第3話、入れ替わり

 二階立ての小さなアパートが、電信柱と街灯に寄り添うように建っている。

 濃紺の夜空に明るい月。傾いて屋根の右端にちょっと懸かっている。

 二階の一番奥、月の真下でドアが開いた。男がひとり出てくる。「34」だ。どうやら少々若返ったようだが。いや、おおかたヒカルが「34」の服を着ているというところだろう。

 本物の「34」は片足にサンダルをひっかけ、閉まりかけたドアに体をあずけたまま、ヒカルの話を聞き流している。

「いいか、僕の言ったこと全部覚えたね? 研究室での仕事の流れ、家のこと、ええと、それから……。そうだ、鍵だ。そのジーンズの後ろポケットに入ってるんだけど」

 と、「34」のはいている自分の服を指差した。「34」はポケットから数本の鍵が下がる小銭入れを引っぱりだし、それをしげしげと眺める。

 ヒカルは「34」に鍵の用途と使い方を教えなければならなかった。ドアを開けたまま鍵穴に鍵を差し込み、それを左右に回して見せながら、

「左に回すと鍵がかかる。出かけるときは左に回すんだ。帰ってきたら、右に回せば鍵ははずれてドアは開くからね。明日の朝はこの家を八時十分に出ればいい。鍵を閉めるのを忘れるなよ。それから金はあまり使わないでくれよ」

「全て承知した。あんたが気をつけるのはその口だけだ」

「分かってるよ。しゃべらなけりゃいいんだろう? そのくらい簡単さ」

 「34」は「どうかな」と苦笑した。

 ヒカルは髪をかきあげた右手をひらいて、

「じゃあな。うまくやれよ。僕はもう行くから。今夜はコンテナと一緒におやすみだよ」

 と笑う。そしてもう一度、

「じゃあな」

 と手を振ると、両手をポケットに突っ込んで、「34」に背を向けた。

 「34」はノブに置いた片肘に寄り掛かったまま、外廊下をゆくその背中に、一応挨拶のつもりで片手を開く。かん、かん、と階段を下りてゆく足音が遠ざかる頃、そっとドアを閉めた。


 月の明るい晩だった。黒々とした貨物列車の影が、がたんがたんと近付いてくる。町中だからたいしたスピードではない。

 影がひとつ舞い、列車にひらりと飛び乗る。

(「34」の話だとこの列車は材料を積んでいるそうだ。朝に工場が開くまで、その前で停まっているという。まあ僕は、それまで寝ることだ)

 影はコンテナ同士の狭い隙間に横になった。


 電子顕微鏡の使い方がよく分からないことよりも、指示薬などの薬品がどこにあるかよりも、問題は、今自分がしていることの意味が分からないことだった。

 研究室で今日一日やるべきことは、二枚のルーズリーフに全て書かれている。その内容を端的に言えば「ある液体に含まれている毒素を取り除くための試行錯誤」だとヒカルは言っていた。その液体は「34」の目の前にある。ヒカルがルーズリーフのリストにしるした様々な物質をこの液体に混ぜ、その変化や温度・圧力を変えたとき、紫外線を照射したときなどの様子を、顕微鏡で観察したりサンプルをとったりするのだ。様々な物質は、時には食物だったり、はたまた微生物だったりもした。

 「34」には「ある液体」がどのようなものであるかも、そこからヒカルが「毒」と言っていたものを取り除く理由も分からなければ、実験結果が何を示唆するのかも分からなかった。

 ただ結果を紙に写しているだけだった。ただ他人から命じられたことを遂行しているに過ぎなかった。

(これでは工場にいるのと変わらないではないか……)

 そのことに気付いてしまうと、急に体内が空洞になったように感ぜられた。「34」は手を止め、じっとブラインドを見つめた。外は見えぬ。

 息苦しい。

 つかつかと窓辺へ歩きブラインドをあげると、有料二階立て駐車場が見える。八台ほど停まれるスペースがあるにも関わらず、二台しか停まっていないためどこか空虚である。

 階下の共同研究室から男二人の話し声が聞こえる。昨日「34」が覗いた部屋が、この建物の中では最も広い空間、すなわち共同研究室であった。ヒカルはいつも午後になると共同研究を手伝うという。昼休み、昼食のために誰かと外出すると集中力が途切れて個人研究はやりづらいからだと説明していたが、話し好きの彼のことである、昼休みの話の続きをしたいがために、二階の個人研究室には戻りたくないのだろう。

 とにかく午前中は狭い部屋に閉じこもって、実験器具だけを相手に孤独な作業が続けられた。

 それは「34」も同じだった。ほかの研究員に怪しまれぬよう、ヒカルと同じ行動をとらなければならない。

 駐車場に派手な黄色い車が入ってきた。「34」はほっとして窓辺を離れる。その瞬間、彼は意外な事実に思い当たった。

(おれは今、この狭い閉鎖的空間が息のつまるような所だと気付いた。工場の扉は一日二回しか開けられなかったのに、いっこうそんな気持ちはおこらなかった。そしてあんなけばい色のものを見て安堵を感じた。工場にいたときと変わらないだって? そんなことはない。状況は変わっていなくとも、おれは変わっている。変化している)

 喜びの興奮が、全身を包む。

 だがなぜ自分がこんなにも変化を好んでいるのか、彼は考えようとしなかった。変化自体には気付き、それを喜び楽しんでいても、その自分を客観視して疑問を呈することはまだしなかった。

 工場では繰り返す仕事が自分の意志と全く無関係であることなど、気付きもしなかったし、日常から、なんらかの意味を見出だそうとは試みもしなかった。外の景色においても見ようという意志さえ持たなかった。

(まあもっとも、見たくなるような景色でもなかったが)

 あの見慣れた枯野の風景が、今は無味乾燥に思える。

(こっちの生活の方が人間として本来あるべきものなのだ)

 「34」はそう信じようとした。

 こちらの生活は確かにめまぐるしい。様々な情報が飛び込んでくる。だがそれを自分の意志で選択する自由、という権利が共に与えられていた。自分の意志で決断をくだせぬ者は、没落するしかない。

 工場ではそのような心配は無用だった。永遠の平穏が与えられている。工場の傍らを走る貨物列車のように、ただ地平線の彼方までレールの上を何も考えずに走っていれば良かった。考えることはむしろ人を迷わせ不幸にした。選択する必要はないのだから。

 身振り手振りを交え喜怒哀楽を精一杯表現し、時には頭を抱え込み時には大笑いするヒカルの姿が目に浮かんだ。

(おれには到底ああは出来ぬ)

 とりわけ自分の実験に対する、昨夜のアパートでの熱弁ぶりが思い起こされた。工場ではひとりとして、あのような目をする者はいなかった。

(だが――)

 と「34」は心に誓った。

(おれは変わってみせる。昨夜から今日までの、こんなにも短い時間でこれだけ変われたのだ。ヒカルのように楽しく生きてやる)


 だがそれは容易なことではなかった。

 リストにある実験が終わってしまうと、「34」は何をしてよいか分からなくなった。

 昨晩、「もしかしたら昼前に終わっちゃうかもしれないけど、そうしたらリストに無いものでも色々試してみて」と、ヒカルは言った。だが何で試せばよいのだ? 「例えば?」と尋ねた「34」にヒカルは「例えば……血液とか」などと冗談を言って笑い、「ま、思いつく限り適当にやってよ。素人の発想って意外かもしれないし」と、話に終止符を打ってしまった。

 ヒカルならばこんな時、次々と妙な物質の名前を思いつくのだろうか。

(おれには「血液」などという馬鹿な冗談のひとつも浮かびそうにない)

 両手を実験台につき頭を垂れる。体を包む借り物の白衣が、何ともよそよそしく不釣り合いで息苦しかった。赤褐色の液体をたたえた試験官が目にうつる。彼はそれを手にとると、横の流しに向かって力一杯投げ付けた。

 派手な音をたててガラスの破片が飛び散った。その音で「34」は我に返る。

(しまった)

 信じられぬ目で、流しに散らばるガラスの破片を眺める。赤茶けた液体がゆっくりと、暗い排水口に吸い込まれてゆく。

 鼓動が速くなる。自分で自分の心が見えなくなっていた。

 彼は緩慢な動作で、黒いビニール袋に破片を入れた。手袋をはめることすら面倒だった。

(あ、切れた)

 ぼんやりと人差し指を眺める。ゆっくりとしみだしてくる赤い血を眺めていると、ヒカルの冗談が思い出された。「例えば……血液とか」

(この血を実験になど使うものか)

 今度は慎重に残りの破片を袋に入れた。

(これ以上あいつの指示に従うのはまっぴらだ)

 「リストに無い物質のひとつも思いつかないくせに」と、誰かが耳の奥でささやいた気がする。

(そうだ、何も思いつかないのだ……!)

 一瞬、ビニール袋の中のガラスをこの手首にでも突きたててやろうかと思った。(おれのしていることは能無しの悪あがきか?)

 そう思いたくはなかった。

 再び人差し指に目をやる。

(あいつにも同じ赤い血が流れているんだろうな)

 その上に同じ顔だ。

 傷付いた白い指をそっと口元へ運ぶ。少し辛い。ふと部屋の隅に掛けられた四角い鏡が目に入る。細めた眼だけを動かし見やる。

 血が移り唇が朱に染まっている。

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