一章 【異常】
1
エルハイム王国は千年の歴史を誇る大国である。
しかし記念すべき王国歴千年の前に、この国をある異常が襲った。気温がまるで上がらないのである。その異常は半年ほど前から始まり、今では外に出るのに防寒具は欠かせない地域もあるほどだ。
景観が四季の移り変わりとともに美しく変わっていくはずのエルハイム王国だったが、ただ荒んだ景観にになってしまっている。いつも通りならば暖かな春を迎える時期のはずなのに、花の柔らかな匂いは漂うことなく、種のまま地面に埋もれている。
この謎の異常気象を、王国に滅ぼされた者たちの呪いだと言う者もいた。急速に発展を遂げた、海を挟んだ西国の大魔法だと、この国に警鐘を鳴らす者さえもいる。
しかし何にせよ、今のままではどうすることもできないというのが王国上層部の見解だった。
「はぁ……何だよあの化け物! あんなのが狙ってるとか聞いてねぇぞクソ野郎……」
そしてその国の北西にある広漠とした荒野を、一人の男が歩いていた。
彼は炎のような橙色の髪を泥まみれにし、衣服も傷だらけで、とても清潔とはいえない格好をしている。勇ましい印象を受ける精悍な顔つきにも、浅黒い肌にも汚れが目立つ。それが関係しているのか、機嫌悪そうに先ほどからボソボソと悪態をついていた。
彼の名はギルドルグ・アルグファストといった。
「体洗いてぇなー。早いとこ宿屋で休みてぇ……」
足をズルズルと引き摺り、今にも倒れてしまいそうなギルドルグ。
ついには独り言さえも無くなり、姿勢は猫背気味になり、機械的に足を動かしているだけになってしまった。全身が重くなり始め、肩にかけている袋も全部捨ててしまいたい衝動に駆られる。
やっとのことで街に辿り着いたが、この辺りに宿屋の影は見えない。
そして彼は疲れた頭であることに思い当たる。
あ、これ無理だわ。と。
「倒れるってホントに……ん?」
太陽が天から傾き始めており、いい加減に休める場所を探さなければならない。
限界近い頭を回転させながら考えているときに、ふと彼は向こうから歩いてくる女性を発見した。
艶やかな深い紺色の髪をした女性だった。肩まで届くほどの、夜色の髪の持ち主はなんとも理知的な顔で、実に整った顔立ちである。見目麗しい外見で、これまでに何人の男から言い寄られたことか。
髪と同じ色の、夜色の瞳と目が合う。ギルドルグは数秒間その美しさに気を取られたが、彼女は意にも介していないのか、彼を見つめながら歩を進めてくる。
この人にとにかく宿屋の有無を聞いてみよう。
彼は思い至った。
「すいません、この辺りに宿屋はありますか……? 足がもうフラフラで……」
「……」
女性は口を開かない。
新手の誘いとでも思われているのだろうか?
値踏みをするように見られている気もするが、最早彼は気にしてなどいられない。
むしろそれだけでも答えてくれなければこちらから離れてしまおうとすら考え始める。
しかし彼女の言葉は、彼の考えからは大きくかけ離れていた。
「寄っていく?」
「そうですよね。それでは……って、はぁ?」
「私の家。寄っていく?」
彼女が指を指すのは、丁度ギルドルグの右側の小さな家。大きくはないが、別段他の家々と変わったところはない。
もう既に諦めかけていた彼は、驚いた表情で再び彼女を見た。
彼女は何の躊躇もせずに扉を大きく開け、彼を迎え入れようとしている。
ギルドルグにとっては願ったり叶ったりだが、逆に騙されているのではと軽い疑心暗鬼に陥った。
しかし騙すとは言っても、命の危険にさらされるほどではないだろうとたかをくくり、返答する。
「いいんですか?」
「あなたは私を襲うつもりでもあるの?」
「いやそういうことではなく」
「まぁ別にかまわないけれど」
「倫理観どうなっちゃってんの!?」
青年は軽く頭を下げてお辞儀をし、少し警戒して周りを見渡す。
彼の癖になっている動作だ。こんなところで何かに巻き込まれるとは思えないが。
そして彼は家の中へと入り、扉を閉めた。
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