シチリア産レモン味

退院してから一週間もたたずとして、夏休みが始まった。

 相変わらずうだるような暑さが続くなか、いつもの病院で、僕は叫び声をあげていた。

「なんで、僕が、こんなことっ!」

サクラノと出会ったあの日。片足の動かない僕を苦しめた、例の階段。

 忌々しき思いで残るその場所で、僕はまた、汗を滝のように滴らせていた。

 両手には水がたっぷりと入ったバケツ。これでもう十往復めになる。

「そうだよな! 今年の夏は漫画に捧げるはずだったよな!」

 僕らの漫画が十万『いいね』を取ってから二週間。

 無事に足のギブスも外れ、執筆に専念できる!

そう意気込んだのがつい一時間前のこと。

それがどうしてこうなった?

「別にいいじゃん。か弱い女の子の、儚い願いくらい聞いてくれたって」

「水入りバケツを両手に、階段を十往復するのは儚い願いなのか?」

「ま、細かいことはだいじょーぶ!」

 僕はなにひとつ大丈夫じゃない。

「でもこれで最後でしょ? ありがと、ナツはよくやった!」

「あのなぁ」

 息切れとため息が、混じって零れた。

 サクラノがあの重苦しい扉を開ける。

 汗まみれで火照る身体を、吹きぬく夏の風が冷やしてくれる。

 視界いっぱいに、青空と入道雲が飛び込んできた。

 僕とサクラノが出会った屋上。

 今日ははためくシーツはない。その代わり、白タイルの中央には、子供用のビニールプールがドンと置かれていた。

「はい、おつかれさまっ!」

 数日前の些細な約束を盾に脅された僕は、ビニールプールの中身を補充すべく、病院のトイレと屋上を何往復もさせられたのだった。

「いいのかよ、こんなことして」

 バケツを傾け、プールに水を注いでいく。

 透明な水面を揺らす、トプトプという音が心地よかった。

「大丈夫大丈夫! 許可ならもらったし!」

「この病院の人って、お前にやたら甘いよな」

「そうかな? よく怒られるよ、食べ物好き嫌いした時とか」

「小学生かよ」

 空っぽになったバケツを置く。

 振り返って、ちょっとだけドキッとした。

 サクラノがあの薄緑の病院着を脱ぎ捨てていたからだ。

 むき出しになる、細い手足。

 彼女が身に着けていたのはセパレートタイプのビキニだった。

 どこから取り出したのか、サングラスと麦わら帽子もしっかりと着用する。

「どう? 可愛いでしょ。水着のサービス回ってやつだよ」

 そう言って胸を張る。

「誰へのサービスだよ」

「まあ、この場にいるのはナツだけだし、ね」

「まあ、いいんじゃないか?」

 僕の微妙な表情を見、サクラノは声を張り上げる。

「その適当な返事、なんか不満!」

「いったい何がだよ」

「男子高校生でしょ? 同い年の水着じゃん! ちょっとはドキドキしたり、恋に気付いたりしようよ! ウブな反応を見せてくれると思ったのに……。なんか全然いつも通りなの、ズルい!」

「お前はちょっと恥じらえ」

「恥などとうの昔に捨てたわ!」

「今すぐ拾い直してこいよ。それに――――」

 いくら冷たい視線を向けても、もっとリアクションして! だの、あわよくば照れて、だの楽しそうに笑うサクラノ。

 まあ、僕だって思春期真っ盛りの男子高校生だ。

 町で美人のお姉さんを見かければ目で追ってしまうし、いわゆるエロ本だって二、三冊ベットの下に隠してたりもする。

 同い年の水着女子と二人っきり。シチュエーションだけ切り取れば、少しくらいは心が躍る。

 それでも、サクラノの身体。

 骨と皮だけのやせ細った手足、浮いたあばら青白い肌。

ところどころに見える病気の痕がやたら生々しく映る。

 胸は少し出っ張っているけれど、それでドキドキできるほど人の道をふみはずしちゃいない。

「それに、なに?」

「やっぱり良い」

「えぇ! 気になるじゃん!」

「なんでもない。僕はここで次の話を考えてるから」

 インドア派に照り付ける真夏の日差しは辛い。

 ただでさえサウナみたいな気温。このままじゃ熱中症で倒れてしまう。速やかに給水塔の影に移動し、腰を下ろした。

「ナツは入んないの?」

「そのビニールプールのどこに、スペースがあるんだよ」

「この隙間とかに」

「却下だ」

 不満げに言うと、サクラノはコロコロと笑う。

 人をからかって遊ぶの、もういい加減にやめて欲しい。

 横目でチラリと伺うと、サクラノのわき腹に目が言った。

青白い肌に、ひとすじ入った手術痕。でも、それはすぐに細長い手で覆われた。

「えっち」

 今度はちょっと不機嫌そうに、唇を尖らせていた。

「さっきはもっと見ろだの、リアクションしろだの言ってたろ」

「それとこれとは違うの! これは見られるって思ってなかったの!」

 そう言って顔をそむけたサクラノ。

 少しだけ、沈黙。

「……ごめん」

その言葉は、やかましいアブラゼミの声に紛れて消え入るように聞こえた。

「冗談だよ、そんなに本気であやまらないで」

 僕も膝に乗せたノートに目を落とす。

 ザプンと、水飛沫の飛ぶ音が聞こえた。

 それから、チャプチャプと水で遊ぶ音。

 僕はノートに文字を綴り続けた。

 環境は意外と快適だった。

猛暑と呼ばれる気温に変わりはないけれど、建物自体が山間にできてるおかげで、風がよくふく。

 ページがひとりでにめくれてしまうのは困りものだけど、クーラーでは感じられない、優しい涼しさが心地よかった。

 水で遊ぶ音。

 風の吹く音。

 セミの鳴く声。

 ノートのページがめくれる音。

 心地よい時間が、ゆったりと流れていく。

「あ、そうだ、すっかり忘れてた!」

「上遠野さんからの頼まれごととかじゃないよな? 俺まで巻き込まれるのは、勘弁してくれ」

「そんなんじゃないって。ねえ、クーラーボックスの中の物とってよ」

「クーラーボックス?」

「そ、こういうこともあろうかとね、あらかじめ準備しておいたの」

 脇を見ると、確かに水色のクーラーボックスが置いてある。

「ほんと、こういうのの準備は良いよな」

 やたら大きなクーラーボックスのくせに、中には二つくっついたパピコが、ポツリと置いてあるだけだった。

「黄色、カフェオレ味じゃないんだな」

「半分あげる。味は食べてのお楽しみ」

 半分に割ったパピコを、ビニールプールに向けて放る。

「おっとっと」

 放物線を描いた黄色いパピコ。

 骨ばった手は受け止め切れず、ポチャリと静かに音をたてた。

「あちゃ」

「わりい」

「いいよ、大丈夫」

 中のシャーベットは少し溶けていた。

 ヘタを取った瞬間、黄色い液体が指につく。

 舐めとると 爽やかな甘酸っぱさが、が口いっぱいに広がった。

「レモン味か?」

「正解! シチリア産レモン味!」

「やたらお洒落なフレーバーだな」

 咥えた瞬間、流れ込んだシャーベットが喉を潤してくれる。

「なんでレモンって初恋の味なんだろうね」

「昭和のザ・ピーナッツって歌手の、レモンのキッスって曲が元ネタらしい」

「さっすが! どこかで調べたの?」

「恋愛小説で使えるかもって、昔調べたんだ」

 まあ結局使い場所、なかったけど。

 評価シートには心情表現が分かりづらいと記されていた。確かに、恋愛小説でそこが駄目なのは致命的だ。

 思えば僕の評価シート、いつも気になるポイントにはそんなことが描かれていた。

「だから、あの漫画はあそこまで伸びたのかもな」

『佐藤ちゃん』のいいねは二十万までいった辺りで止まった。

 サクラノの描く『人を引き付ける表情』。

 それがちょうど、僕の苦手な感情表現の部分をカバーしてくれた。

 それがあの結果に繋がったんだと思う。

「ほんとナツってば、いつもおはなし書いてるよね」

「好きだからな」

 約束があるから、っていうのもある。だけど続けてこられたのは、僕自身、物語を書くのが好きだったからだ。

「うんうん。好きって気持ち大事だからね。ちなみにいつから小説書いてるの?」

「そうだな……遡ると小学生の頃になるのかな」

「ずっとハッピーエンドの小説?」

「まあな」

 もう十年も昔の話だ。

 きっかけはもう憶えていない。初めての作品を書いたあの自由帳もいつのまにかどこかに消えてしまった。

 アイデアノートの番号も、これで百四十一。

「我ながら、よくもまあここまでやってこれたよな」

「いま、なに書いてるの?」

「次の漫画だ」

「あれ? 佐藤ちゃんは?」

「それとは別。シリーズ物はメリットとデメリットがあるからな」

「メリットとデメリット?」

 プールに浸かり、四肢を投げ出したサクラノは首を傾ける。

「シリーズものは『いいね』伸びが安定している。これがメリット」

 一度結果を出した作品なのだ。固定ファンが付く分、安定した『いいね』数が期待できる。

「それで? デメリットは?」

「一話のインパクトが強いからな。二話以降の話が一話を超えることが少ない」

「なるほど、二話から読む人って少ないもんね」

「そういうことだな」

 勿論、新シリーズが今あるシリーズより伸びる保証なんてない。

 いや、むしろこける可能性の方が多いはずだ。

 プロだって二作連続でヒット作を生み出すのは至難のわざ。

 それをホイホイとできるのは一部の天才だけだ。

 だけど、

「僕らが目指すのは、高い場所だもんな」

 門山大賞。

 日本で一番面白いツイッター漫画。その称号を得るために必要な『いいね』は最低でも五十万。

「足を踏み出すの、躊躇ってるわけにもいなないもんね」

「ああ。佐藤ちゃんは継続して書きつつ、フォロワー、固定ファンを増やしていく」

「じゃあ新作は?」

「夏休みの二週間。この時間を全部つぎこんで、最高の作品を作り上げる。それで、勝負にでたい」

「すっごい自信! またラブコメ?」

「ちょっと違う」

「え? じゃあ、ファンタジー?」

「いいや。あまりにもラブコメから離れすぎると、『佐藤ちゃん』のファンを引っ張ってこれなくなるからな。――――次は、青春モノだ」

 ここの一週間。練りに練りあげた一作。

「かなり自信ありげだね。もう内容は決まってるの?」

 もちろんだ。

 この瞬間ばかりは、僕も恰好をつける。

 ちょっとだけニヒルに微笑みを浮かべてみて、一言。


「次のは、そうとう面白いぞ」

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