夏の青空みたいな少女
「ほんと、死んだほうがマシだったよ」
病院のこぢんまりした飲食スペース。
狭い部屋に三つ並んだ自動販売機。ため息と一緒に呟きながら、缶コーヒーのプルタブを開けた。
あの事故から二週間。
足とあばらが何本か折れた。
松葉づえと数週間の入院生活は余儀なくされたけど、なんの奇跡か命だけは拾ったらしい。
だけど、
「なんで生き延びてまで、こんな目にあわなくちゃいけないんだ」
投げやりに呟き、ポケットから紙きれを取り出す。
『門山出版 週刊少年ストリート編集部 熱三 司』
編集者が直接尋ねてきた。作家志望が浮足立つのも仕方ないと思う。
でも、やってきた男は、そんな僕の気持ちを一瞬で粉々にした。
「なにか期待してたわけじゃないけどさ……」
一時間前のことを思い返し、もう一度、ため息をついた。
◇
「単刀直入に言いますが、あやせ先生とはもう関わらないでいただきたい!」
名刺を受け取った瞬間、怒鳴りつけられた。
病室を訪れた男は皺だらけのスーツに身を包んでいた。
小柄な体格、はみ出た前歯、逆三角形の輪郭。なんだかねずみを思わせる。
いきり立つ男は、あやせの担当編集を名乗った。
「先週の事故。あれ以来、あやせ先生は漫画をお描きにならない! それどころか、まともに食事も取らないしまつです」
「あやせが……」
昔から繊細な子だった。
罪悪感が胸につかえる。
「以前からあやせ先生は、口を開けばあなたの事ばかり……。それ故に、危険なのです!」
「危険?」
「ええ。あなたが事故にあうだけで漫画が描けなくなるのです。アヴァロンズ・サマーは連載が終わったといえ、空前絶後のヒットを記録しています。我々編集部だけでなく、アニメ会社、そして世間が彼女の漫画を待ちわびている。あなたの体調程度で製作が止まっては迷惑なのです」
ねずみ顔が繰り広げる身勝手な言い分に、少しだけカチンとした。
「つまり、僕程度で、あやせが漫画を描けなくなるのは迷惑だから縁を切れと?」
「ま、そういうことですね」
「そんなの」
胸の内がカッと熱くなる。
でも、どう反論すればいいのかわからなかった。
たかが、作家志望の一人死んだところで誰も悲しまない。
だけど、あやせが漫画を止めれば、千人、万人、もしかしたら数十万人もの人間が悲しむ。
「でも、あやせは、僕の幼馴染で――――」
最後の抵抗。でも、答えは冷たい。
「『アヴァサマ』の経済効果、わかっています? うん千億円ですよ。あなたにそれと釣り合う価値があるとでも?」
完敗だった。
◇
最後の方、熱三編集が何を言っていたのか憶えていない。
「もう全部、諦めた方がいいのかな」
缶コーヒー最後の一滴を舌に垂らし、呟いた。
夢はギャンブルと一緒。掛け金は人生。成功すれば富に名声が手に入る。
でも、すべての人間が成功するわけじゃない。
彼等の足元には、いつだって、敗者たちの屍が積み重なっている。
たとえば、三十歳になるまでこの夢を追い続けたら?
安定した職、普通の恋愛、暖かい家庭。その時になってから求めても、取り返しなんてつかない。
リスクの大きい賭けに挑む人間を、人はバカと呼ぶのだ。
ただ、それでも、
「簡単に捨てられたら、苦労しねえんだよ」
ここで諦めたら、これまでの自分をバカと笑うことになる。
それは、嫌だった。
「入院中は暇だし、病室戻ってアイデア練ろう」
杖をつき、ゆっくりと歩きはじめる。
名刺は空き缶と一緒にゴミに捨てた。
◇
「どこいった! 僕のアイデアノート!」
枕元に置いておいたはずのソレは跡形も無く消えてしまっていた。
部屋は個室。誰かが持ち去ったとも考えにくい。
「盗まれた? いやいや、誰があんなモノ欲しがるんだよっ!」
自分で言うのもなんだけど、僕のアイデアなんて誰かが欲しがるとも思えない。
枕の下、ベットの隅、かばんの中。
ノートは影も形も見せてくれなかった。
「もしかして、本当に盗まれたんじゃ」
確認はしておいた方がいいかもしれない。
そう思い、病室を出たところで、担当の看護師さんと鉢合わせた。
ショートカットに釣り目のスレンダー美人。胸元からは『上遠野』と書いたネームプレートがぶら下げてある。
この病院の患者ならだれもが知る彼女の異名は『氷の女王』。
その名の通り氷のようなキツい態度が特徴のナースさんだ。
「田子さん。精密検査は終わっていないので、安静にしていてくださいって言いましたよね?」
いつもどおり、冷たい視線が僕を襲う。
「それともなんですか? 入院期間を延ばしたいんですか?」
「緊急事態が起きたんです! 聞いてくださいよ!」
僕はことの経緯を説明する。
「枕元にあったノートが無くなってたんです!」
「それで? まさか当院の人間が盗んだとでも? 治療行為に預かっておきながら、なお疑うとは。ほとほと恥ずかしい人間ですね」
「そこまでは言ってないですよね!」
「ま、ここまで泣きつかれては仕方がありません。ノートのありかを教えてあげましょう」
「結局、知ってるんですね……」
「ええ、五号病室の桜木さんが盗みだしていかれましたよ」
「やっぱ盗まれてんじゃねえか!」
頭を抱える僕に、上遠野さんは首を傾げる。
「注意はしましたよ。桜木さんも『わかりました』と言って、ご自分の病室に戻っていかれました」
「その手には?」
「三冊のノートがありました」
「この病院は無法地帯か何かなの?」
なんだかもう、頭が痛い。
「ともかく、五号室にいけば桜木って奴に会えるのね?」
「この時間帯はいらっしゃらないと思います」
「じゃあどこで会えるんですか?」
「普段通りなら屋上にいらっしゃると思います」
「色々言いたいことはありますけど、一応礼は言っておきます!」
桜木だかなんだか知らないけれど、余計なちょっかいを掛けてくる奴には一度ガツンと言ってやる必要がある。
すれ違い様に上遠野さんはボソリと呟いた。
「彼女は、凄いですよ」
「それ、どういう意味ですか?」
「あえばわかりますよ」
少しだけ得意げに告げ、上遠野さんは廊下の曲がり角に消えていった。
◇
市立千代病院には、三十年ほどの歴史があるらしい。
桜木財閥の融資によって作られた、市内唯一にして最大の病院。
バブル経済期に作られたこの建物はむちゃくちゃ古い。
無機質な灰色の壁。鉄筋コンクリートの独特な匂い。薄暗い非常階段に明かりは避難等の淡い緑色しかない。
「くそ! 桜木ってやつ、待ってろよ! 絶対に後悔させてやる!」
と、登り始めた頃には絶頂だった怒り。
だけどこの急な階段は片足がギブスの身には辛かった。
「最悪だ。とっととノート取り返して、病室に戻ろう……」
そんな具合に、階段の一番上に着くころには、怒りはすっかり意気を潜めていた。
上がった息を整え、冷たいドアノブを掴む。
折れていない左足で踏ん張りつつ、全体重をかけ重い鉄扉を開いた。
眩しい。
非常階段の薄暗さに慣れ切った目に太陽の光が飛び込んでくる。
初夏の澄んだ空気。香る潮の臭い。干された白のシーツがバタバタと音をたててはためく。
白の世界がそこにあった。
「すごいな、ここ」
千代病院は小高い丘の上に建てられた病院だ。
並ぶ街並みと、その向こうの海、青い地平線。
「っと、いけない。今は風景を堪能してる場合じゃないんだ」
我に返り、屋上を見渡す。
きちんと敷き詰められた正方形の灰色タイル。白の鉄柵の高さは胸元くらい。整列した物干し竿には洗濯したばかりのシーツ。
そして見上げた給水タンク。
そこに女の子がいた。
少女は夏の青空に似ていた。
どうしてか、そう思った。うまい表現じゃないのはわかっているけど。
その肌と同じく、色素が抜け落ちた真っ白な髪。肩ほどまで伸びたそれは、後ろでひとつにまとめられ、さらさらと風になびく。
白くほっそりとした指がノートのページをめくるたびに、柔らかい曲線を描く唇の端がふふっと持ち上がる。
大きく丸い瞳は、不思議なことに薄めの空色を帯びていた。
意志の強そうなすっきりと整う容姿。緑色の病院着。痩せ細った手足。
たぶん、この病院の患者なんだろう。
ほんの少しの間だけ見惚れてしまっていた。
でもすぐに我に帰る。そして僕は声を張り上げた。
「おいどろぼうっ! ノート返せ!」
ノートをめくる手が止まった。
それから青の瞳は迷わず僕を見つける。
「思ったより早かった。よく来たね」
帰ってきたのは、待ち合わせた友達に掛けるくらいの気軽い言葉だ。
「悪ふざけに付き合ってる暇はないんだ。とっととそれを返せ」
「釣れないなぁ。いいじゃん、ここでちょっと話していこうよ!」
「お断りだ。僕は関わりたくない人種が三ついる。その一つがお前みたいな、初対面のクセにやたら慣れ慣れしいやつだ」
「お堅いね。ちなみに残りの二つはなんなの?」
「ネズミ顔の編集者と、毒舌ナースだ」
とくに前者とは、もう二度と顔を合わせたくない。
「まあ、君が私を嫌いでも構わないんだけどさ。……いや、ちょっと困るか。ま、ともかく今わたしの手にはこれがある」
少女は、その手のキャンパスノートを持ち上げる。
「『こいつがどうなってもいいのか!』って、このセリフ言ってみたかったんだ」
「バカにしてんのか? 言ったろ、僕は暇じゃないんだ。話があるならとっととしてくれ」
「ま、それもそうだね。くどい前置きすることないか」
ポリポリと頭を掻く少女。それから、四つん這いになり、ずいと体を乗り出した。
「ねえ、私と組んで漫画を描いてよ」
「は?」
間抜けな声を出した僕に構わず、少女は続ける。
「このノートに書かれた話たち、私は好き。だから君が描く物語を私は絵にしたい」
これまでの自己中な態度から一変。少女は頭をペコリと下げる。
彼女の言葉で、怒りはどこかにすっとんでしまった。
作品を褒められたことは嬉しい。
でも僕はその提案に、頷くことは出来ない。
「漫画の話には、先約がある」
幼い頃に、結んだ約束。
あやせ意外のヤツと組んだら、それはたぶん裏切りだ。
あの背中はもう遠くにいってしまったのに。
約束にしがみつく僕がいた。
「どうしても駄目?」
「ああ」
「私が、『ブタ野シンジュ』だって言っても?」
「ブタ野シンジュ……お前が?」
「そ。こういうの自分で言うもんじゃないけどアピールポイントだからね。いま話題のイラストレーター。SNSに上げたイラストで絶大な人気を獲得したけど、依頼は殆ど受け付けず、ごく気まぐれに自らアプローチを掛ける。彼女の関わった作品は、どれも莫大な売り上げを記録。謎のカリスマイラストレーター。それが私」
イラストの世界にあまり詳しくない僕でも知っている。
透明感溢れる世界と、生きたキャラクター。あまりにも謎が多いことも相まって、二年という短い活動期間ながら、すでに伝説と称される。
それがブタ野シンジュだ。
「悪い話じゃないでしょ? どうしても君がいいんだ」
吊り下げられた飴は、あまりに大きくて魅力的だ。
有名イラストレーターと組んで漫画が描ける? しがない小説家希望には、うますぎる話。
だけど僕は、あの忌まわしい約束が捨てられなかった。
「駄目なんだ。それは」
首を横に振る。しがない約束のために、チャンスを棒に振る。僕は自分で思っている以上に馬鹿だった。
「そっかぁ、残念」
小さくため息をついた少女。
それから、給水塔を錆びた鉄梯子に足をおろした。
カンカンと子気味の良い音。
そして青色の瞳は小走りで近づき、目と鼻の先に迫る。
「良い返事は出来なかったんだ。人質は皆殺しか?」
「そんなドラマじゃないんだから。ま、もともとそんなつもりなかったんだけどね。――――はい、これ」
少女はノートを差し出してきた。だまってそれを受け通る。
「諦め悪いとは思うけどさ、君の物語、どんな前振りがあってもハッピーエンドにしちゃうとこ好きなんだ。話を書いてくれるなら、なんでもするよ」
「悪いな。せっかく俺の話、好きになってくれたのに」
「気にしてないよ。気が変わったらいつでも会いに来て」
彼女の晴れやかな笑顔から目を逸らし、僕は再び屋上の鉄扉を開いた。
片足であの急な階段を行き来したせいか体力の消耗が激しい。ベットに体を預けると、急に眠気が襲ってきた。
「ほんと、最悪な一日だった」
消灯時間まではまだあるのに、そんな言葉を呟いていた。
ねずみ顔の編集者、毒舌ナース……の顔は毎日見ているか。それに、ノート泥棒。
「話なんて、自分で考えれば良いだろ」
ブタ野シンジュに絵をつけて欲しいクリエイターなら、いくらでもいるはずだ。
それこそ、すでに大きな結果を残した作家でも。
でも、僕は……。
「僕ってなんのために生きてんだろ」
小説賞に出そうと、ネットに投稿しようと、箸にも棒にもかからない。
誹謗中傷とかアンチとかよく見かけるけど、誰かに気に留められている分、そっちの方がよっぽど羨ましいと思う。
「こっちなんて視界にすら入れてもらえないんだ……」
勝手に呟き、勝手に悲しくなった。
「こんなことばっか考えてても意味ないよな」
気分を変えよう。そう思って、スマホの電源をいれる。
でも、結果的にそれは逆効果だった。
点灯するディスプレイ。そこに映るニュースに、サッと血の気が引いた。
『冬見あやせ 原作 アヴァロンズサマー、来年夏にハリウッドで実写化公開!』
関連ツイートは数百万。
各界著名人からの喜びの声。
あの憎たらしいネズミ顔の乗ったインタビュー記事も、でかでかとリンクが置かれている。
「は、はは……」
変な笑いが零れてしまう。
力を無くした右手からスマホが零れ、床にカツンとぶつかった。
昔、焦げ付く夕焼けの中で約束をした。
――――――僕がデビューして、日本、いや世界で一番の小説家になる。その間にあやせは、世界で一番の漫画家になってくれ!
「ハリウッドで実写化って、ほんとになったじゃないか。世界一の漫画家ってやつに」
彼女は約束を守った。じゃあ僕は?
スタート地点は同じ、あの夕日の下のはずだった。
でも、今や僕たちの間には、大きな隔たりが横たわっている。
浮かぶ二つの選択肢。
諦める。
あの約束を子供の頃の夢と笑って、波も風も立たない、平凡な人生を過ごしていく。
もうひとつは、諦めない。
手段なんて選ばない。どんなに惨めな思いをしたって、がむしゃらに走り続ける。
「決めなきゃ、いけないよな」
半端な気持ちのまま、ズルズル進んでいける道じゃない。
熱くなる目頭を枕に押し付け、歯を喰いしばった。
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