第6戦 VSガライカ
先祖帰りと呼ばれるイヌの思考は他の獣人と変わりはない。
それなのに、その見た目故に迫害を受ける。
大半は見せ物にされ、家畜として扱われる。
ただでさえ、この国の獣人の扱いは獣同然だというのにだ。
首輪に繋がれ、外の世界を一切見ることなく死んでいくイヌは未だに多くの割合を占めている。
自由な交流は許されない。
血統を汚すことに繋がるからだ。
人と変わらぬ外見を持ちながら、その血が獣のものだからと言う理由だけで、犬という一つの括りにされてしまう。
愛玩動物ならまだましだ。
劣悪な施設を抜け出したとしても、籍を持たないイヌは路地裏生活を余儀なくされる。
そうして、犯罪を起こすイヌが増え、結果、駆除対象から外れない。
先祖帰りのイヌはマニアには人気がある。
鑑賞用に欲しがる金持ちは多いが、意思のある生き物を完全に制御できるわけがない。
四つ足の犬と同じ様に飼いはじめて、結果殺してしまうことも珍しくない。
そして、その飼い主に課せられる罪は、殺人ではなく屠殺法違反なのだから、腑に落ちない。
ラスクが出会った先祖帰りのイヌの中で、ガライカは最も獣に近い。
毛深いだけの先祖帰りのイヌに出会ったこともある。
かつての飼い主につけられた大きな傷が寒い日にズキズキと痛み、蹲っていた。
人間を恐れ、反抗すれば罰が下ると刷り込まれ、暗い小部屋で震えながら暮らしていた。
バディが引きずり出そうとしたこともあったが、頑なに拒み、震え、とても外を歩ける様子ではなかった。
ガライカほど獣に近ければ、多くのマニアが彼を欲しがるだろう。
ラスクの過去に残るガライカの目はまだキラキラしていて、陽の光を反射させたガラス玉のように輝いていた。
それが、真っ直ぐに暗い影を落として冷たい色に染まっていた。
少し考えれば、彼が辿った道は想像できる。
「浅はかだった。ガキの考えだ」
過去を叱責しようと、変えることはできない。
人を憎むようになった兄弟が目の前にいて、自分を恨んでいる事実があるだけだ。
薄暗い部屋で濁る思考に蓋をするように、ラスクは眠りについた。
母の目を盗んでプラムを盗もうと計画を立てた事がある。
幼いラスクとまだ丸っこいガライカ、そしてろくに話すこともままならない赤い目のイヌ。
怒られるから辞めようと弱気なガライカを無視して「大丈夫だ」と笑う。
夜中寝床から這い出してプラムの木によじ登る。
陽の光が苦手な赤い目が不安げな視線を向けながらラスクの服の裾を掴んでいた。
「いい匂いがする。あとで皆でこっそり食べような」
白い歯をみせて笑うラスクを見て、そっと細い指が離れた。
勢いよく上り、太い枝に座ると、甘酸っぱい果実の香りが鼻を擽った。
小さなイヌの孤児院に十分な資金はない。
育ち盛りの子供たちはいつでもお腹を空かせていた。
果実の香りは空腹を刺激するには十分で、鼻の利くイヌはこの木のプラムを指を咥えて眺めていた。
母は半分は砂糖で漬けて、半分は果実酒にして資金にすると言っていた。
それを素直に「はい」と言えるほど、彼らはまだ大人ではなく、一人1つずつ頬張るくらいは問題ないような、たわわに実った果実の群れを見れば我慢をする方が難しかった。
プラムをもぎ、下で待つ弟に放る。
モコモコとした大きな両手でそれを受け取ったガライカは、赤い果実に目を輝かせ、甘い香りにうっとりとした。
それを見て、赤い目がこちらを向く。
「待ってろ。もう一個。ほら、ちゃんと取れよ」
プラムをもう1つもぎ取り、真下の顔を目掛けて果実を落としてやる。
ぽこっと音を立てて額にぶつかったものの、転がった果実をしっかりとその白い指が掴んだ。
つるりとした皮から甘い匂いがする。
初めての物を見るようにぱぁっと表情が明るくなる。
その顔に満足して、ラスクも自分の分をもぎ取った。
ストンと木から降りて、三人はこそこそと物陰に隠れる。
夜の薄暗い廊下は恐ろしかったが、手に握られた果実が勇気をくれた。
一人一つ大事に握ったそれが、ほんのりと温かいような気さえした。
果肉に歯を立てて、まだ少し固い果肉をカリッと齧りとる。
じわりと滲む甘酸っぱい果汁が口に拡がり、酸味に顔をしかめた。
「んっ……すっぱいっ」
音を上げたガライカだが、大きな口でまたかじりつく。
「文句言うなら俺が食うけど?」
意地悪に問いかければプラムを隠すようにしてガライカの口が開く。
「食べる。すっぱいけど、美味しいもん」
とられまいとがつがつ貪る様子にラスクは満足だった。
隣で小動物のようにカリカリと少しずつ食べている弟は、赤い目を細めていた。
「旨いか?」
ラスクの問いにへらっと笑い
「おいしい」
と答えるのだ。
対象的な二人の弟はラスクにとって大事な存在だった。
ずいぶん古い夢を見ていたようで、目を覚ましてから頭が上手く働かなかった。
夢と現実の狭間でふわふわと浮遊しているように身体の感覚が鈍い。
天井なのか、青空なのか区別を付けるのに時間がかかる。
目蓋が思うように持ち上がらず、視界がボヤボヤと滲んでいた。
重たい身体が目を覚ますことを拒んでいるようにも思えたが、そのまま寝ているわけにもいかない。
少しずつ現実に戻ってきた身体で起き上がり襟元に滴る雫に気づき、ごしごしと雑に拭った。
「ガキかよ」
夢をみて泣くなどらしくない。
戻らないと決めた時から、別れは必然だった。
今さら、恨まれていることを嘆くのは身勝手だ。
青い目を伏せ、打ちっぱなしの壁を見つめる。
無機質で均一な灰色のはずの壁が、モヤモヤと蠢いているようだ。
大きく息を吐き、頬を叩く。
頭の靄を打ち消して、顔を上げる。
ガライカと再会して、既に3日が経っている。
一つの試合を無難に終わらせた以外、ぼやぼやとした思考で過ごしている。
いつまでも引きずるのはらしくないし、メリットがない。
よしと、声をだし、今日の試合を確認するために、部屋を出た。
ラッセのいるカウンターに向かう途中、大きな欠伸をしながら歩いているイスカと出会った。
気だるそうな顔でラスクを見つけ、視線だけ寄越してきた。
軽く手を挙げるも、イスカはツンとした表情のまま横を過ぎようとする。
「挨拶も無しかよ」
思わず悪態をついたラスクを、イスカは鼻で笑った。
「あんたに挨拶をする義理がないでしょ」
その言葉に少々むっとしたラスクだが、昨日揉め事をするなと釘を刺されたばかりだ。
喉から出そうな売り文句をぐっと飲み込み、息を吐く。
その様子にイスカは感心したような声を漏らす。
「あら、いい子じゃない」
「大人しくしておいた方が、後々楽だろ」
「新人の割には物分かりがいいわね。
門番[キーパー]が珍しく仕事をしてるのかしら?」
やはりカウンターに座っている黒い首輪の男はサボり癖が酷いらしい。
イスカの口ぶりから、入ってくるイヌに説明が十分されていないのはいつもの事なのだろう。
それで仕事を増やすなと叱咤するのだから、理不尽だ。
「昨日、こいつの仕組みを聞いた」
自身の首につけられた赤い輪をつつきながらそういうと、イスカはふーんと気の抜けた声を出していた。
「セーフティ装置の話は、初耳だ」
「ただの飾りだと思ったの?」
「イヌを区別するためのものかと…」
収監されているイヌの首輪は全て赤色だ。
ディングの首輪も赤い事を考えると、試合の対象が赤いなのだろう。
対して、試合をせず、カウンターで事務処理をしているラッセの首輪は黒色だ。
外せない仕組みになってるらしく、表面に見えているバックルは飾りに過ぎなかった。
試合をするイヌのタグのような物だと思っていたラスクをイスカはニヤニヤと見下ろしている。
「わざわざこんな手を混んだ首輪作っておいて、区別だけの目的なわけがないじゃない。」
その言い分は少し考えれば納得がいく。
まともな感性のイヌの方が少ないのだから、行動を制御するシステムは必要だ。
監視カメラに関してもそうだ。
ここにはイヌの姿しかない。
人間の看守も、黒い首輪のイヌも歩き回っていない。
「あたりまえだけど、制裁用の電流だけじゃなくて、発信器もついてる。
変な場所に行こうものなら直ぐにばれるから、気を付けなさいよ」
「発信器?」
「あら、それは聞いてないのね?」
広いセクター内を自由に歩き回る事は許されている。
セクターは高い壁と天井に覆われているし、出入口は硬く分厚い鉄の扉で閉ざされている。
発信器をつけるほど、外に出る手段があるようには思えなかった。
「何を監視してるかわからないけど、言動も筒抜けって話だから、口喧嘩も控えなさいね」
そう笑うイスカに説得力がない。
ラスクは眉間に皺を寄せ、
「あんたがいうことか?」
「あら、勝手に買ってるのはそっちでしょ」
一切悪びれる様子のないイスカに、再びため息が漏れる。
人を馬鹿にするの天然のものらしい。
これ以上話を伸ばすと、手が出そうだ。
「こっちに来るってことは、今日の試合はないのか」
「えぇ、今日は観客。面白い試合をみせてよね、おチビちゃん」
嘲笑うような嫌な顔を向けて、肩を叩くイスカに舌打ちをする。
かつかつと軽快な足取りで客席側へと向かうイスカに迷いはなさそうだ。
まるでここに居ることに誇りでも持ってるかのようにも見えた。
巡り合わせとは残酷なもので、カウンター越しに日程を見たラスクは全身を強張らせた。
午後の部の一試合目に組み込まれた名前を何度も確認する。
自分の名前の隣に表示されているのは、あのハスキー犬だ。
何かの間違いではないかと思いたいが、非情な文字列は変わってくれなかった。
「揉め合ったんだ。
他所で問題になるくらいなら早めにぶつけた方がいいってのは、普通の考えじゃないか?」
ゴシップ誌を捲るラッセが気だるそうに声をかける。
ふかした煙草が酷く不快だった。
「棄権とか、できないのか?」
弱気な発言にラッセの目が動く。
「できなくはないけど、ここでの義務を忘れるなよ。
義務の放棄は生存権の放棄だ。
ガライカの試合は人気だからな。
損失がでかけりゃ…なぁ?」
命を握られている状況を忘れるな。
そう言いたげな真っ黒な視線は拒否を許さない。
幼いティナだって、勝てる見込みのないような試合をしているのだ。
青年の、しかもまだ黒星がついていないラスクに棄権という選択肢は与えられないだろう。
ぐるぐると思考を巡らせ固まっているラスクに、ラッセは不可解なものを見るように頬杖をついた。
「お前さ、初対面の少女には躊躇わずに手を出すくせに、なんで面識のある大男にそんな戸惑うんだよ
そりゃ、知り合いボコすのは気が引けるかも知れねぇけど、喧嘩したばっかだろ?
お前は血の気が多い方のイヌだと思ったんだが」
その言葉の意味を考える。
ティナは何処からどう見ても幼い女の子で、普通手を簡単にあげれるような姿ではない。
けれどラスクにとっては何処までも他人で、情けをかけるには要素が少なすぎた。
もちろん、女の子に手を上げる事に躊躇いがないと言われれば嘘になる。
それでも、敵だと言われれば割りきるのがラスクだ。
それなのに、相手がガライカであるとそうはいかない。
兄弟としても血の繋がりはなく、別れてからは一切会っていないどころか、人づてに噂を聞くこともなかった。
生きていくことに必死で忘れていた事があるのも事実だ。
ラスクは視線を落として考えていた。
自身が他より薄情であることは周りから教えられていた。
割りきることで非情になれるラスクは組織内では重宝されても、外に出ればそれを非難される。
良くも悪くも切り替えが出来ることが強みのはずだった。
それがどうだ。
かつての身内というだけで内側を掻き乱され、今はまだ大人しく従うべき時期だというのに我が儘をいう始末だ。
ぐるぐると靄の中を這い回るような堂々巡りをしている様子をみて、ラッセがふーんと声を漏らす。
「お前、案外普通の感覚してるんだな」
「何だと思ったんだよ」
「非情な奴だと思ってたよ」
怪訝な表情のラスクとは裏腹に、ラッセの表情は穏やかだった。
「ま、だからって、試合はなくならねぇよ。
お前もガライカも動けるんだからな。
棄権にしてやる理由がない」
口元を歪ませてラスクが睨むが、ヒラヒラと手を振られるだけで、それ以上は相手にされなかった。
モヤモヤとしたまま、時間だけが過ぎていった。
観客席からの声を聞きながら、控え室で目を伏せる。
脳裏に浮かぶ愛らしい子イヌと殺意に満ちたイヌが共にラスクを責める。
「どうして、あの時」
その声がグサグサと身体に突き刺さるようだ。
手のひらで顔を覆い、深く息を吐く。
「誠意、か」
真相は兄弟には絶対に話さないつもりでいた。
それが彼に対する誠意で、そうすれば彼らは穏やかに過ごせると思ったからだ。
けれど、現実はそうではない。
兄弟は二人ともここに居て無情な試合をさせられている。
あの時の選択が間違いだったのなら、誠意は見せるべきだ。
ガライカは素直に話を聞いてくれるだろうか。
この口から出た言葉を信じてくれるだろうか。
それと同時に、あの赤い目の兄弟も自分の過ちを受け入れてくれないだろうか。
パンっと乾いた音を立てながら頬を叩く。
天井を見上げた青い目はしっかりと先を見据えていた。
これまでの試合より、観客席からの声が大きい。
その多くがガライカに向けられているものだ。
相変わらず、異質な者に対する野次は容赦を知らない。
手当たり次第の罵声をぶつける観客を、ラスクが睨む。
その視線に、一定のイヌは息を飲んだが、大した効果は見られなかった。
対面の扉から真っ直ぐな憎悪と共にガライカが入ってきた。
野次が大きくなるが、二人の耳からは遠退いていくようだった。
「兄さん、逃げなかったんだ」
蔑むような視線に、僅かに視線を外したラスクだが、直ぐに青い目を向け直す。
兄として、逃げてはならない。
「逃げてばかりじゃ、格好つかないだろ」
プールサイドでは迷いが勝り、手を出すことが出来なかった。
うろうろとさ迷っていた視線も、今はハッキリとガライカをとらえている。
「兄さんはいつも勝手だ。僕らに関係なく、一人で決めるんだ」
唸るように言葉を吐くガライカは、重心を落とし、いつでも飛びかかる事が出来るよう体勢を整えている。
その手にはやはり武器はない。
ガライカの言葉よりも、今現在の差別を恨むように、寂しい青色を向ける。
「最後に頼れるのは自分自身だ。
後悔をする事はあっても、他人のせいにはしない。
それで現状は変わらないだろ」
「自分に都合のいい考え方をしてるだけじゃないか。
僕がどれだけ苦しかったか、兄さんにわかるかよ!」
ガライカが叫ぶと同時に開始のブザーが鳴り響いた。
大きな足が地面を蹴り上げ、牙を剥き出しにしたガライカが飛び込んでくる。
広げられた手の先には鋭く太い爪が伸びていた。
のし掛かられてしまってはそこでお仕舞いだ。
ラスクは飛びかかるガライカの下を潜り抜け、背後を狙う。
小柄なラスクにとって引き下がるよりは相手に向かっていった方が身を守れる。
小さい身体を恨むものの、機動力は高いと自負している。
地面に手を付き勢いを殺し、ガライカが振り向く前に身を翻す。
背後からの攻撃に的確に反応できる者は少ない。
背を少し掠めるくらいを狙いナイフを握りしめた。
振りかぶったその時、右の視界に大きな塊が飛び込んできた。
それは鞭のようにしなり、ラスクの身体を吹き飛ばしたのだ。
不意の打撃に頭を押さえながら、距離を計る。
直ぐに間を詰めず、息を調え、ガライカの様子を伺った。
鞭のようなそれは、尾だった。
尻の付け根から伸びる大きくふさふさとした尾がラスクを襲ったのだ。
「いつまでも、弱い子犬だと思わないでよね」
ガライカの目はギラリと光り、剥き出しになった牙が敵意を物語る。
観覧席から野次が飛ぶ。
「チビ助!何やってんだ!」
「獣野郎、ガキ相手に恥ずかしくねぇのか!?」
実際にはラスクの方が歳上のはずだ。
だが、この体格差ではそう捉えられても仕方がない。
ラスクは平均身長より低いし、ガライカは年齢が分かりにくい。
おそらく、真実を知るのは今向かい合っている二人と、管理者だけだろう。
砂を払い、ガライカの姿を見る。
客席では遠目に見ていたし、プールサイドでは過去の記憶が混ざって凝視出来なかった。
けれど、今は覚悟を決めた。
話をするために、中途半端な情けは不必要だ。
全力で向かい、互いに必死だったことを認めなければならない。
目の前のガライカは、刃物を持っていない。
けれど、その大きな体や、黒く鋭く爪もむき出しの牙も体の全てが武器になる。
単純に力では敵わない。
それは明らかだった。
「弟に、負けてたまるかよ」
兄としてのプライドだ。
その言葉に顔をしかめたガライカが、唸る。
「僕らを捨てたくせに、何言ってるんだよ」
太い足が地面を蹴り上げる。
大きな体の一歩は大きく、迫り来る牙が一瞬で間を詰めた。
僅かに髪をかすめてガライカの肩を押し上げる。
バランスさえ崩したらナイフを突きつけるチャンスがあると考えた。
だが、触れた肩は筋肉の塊で、岩を押しているようだった。
バランスを完全に崩す前にガライカの手が地面に付き、身体を支える。
勢いが付いたままの足がラスクを蹴り上げようと迫り来る。
押しきれなかった肩がまだ目の前にある。
跳ねることができない。
丸太のような足がラスクの腹部を蹴りつける。
衝撃に息が止まる。
突き刺さる激痛に顔をしかめていると、反対から、今度は腕が振り下ろされる。
咄嗟にナイフを立てたが、ガライカはナイフが刺さることも躊躇わず、その腕を振り下ろした。
大きく砂煙が舞い、追い出されるようにラスクが転がり出た。
腹部と左腕を庇いながら、砂煙がおさまるのを待つ。
リズムを乱された呼吸がなかなか落ち着かず、肩を上下に揺らしていた。
砂煙が落ち着き、姿を見せたガライカは、見せつけるように腕に刺さったナイフを抜いた。
赤い血がどぷっと溢れ、渇いた砂に染みていく。
「勝負あり、じゃないの?」
傷など気にする様子はなく、冷たい目でラスクを見下ろしている。
その姿は狼男と呼ぶに相応しいものだった。
「諦めが悪いのは、知ってるだろ?」
痛みを堪えて笑って見せる。
怪訝な表情のガライカは呆れているようにもみえた。
「お前らに、もう、カッコ悪い姿、見せたくねぇんだよ」
吠えたラスクが仕掛ける。
武器はない。
ガライカのような体格も牙も爪もない。
あるのは、覚悟と経験だけだ。
正面を走るラスクを叩き潰そうと、大きな腕が振り下ろされる。
羽織っていたコートを掴ませ、自身はその手を逃れた。
ガライカの後方に回り込む。
先程と同じ行動に、観覧席からも何をしていると野次が飛ぶ。
魅せるのは、ここからだった。
先は存在を忘れていた尾を掴む。
犬にとって、尾は感覚器官の一つだ。
太い尾を両手で掴み背負うように引っ張った。
引っ張られたガライカは声をあげ、振り払うように身を捻る。
ラクスを掴もうと咄嗟に伸びた腕が目の前に来た。
大きな体を隠しているパーカーの袖に噛みつく。
尾がすり抜けると同時に腕に飛び移る。
重心が傾き、ガライカの足が縺れた。
身体を捻ったままでは踏ん張るにも動作がいる。
大きく踏み出した足で支えるも、上半身は地面に近づく。
ここまでこれば、ラスクでも頭部に手が届く。
牙を恐れず手をだし、拳で弾いたのは鼻先だ。
嗅覚も、感覚も鋭いソコは犬の弱点だ。
痛みと衝撃に顔を背けたガライカを見逃さない。
一度地面に降りると直ぐ様腹部を目掛けて飛びかかる。
ラスクの姿を捉えていない巨体を胸部からぶつかり、押し倒す。
砂ぼこりをあげて倒れたガライカがもがくように暴れるが、それも僅かな時間だった。
トンと、再び、鼻先に触れた手が、痛みを思い出させる。
本来、それほど攻撃的な性格ではないイヌだ。
痛い思いもしたくないはずだ。
「…なんで、兄さんが、そんな顔するんだよ」
しかめた目で捉えたラスクに、ガライカが問う。
「…なんで、僕らを捨てたのに、そんな、悲しい顔をするんだよ」
空色のガラス玉の様な目から、ポロポロと雫が零れていく。
体毛を濡らし、砂まで染み込むその涙を、拭ってやることができなかった。
「全部、話す覚悟をしたんだ。
聞いて、くれるか?」
ブザーが試合の終了を告げる。
盛り上がる観客とは裏腹に、二人はなかなか動く気配を見せない。
ラスクの言葉に、戸惑うガライカに、顔を歪め、自嘲するラスクがゆっくりその場を動く。
「聞く気があったら、この後、この前の場所にきてくれ。
就寝時間まで、待つから」
真意を探るようなガライカは返事をしない。
それでも良いと思い、ラスクは会場を後にする。
歓声は大きいが、全てがノイズのように聞こえる。
讃えられるものではない。
喜ぶことでもない。
この試合で、覚悟を決めたが、これからを考えると、心臓を抉られるような不安で満たされていた。
痛む体は、これまでの代償の重さを突きつけているようだった。
灯犬場 文目鳥掛巣 @kakesuA
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