第5話、疑惑
「今日元気ないわね」
「ああ」
「どうして?」
「…………」
「寝不足なの?」
「ああ」
会話はそれで終わった。
「34」は憤りを感じて共同研究室の窓から外に目をやる。宵闇がせまる頃だ。
昨夜この窓から見ていたこの部屋が鮮やかによみがえる。もうずっと昔のことのようだ。一日がこれほど長く感ぜられたのは初めてだった。
明るい部屋の中、ヒカルは紺色のヘアーバンドの女性と楽しげに言葉を交わしていた。たった今「34」に話しかけた者が他でもない彼女であった。午後、共同研究室に下りてきてから、どういうわけか「34」は非常に彼女と言葉を交わしたく、機会をうかがっていたのだ。だがいざ口を開けば息は詰まり、用意したはずの言葉は生まれぬ前にあえなく散ってしまう。それが彼女の方から話しかけてきたのだから、何の心の準備も無かった「34」が「ああ」しか言えなかったのは無理も無いことだった。
「34」は急に頭上の空気の重量を感じたような気がした。自分には不可能でヒカルには可能なことのなんと多いことか……。
それを考えても嘆息はもれない。ただ情けない自分の姿に強い苛立ちを覚えるのだ。それは憎しみにも似ている。冴えないこの殻を破りたかった。壊したかった。(あいつならこんな時どうするだろう)
無意識のうちにそのことに考えが及ぶ。思い通り進めないとき、ヒカルならばどうするかと。「出来ると信じて励めばきっと成功するよ」などと言いそうなものであった。甘い了見とは思えたが、これにのっとることにした。
(おれがヒカルだと信じればいいのか。研究室で過ごせる時間もあとわずかだ。頭の中で愚問愚答していても始まらない。自分があいつだということにしてしまおう)
すっかり夜のとばりがおりた町を、「34」はヒカルのアパートへと歩いていた。ひんやりとした夜風を思いきり吸い込めば、思案の積もった胸の内も浄化され、透明になってゆくようだ。もう一度、今朝に戻れるような幻覚におそわれる。
愁寂漂う街灯の下にさしかかったとき、思わず「疲れた」と呟いて、
(頭脳労働も案外疲れるものだな)
と苦笑する。だが疲労の原因は頭脳労働ばかりとも言えなかった。彼はあれから終始神経を張りつめていたのだ。あの女性は二度と話しかけては来なかったが。
アパートの側面に取り付けられた階段をのぼる。手すりを滑らせていた右手が鉄臭くなる。
(いやなものを触っちまった)
と、半ばペンキの剥がれ落ちた手すりに目をやった。
二階にあがると廊下の一番奥でヒカルがあぐらをかいていた。「34」の姿をみとめて立ち上がる。
「きみに鍵を預けておいたのは間違いだったよ。だいぶ待っちゃった」
と、笑いかけた。
部屋にあがり電気の下で見て、「34」は初めてヒカルが自分の服――三十四番の布の付いた服を着ていないことに気が付いた。そこにあるのは「37」の布だった。「ああ、これね。順を追って話すよ。ひとまず掛けて」
ヒカルはベッドを目で示す。「34」は少々躊躇したが、ヒカルにうながされて結局腰掛けた。
家じゅうどこにいようと声が届く狭い部屋だった。「34」が座っているのは寝室、台所、ダイニングルームがドッキングした部屋だが、この部屋以外には洗面所と風呂しかない。
「まず君は工場から抜け出しても良かったのかい?」
流しでやかんを濯ぎながら、ヒカルは遠慮がちな声を出した。台所は玄関のすぐ脇にある。調理をしながらサッシのはまった小窓を覗けば、アパートの外廊下を経て階下が見える。コンクリートに街灯が明かりの輪を落としている。
「禁止されていると他の誰かから言われたわけじゃない。だが列車に乗って他へ行ってみようなどとは思いもしなかったからな……。あんたもあの工場で一日過ごしたなら何となく感じるだろ。おれのように偶然でなきゃ、工場から抜け出す者などいないだろうな」
「そうだろうね……」
水を入れたやかんを火にかけると、ヒカルは「34」とちょうど向かい合える位置に一旦腰を下ろし、
「座布団とって」
と、ベッドの隅に転がしてあった薄汚れたクッションを投げてもらい、その上にどっかと座った。
「じゃあ君は、工場から出ることが許可されてるとも、禁止されてるとも知らないわけだね」
「ああ」
「そうか……」
ヒカルはゆっくりと、そう長くもない髪をかきあげる。「僕はあの工場で、ずっと自分が誰かに見張られているような気がしていたんだ。それで何だか凄く嫌な予感がしていた。僕のこのての予感と実験中のひらめきは、当たる場合が多いんだ。だからいつも僕は自分の直感には従うようにしている。よく人には笑われるけどね」 そう言って、控えめな笑みを浮かべる。
火にかけたやかんが、台所で音をたてはじめた。ヒカルは台所に立ち、沸騰した湯を二人分のカップそばに注いだ。
「それで三十七番の者と服を交換したのか」
「34」も手伝おうと立ち上がる。
「そうだよ。もし誰かが見ているとしたら、同じ番号の人間が二度も工場を抜け出すのはまずいと思ってね、三十七番の人が手近にいたから頼んだんだよ。ぼやぼやしてるうちに説き伏せたんだ。簡単だったよ」
「あんたの口数に圧倒されたんだろうな」
「やっぱりそう思うか? それにしてもどうして工場の人たちはあんなに無口なんだい?」
「そうだな……」
「34」は手を休め、ふと窓の外に目をやった。アパートの前の通りを、背広姿の男が二三人ぶらぶらしている。何かを待っているようだ。
「話題と気力がないからだよ」
それが「34」の結論だった。
「そうか。そうだよな。あんな単調な仕事を続けているんだものな。それにしてもあれだけ同じ顔の奴等がうようよしてるのを見ているとなんだか胃の辺りが……」 言いかけてヒカルはちらと「34」を見た。これは、あの工場をずっと住まいとしてきた者には、礼儀を逸する文句と思ったのだろう。
だが「34」は、何かを憂えるように半ば伏せた目をカップそばに向け、三分間を静かに待っている。その無表情にヒカルはひとりでそわそわして話題を探すようにきょろきょろ目を動かした。
「あれ? その指どうしたんだい」
「34」の人差し指に目を向ける。指の先には絆創膏が無造作に巻き付けてあった。「ああ。ちょっと怪我をした」
「34」は相変わらず無表情のまま、ヒカルの方を見もせずに答える。
「どうだった? 僕の研究室は」
「なかなか楽しませてもらったよ。また来てもいいか」
その言葉にヒカルは口篭もった。
「いや――、もう、来ない方が、いいと思う……」
「なぜ」
はじめて「34」はヒカルをまっこうから見つめた。その意外にも強い光を宿した瞳に、ヒカルは射すくめられたように立ちすくんだ。
「だから……言ったろう、悪い予感がするんだ。それにあの工場を見て思ったんだ、ここは僕の知ってはいけない世界だったんだって。あの場所はほとんど外部の人間が足を踏み入れないみたいだ。たぶん、故意に人の来ない場所に造られた工場だと思う」
「34」は何も言わない。今は既にその視線もヒカルからは外されている。
ヒカルは言葉を続けた。
「それに工場付近一帯の植物が皆茶色く変色していた。ああいった反応は、今僕が研究させてもらっている物質が起こすものに極めて類似しているんだけど……
あの物質は毒性すら全て解明されていないはずなのに、垂れ流しにされているなんておかしいし……。何か非常にまずい秘密があるんだよ、あの工場には。そうでなけりゃあクローンをつくった理由も分からないもの」
喋っているうちにいつもの自信を取り戻したようだ。ヒカルは滔々と言を紡ぐ。「彼等は特別ひどい重労働に従事させられている訳でもないんだから。今この国に人が足りない訳でもないし。普通の工場員を使ったのでは機密漏洩が怖い、だから生まれたときから隔離されてる人々が必要だったんだろう。戸籍にさえ乗っていない、ね。そう考えでもしなけりゃ辻褄があわないもの」
よどみなく弁じたてる。だが「34」は相変わらずゆううつな眼差しを下方に向けてままだった。その表情からは何も読み取ることは出来ない。おおかた、何も考えていないのだろう。
「もう三分たった頃だね」
その場を取り繕うように言うと、ヒカルはふたをめくりながら目を凝らして窓の外を見ていたが、やがて不安そうにちいさく小首をかしげ、爪先立って磨りガラスの窓をおろした。
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