見たのだろうと少女は考えたが、頭が働かない。

 そうしている間に、心配げに見つめた男の手が頭の方へと伸びた。


「どうしたんだ、怖い夢でも見たのか?」


 乗せられた手は、少女の小さな頭を優しく撫でる。その手の心地よさに彼女の瞼はゆっくりと落ちて、そのまま眠りそうになり――。


「セルディ?」

「あっ」


 再度呼ばれた名前に、一気に視界が開けたような、目が覚めたような、そんな感覚と共に、自分がセルディという名前で、貧乏過ぎて滅多な事では王都にまで出て来られないフォード子爵家の一人娘である事を思い出した。


 思い出した今となっては、寝ぼけていたとはいえ、なぜ一瞬でも忘れていたのかわからないくらいだった。


「大丈夫か?」


 そして自分をセルディだと思い出させてくれた気難しそうな男性は、父親のゴドルード・フォード。髪や瞳は平民にもよくありがちな地味な色だが、目鼻立ちは整っており美形の部類に入る顔をしている。


 ただ、彼の表情筋は滅多な事では動かず、無表情が標準装備になってしまっている上に、唯一動かす事の出来るのが眉間の筋肉のせいで常時不機嫌な顔付きに見えてしまっているため、社交界では遠巻きにされていたとセルディは聞いたことがあった。


 恐らく緊張している顔が怒っているように見えて声をかけ辛かったのだろう。

 仲良くなれば不器用だけど優しい人だとわかるのに、この国の貴族女性は見る目がない。

 セルディは今更そんな感想を抱いた。


「おい、セルディ?」

「あ、ごめんなさい。……寝ぼけてたかも?」

「寝心地が悪かったか……」


 父の言葉にそうかもしれない、と下に敷かれているふかふかのベッドを触ってみる。

 手触りの良いシーツに、初めて触った弾力のあるベッドが珍しくて、昨日は長い馬車旅の疲れが吹き飛ぶくらい興奮した。いつもはこんな体を包むような羽毛のベッドではなく、藁をシーツで包んだベッドで寝ていたのだ。

 こんなベッドなら気持ちよく眠れるに違いないと確信していたというのに、悪夢を見る事になるなんて思ってもみなかったセルディは、深く項垂れた。


「具合が悪いなら、お前はここに残るか?」

「え?」


 セルディは父の言葉に首を傾げる。なんの事を言っているのか思い出せなかったからだ。

 けれど、思い出せなかったのは一瞬で、一度目を瞬かせた後には自分達がどうしてこの高級ホテルに泊まる事が出来ているのかを思い出した。


「やだ!! 私も行く!!」

「体調が悪いのなら無理をしなくとも……」

「この機会を逃したら、もう二度と行けないんでしょ?」

「そうなるが……」

「絶対行く!」


 心配げな父親の言葉を遮り、セルディはベッドから降りて着ていた寝間着を勢いよく脱ぎ捨てた。

 こんな大事な日に、具合が悪いなんて言ってはいられない。


「王様もお城も絶対見る!」


 今日はこの国、アデルトハイム王国に新王が誕生する記念すべき日。各地の貴族が一同に集まり、戴冠式が行われるのだ。

 その式に出席するためだけに、セルディ達親子は片道二週間もかけて王都へとやってきた。そんな苦労をしたのに参列出来ないなんて勿体なさすぎる。


「だが……」


 父の物言いたげな視線を感じるが、セルディは動きを止める気はなかった。

 セルディだって立派な女の子だ。このために作った新品のドレスを着て、物語に出て来るような綺麗なお城の中で立派な王様を一目でいいから見てみたい。


「……わかった。無理だけはしないように」


 父は行く気満々のセルディの様子を見てどうやら諦めてくれたようで、心配げな声音で一言言うと、セルディの支度を手伝い始めた。

 セルディの最初で最後になるかもしれない社交デビューを体験させたいと思ってくれたのもあるだろう。

 貴族にしては貧乏過ぎるフォード家は、以前までならばこういう行事の際には家計をやりくりして父親だけを出席させていた。


 ところが今回だけは特別に、宿泊費や馬車代などの費用は国が持ってくれると申し出があったのだ。その代わり、当主だけではなく次代を担う子息子女も必ず出席するように、と。

 国が自腹を切ってまで、盛大に祝うのには、もちろん理由がある。


 そもそもの発端は遡る事三年前。


 当時国を治めていた国王は、賢帝とまではいかずとも、波風を立てない平和な治世を築いていた。

 しかし、そんな平和な治世に不満を覚える者たちが現れてしまう。

 それは昔から居る貴族であったり、先王から仕えていた宰相であったり、その娘の側妃であったり、国王の弟だった。


 国王は優しすぎた。

 昔から国のために尽くしてくれている貴族や宰相を切り捨てる事も出来ず、その宰相から頼まれ、不妊の可能性があると宣告されてしまった娘を憐れに思って側妃として迎えてしまったり、まだ若いからと王族の義務を果たさず臣籍降下もせずに城に留まり続ける弟を放置し続けたり……。


 そんな彼らが怪しい動きをしていても、明確な証拠がなくては裁く事も出来ないくらい優しい……、悪く言ってしまえば優柔不断な王だった。


 結局、国王と王妃、幼い姫は彼らに殺された。近衛と共に逃げ延びた王子一人を残して――。


 その王子様が今日戴冠式を行う新しい国王、グレニアン陛下だ。

 新国王となるグレニアン陛下は、数か月前にとうとう王位を奪い、圧政を強いていた王弟ジュレアムを処刑した。


 王弟と、王を殺す事に協力した宰相や、その娘であり王弟の妃になっていた側妃もその場で陛下直々に処刑し、王弟が王だったという記録も燃やし、その名は罪人として王室の記録に刻まれることになったという話だ。


 この話は税を徴収にきた税務官と護衛の騎士様から聞いた話で、事実は知らない。

 情報が本当に正しいのかどうかを判別することは、社交界から忘れられかけていた子爵家には無理だ。

 しかし、フォード家はよく知らないなりに話し合い、新王陛下を支持することになった。


 あの王弟よりはマシだと考えたからだ。


 三年前。王位を簒奪した王弟が、逃げ延びた王子と王子を支持する者達を根絶やしにするため、税率を上げて金をかき集めた。

 元々小さな領地で農業を主の収入源にしていた子爵家なんて、そんな事をされればひとたまりもない。

 フォード家はあっという間に肉も食べられないほど困窮した。


 あの治世と比べると、皆が大変だったからと今年分の税を免除してくれた新王の姿は見ずとも支持するのに十分だった。


 まぁ結局、父はあの王になら領民にとって酷い選択はしないだろうという事で、今年で爵位を返上する事にしてしまったのだけれど。

 来年分の税金を払えるほどの蓄えがないのだから仕方がない。


 民を同じ人間と考えていなかった節のある王弟では返したくても返せなかった領地だが、彼ならば大丈夫だろう。その父の言葉を信じてフォード家は貴族をやめる事を決めたのだった。

 セルディとしては、フォード家に肉を取り戻してくれた現在の陛下の事は、平民になっても全力で応援したいと思っている。


 今日はその陛下の一生に一度の戴冠式だ。

 平民になればお城の中に入る機会なんて二度と訪れる事は出来ないだろうから、お顔を間近で見られる最後の機会でもある。行かないという選択肢は考えられない。

 セルディは今まで着たこともない肌触りのドレスを着せて貰いながら、ホテルから見えるお城の中を想像して期待に胸を膨らませた。


*****


 準備を終えると、父と共に迎えに来た馬車に乗って即位式が行われる城に向かう。

 城までの道のりは整備されているのか、領から王都にくるよりも断然揺れが少なく、音も静かだ。道中では出来なかった会話も、この道ならば出来る。

 セルディはワクワクした様子を隠すことなく父に話しかけた。


「ねえねえ、お父さんは新王陛下を見た事ある?」

「十年ほど前に開かれた祝いの席で見た事はあるぞ。そこでお見かけした時は大層な美少年であらせられたが……。今のお姿を見た事はないな」


 基本、貴族は一年に一度発行される貴族名鑑を購入したりして覚えていくものだが、王族だけはその名鑑に記載されることはなく、各々で絵姿を購入する。


 最新の王室の絵姿を持っているという事が貴族のステータスの一つになっていたりするが、貧乏な我が家にあるのはグレニアン陛下の父親である前の国王陛下の絵姿だけ。それもかなり小さいヤツ。


 王弟の反乱前から既に貴族としてギリギリだったフォード家にその他の王族の絵姿を買う余裕はなかったようだ。


 絵で見る限り、前国王は鋭利な眼差しを持った迫力のある美形だったが、王子は父親よりも甘い顔立ちをしており、女性にとても人気があったのだとか。


「そっかー。かっこいい人だといいなぁ」

「あのままの姿でご成長されたのであれば、かなりの美青年になっているだろう」

「そうかな! すっごく楽しみー!」


 そんな話をしている間に、馬車はゆっくりと速度を落とした。

 ここから高位貴族から順番に馬車を降り、城の中へと案内される。

 お茶会などにも参加した事のない自分が、本当に参列していいのか、馬車から見える王城の荘厳さに圧倒されながら、セルディは自分達の順番が来るのを今か今かと待った。


「フォード子爵家当主ゴドルード様、息女セルディ様!」


 侍従に案内されて豪奢な扉の前まで行けば、招待状の中身を確認した騎士が扉を開けてくれる。

 名前を呼ばれながら入室するという初めての経験に胸を高鳴らせつつ部屋に足を踏み入れると、そこにはキラキラとした別世界が広がっていた。


 まず目に付いたのは、キラキラと光る大粒の石が惜しげもなく使われた三つのシャンデリア。

 白と茶色が混ざった床石は、一点の曇りもなくツヤツヤに磨かれており、その上には更に、これまた高そうな緋色のカーペットが敷かれている。


 そんな高級感溢れる空間に、色とりどりのドレスを着た女性と、お洒落なタキシードを着た男性が集まって、話に華を咲かせていた。

 セルディは豪華に着飾った貴族達の姿を見た後、自分が来ているドレスに目を落とし、隣に居る父の袖を軽く引っ張った。


「ね、ねぇ、お父さん、なんか、私たちって場違い……?」

「……」


 帰ってきたのが無言の笑みの時点でお察しである。その笑みは口の端が上がっているだけだが、何を言いたいのかは伝わってきた。

 通りで、一生に一度しか機会がないというのに、母が出席を拒否した訳だ。


 父も自分も、今までになくお洒落をしたと思っている。

 子供用ドレスとはいえ、暖かみのあるピンクの生地に白のレースまで付け、ウエストは紺色のリボンで引き締められて、子供っぽすぎず、大人びているとも思わせない、丁度良い匙加減だ。

 父は父でスタンダードなタキシードを卒なく着こなしており、問題なかろうと思っていた――が。


 この色彩の溢れるドレスの中では地味も地味。更に言ってしまえば貧相でボリューム不足。

 男は男で、大体がスタンダードなタキシード姿ではあるが、袖口に宝石を付けたカフスを付けていたり、襟口や裾にお洒落な刺繍がしてあったり、ボタン自体を宝石で付けていたり、豪奢な勲章を下げていたり……。


 セルディも父も、金をかけたと思われるところが一切ないのが丸わかりだった。

 周りの人間は、そんなセルディと父をチラリと見て、目を逸らしてからクスリと笑ったりしている。

 失礼な話ではあるが、貴族社会は見栄とプライドで出来ているのだ。仕方ないと諦めるしかない。


(それにしても、この貴族達はあの重税の中、どこにそんなお金があったのよ!!)


 セルディはこの世の理不尽さに思わず歯噛みをしてしまう。

 領民に無理な税を強制出来ず、財産を切り崩して資金を作る事も出来ないフォード家は、今日の戴冠式でこれからも貴族としてやっていく事は難しいと、周りに姿だけで認識されてしまったのだ。


(これは平民になるって決めて正解ね)


 せめてこれ以上は笑われないように、マナーで失敗しないようにしよう。

 セルディは袖から手を離し、父の手を握りながらそう決意した。


「国王陛下、入場!」


 それから待つこと一時間。

 たくさんの金銀のボタンを散りばめた白い騎士服のような装いに、真紅のマントを身に着けた新王陛下が会場へと姿を見せた。

 陛下は、セルディ達が歩いた真紅のカーペットの真ん中を近衛騎士達に守られながら優雅に歩き、奥にある数段上に作られた玉座へと腰を下ろす。

 その距離は思ったよりも近く、セルディは若く麗しい新王の姿を近くで見られた事を素直に喜んだ。


(別におっさんでもいいけど、敬う相手はやっぱり美形の方がいいわ!)


 なんて不敬な事を考えていたセルディは、彼の後ろに控える男に気が付くと、目を見開く。


(えっ……?)


 金に朱を混ぜたような色の髪。騎士らしい体格の良い身体に白銀の胸当て。彼の瞳の色は……。


「アースアイ……」


 瞳の色なんて、こんな場所からわかるはずがない。

 わかるはずがないのに、セルディは何故か確信していた。

 彼は、『あの』彼だと。

 そしてここで一つの言葉が脳裏に思い浮かぶ。


「……グレニアン戦記?」


 頭の中に閃くのは、分厚い書物の表紙。王冠を被り、剣を持つ青年の姿。

 その姿は今、檀上に上がっている陛下によく似ていた。


(まさかここは、グレニアン戦記の世界、なの……?)


 グレニアン戦記ってなんだ、そんな話、読んだことない。と思う自分が居るのに、自分ではない一人の女性の人生が走馬灯のように頭の中を駆け巡っていく。


 その大きすぎる情報量に耐えきれず、セルディの意識は遠のいて行った。


(ああ……、レオネル様……)


 意識を失う瞬間、驚いた顔をした推しキャラの姿を見た気がするが、妄想かもしれない。


 妄想でも、生きる推しキャラを見る事が出来た幸福に、もう死んでもいいかも、なんて思いながら、セルディの意識は暗転した。

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