第2話、計画始動
ささやくようなジャズの音響が耳元をくすぐる。
注文を書き留めたウエイトレスが去っていくと、彼はメニューを閉じ、向かいに座っている「34」へ目を向けた。
「もう一度言うけどね、僕は君が言うその工場の人間じゃない。何年も前から今の研究室で働いているんだ。だから――」
「34」は番号札を下げたまま、落ち着かない様子でソファーに身を沈めている。
「だから僕とその工場に一緒に帰ろうなんて思うなよ。な?」
水のつがれたグラスの下、カラフルなコースターに気を惹かれていた「34」は、虚ろな目をあげるとこくりとうなずいた。彼はこっそり溜め息をつく。それからまたふいに明るい顔をつくって、
「そうそう。僕はヒカルっていうんだ。きみは?」
「え……」
「34」は戸惑ったように顔をあげた。
「工場でなんて呼ばれているんだい?」
「おれは――三十四番ってだけだ」
無表情のまま答えたその言葉に、ヒカルの方が寂しそうな顔をする。
「そうか……」
と、木の椅子に座りなおした。そうしてBGMに耳を傾けていたが、やがて隣の親子連れに視線を向けた。幼児が小さなチキンライスの山にささった旗を気に入り、父親が紙ナフキンに包んでやる。
ヒカルはそっと微笑む。だが「34」は唐突に口を開いた。
「ここはめまぐるしいね。何でこんなに明るくて、いろんな音があって、いろんな人がいるんだろう」
「こういうのはあまり好きではないかい?」
「嫌いではないよ」
ヒカルはほっと息をつく。
「好きでもないが。でも今までのおれには無かったような感じがある」
「そうか」
長くもない前髪をかきあげてからヒカルは尋ねた。
「工場ってどんなところなんだい?」
「どんなって……もっと普通のところさ。人々も皆同じ顔だしな」
さらりと言う。
ヒカルは「34」の胸の辺りからゆっくりと視線を巡らせ、渇いた唇を経て相手の目を見つめる。一つ一つ言葉を区切る様に繰り返した。
「人々は、みんな、同じ顔なんだな?」
「ああ」
「僕や君と同じ顔の人間がうようよしているわけだ」
「34」は簡単にうなずく。
「信じられない話だな……」
運ばれてきた料理に手も付けずに、ヒカルは言葉を続ける。
「だがこれで分かったよ。何で僕と君が双子でもないのにこんなにそっくりなのかがね。僕は今まで何も知らなかった。世の中が僕の知らぬところでどれほど進んでいるかも、それから僕自身のことも」
手のひらを額にあて悲痛な面持ちで言葉をはきだす。
「34」は無表情のまま冷たいスプーンを指に乗せた。
「食べないのか?」
と尋ねてから、例の自分に話し掛けるような小声で、「おれは肉体労働だからな」と、ひとりごちた。
運ばれてきたリゾットをうまそうに口に運ぶ「34」には目もくれずに、ヒカルは沈痛な表情で呟いていた。
「つまり僕も普通の人間じゃなかったんだ。きっと大量生産されたクローンのうちのひとりだったんだ。親父もおふくろも僕のまわりの人間はみんな、僕を稀に見る特別な頭脳の持ち主だとか何とか言っておいて、僕と同じ人間がごまんといるんじゃないか。信じがたい話だけどね。だが君が生きた証だ。ああ、もし君が僕より若かったなら、僕がオリジナルだと考える余地もあったのに……。オリジナルより年上のクローンなんているわけないじゃないか」
両手を額に当てたまま、まくしたてる。
「冷めるよ」
「34」はヒカルの前に並べられた料理を顎で示す。
親父、おふくろ、クローン、皆「34」にとってははじめて耳にする言葉だった。
自分の言葉に対し何も尋ねない相手の顔を不思議そうに眺めながら、ヒカルはフォークを手に取った。
「きみにとっては――これが普通の現実なんだよね……」
黄色い紙に包まれた光が背中から、脱力感にさいなまれるヒカルをやわらかく照らしていた。
「だけど僕は君のいる工場ってのに興味が湧いてきたぞ。ぜひ一度行ってみたいもんだ」
次第に表情が明るくなり、瞳に光が戻ってくる。
「君に夕飯をおごる気になったのも、そのためなんだ。どう? おいしいかい」
「うまいよ」
「34」の答えに、ヒカルは満足気にうなずいた。しばらくは「34」の後ろにある窓の景色を楽しみながら食べていたが、やがてとなりの家族連れが席を立つ頃になって、彼はいたずら好きの子供のように目をぎらぎらさせながら提案した。
「ねえ、僕ら入れ替わってみないか?」
ヒカルの斜め後ろ、六角形の傘をかぶせた照明器具に気を取られていた「34」は、今までに無い俊敏さでヒカルと目をあわせると、すぐ首を縦に振った。
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