第6話、プロジェクト
***
トゥルルルルル……、トゥルルルルル……、と呼び出し音が鳴り続ける。
気付かずにいるのだろう、壮齢の女がひとり、縁側にだした籐製の椅子に背をもたげて読書に専心している。
夕暮れははや宵にかわる。
女は読みかけの本から顔を上げた。やはり電話のベルのようだ。慌てて栞をはさんだ本を椅子の上に置く。
電話は和室の違い棚に置かれていた。駆け戻ってきた彼女は、急いで受話器を取る。
「はい、もしもし……」
しばらくして彼女は、リビングで新聞を広げ、経済記事に目を通していた夫を呼んだ。
妻に呼ばれて和室へ入ってきたのは、例の初老の男である。私邸にいるせいか、威厳はあっても威圧感はあまり感じられない。
夫が電話を替わると、妻は気をきかせてふすまをそっと閉め出ていった。
「なに、三十七番が研究員のヒカルと接触していた? よりにもよってまずい人間と接触してくれたものだな……」
男は苦虫を噛みつぶしたような顔になり、受話器を持ちなおした。
「そうだろう。やはり三十四番に影響されて貨物列車に乗ったのだろう。その三十七番は三十四番と何か打ち合せでもしている形跡はあったのか? …………そうか。だが三十四と三十七では同じ三十番台だ。カメラの届かない場所で関わりを持つことも可能だろう」
しばらくは床の間にかけられた掛け軸を眺めながら、電話の声に耳を傾けていたが、やがて相手の言葉に首を振り、声を大にして言った。
「ヒカルは、普通の人間では足元にも及ばないほどの頭脳を持っているのだぞ。彼は言わば創られた『天才』だ。他の者には考えもしないことを思いつき、解決の糸口の全く無い問題でさえ対処してしまう。作業員の話を聞いても普通の人間なら不審に思うだけで済まされよう。だが研究員ならば、国が管理する極秘情報と気付くかも知れぬ。ヒカルは私達とは異なる遺伝子を組み込まれているゆえに、私達には彼の考えがほとんど予測不可能なのだ。分かったな。ヒカルには絶対に油断するでないぞ」
一気にまくしたてて疲労を感じたのか、小さな溜め息をつく。
「それでその三十七番と接触したヒカルは今は何の研究をしているんだ」
電話口の返答に、男は眉根を寄せた。
「何? 確かその科学物質はあの工場から漏れているという汚染物質ではないか? ……そうか。ますます具合が悪い……そうだ。……ああ、では替われ」
それからまた受話器の声に耳を傾けたまま、目だけは掛け軸に描かれた山水画の上を泳がせていた。天へと壮麗にそびえる岩山の所々に深い緑が配置され、その緑に埋もれるようにどこかなつかしさを漂わせる昔の家々が見られる。画面右方からのびた風情ある、奇異な形に切り立った岩の先端に古寺がある。寺に寄り添うように植えられた松の枝振りがなんとも美しい。手前では深い青色の水がたゆとうている。
初老の男は山水画を見つめているうちに一瞬、画の中に入りたいと思った。だが電話の向こうの声にすぐ現実に引き戻される。彼自身も昼間は、まだまだ政界で権力を振るい続ける意気でいる。だが夜、我が家に帰り安堵に包まれているとき、ふと今のような心持ちになるのであった。
彼は画に目を向けたまま相手を戒めるように言った。
「消すなどという言葉を軽々しく口にするでない。……そうだ。昼間も言ったはずだ」
電話の声の主はあの脂ぎった短髪の男のようだ。
「それから君は忘れているようだがね。ヒカルは我々の実益を兼ねた研究材料であり、かつ一般市民でもあるのだよ。研究員と共に働いている研究室の人間は、皆普通の人間、つまり一般の市民だ。よって滅多な手出しは出来ないんだぞ」
釘を刺すように念を押す。しばらくしてから男は結論を下した。
「ヒカルの家から三十七番がでてきたら、どの程度のことを話したのか聞け。それとなく、同じ顔の人間がいることを話したかどうか聞き出すんだぞ。
次の行動は、三十七番の答え如何だ。三十七番がかなりの量の情報を洩らしていたのなら、ヒカルに他言無用の旨を伝えろ。脅しすぎるでないぞ。今やっている汚染物質の研究に区切りがついたとき、研究室の他の人間に怪しまれぬよう、私の監視下に移すからな。その前に逃げられては事だ。
ではすべきことは分かったな。うまくやるんだぞ」
男は受話器を置き、ゆっくりと立ち上がる。妻が先程閉めていった襖を開けていると、彼女が二階から下りてきた。
「またお出かけですか」
「いや」
男が首を振ると、妻は安堵したように微笑んだ。
「良かった。今日は久しぶりにお早いお帰りでしたものね」
キッチンで二人分の茶をいれる。電話に向かってまくしたてていた夫への気づかいであろう。
「だがこういう日に限って問題が起こる」
男の声には苦いものが混じる。ソファーに腰を下ろすと、襖の開け放たれた和室まで斜めに見渡せる。床の間に飾られた山水画と、その下に置かれた青磁の壷―吸い込まれるような淡緑色のこの壷は、妻が大切にしている逸品だった。
盆に乗せてきた二客の茶碗を、彼女は洒落たテーブルに並べる。夫の向かい、ソファーと揃いのスツールに腰をおろして無邪気な笑みを浮かべた。
「また女には秘密のあれですか?」
女には秘密の――とは極秘プロジェクトのことらしい。
「でもあなたは出かけなくていいんでしょう」
「私は電話で指示するだけだよ」
「お偉くなられましたものね」
と、嬉しそうな妻に、
「それもこのプロジェクトのおかげだよ」
「私には秘密のね」
「そう。君には嫌われているが」
男は珍しく、皮肉でなく笑っていた。穏やかでさえある。
「私がこのプロジェクトの一員になったのは、君と暮らしはじめてすぐの頃だったな」
低いテーブルを見下ろす視線に、懐古と後悔の色がないまぜになる。
「今では結成当時の方はあなたの他いらっしゃらないんでしょう?」
緑茶を両手の中で冷ましながら、妻は夫を見上げた。
「そう。私だけとなった。結成当時も他のメンバーと比べて私の年令は二周りは下だったからな。異例の昇進だったのだ。私はその裏にどんな思惑があるかも考えずに喜んだ。自分がプロジェクトの中で果たす役割など知るすべもなかった」
茶碗をじっと見下ろしたまま一息に話してから、彼はふと妻の方へ視線をあげ、「こんな話は面白くないかね」
と、気を使ってみせた。
「いいえ。聞かせてください」
妻の声はやさしい。煙草も吸わず酒もあまり飲まぬ夫が、話すことでストレスを和らげていると知っているからだ。極秘プロジェクトなどに若い頃から属しているため話すことの意味が大きいのかも知れぬ。
備前焼の湯呑みに指をすべらせながら、男は苦笑する。
「今私の部下に、出世したいですと常に力説しているような男がいる」
「まあ、どんなふうに?」
「私の意見にたちまち賛成してくる。自分の考えなど無いも同然だ。
私もあの頃はああだったのだろう。あの男より若かったが。それを利用されたのだ。しかもそれによって、私は身を挺して何よりも秘密厳守に努めなければならなくなる。彼等にとっては一石二鳥だ。よく考えたものだよ。私の目の黒いうちは機密が漏れることは無いだろうよ。そして生きている限り、私はこのプロジェクトに縛られるというわけか」
男は自嘲ぎみな笑みを浮かべていた。
妻はそんな夫をじっと見つめている。彼女は夫の携わっている仕事について露程も知らぬ筈だ。だがその視線は全てを知っている者のように厳しかった。
「このプロジェクトはまさしく私の血と肉だ。万一、けりをつけなければならないときは、私がこの手で始末しなければならん」
その言葉は自分自身に向けて発せられものであったろう。
***
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます