第12話 聖戦
沙紀が連れて行かれたのは保健室だった。中にはもちろん誰もいなかった。沙紀はそこでベッドの上に座らされた。誰かの手がのびてきて、いきなり黒い布で目隠しをされた。全ては音巴がやらせていることだと思ったら、沙紀は恐怖心は感じなかった。そして予想通り、足音が聞こえてみんな保健室を出て行ってしまった。今はもう室内には沙紀と音巴の二人きりなのだろう。
「悔しいでしょ。こんな目に合わされて」
音巴の声が聞こえた。
「別に」
両肩に手がのせられた。沙紀はそのままうつむいていた。
「音巴にひとつだけお願いがあるんだけど」
「何?」
「音巴の目的はあたしだけなんでしょ?だったら恵や梓は関係ないんだから意地悪しないでほしいんだけど」
「いいよ。私は沙紀以外には興味ないから」
そっと唇にやわらかいものがあたる感触がした。自然と口が開いて沙紀の口の中に入って行く。音巴の唇はもう何度も思い出していた。何気ない拍子にふと思い出されて、沙紀を虜にして離さないキスの味だった。 目隠しされていて音巴の表情を見ることができない。でもそれもいいかもしれないと沙紀は思った。優しいキスが終わって沙紀の左手に音巴がふれた。そしてゆっくりと目隠しがはずされていく。
「ねえ、音巴」
沙紀は言った。
「何?」
「もしもさ」
近くに音巴がいる。左手から伝わってくる感触だけでなく沙紀の胸にいっぱいに入ってくる音巴の匂いで沙紀はそれを感じ取った。
「もしも今日の演奏で、私が音巴よりうまく弾けたら私の親友になってくれる?」
言い終わって初めて沙紀は音巴の顔を安心してみることができた。音巴に一歩でも近づきたい。それが沙紀の偽らざる本心だった。音巴のほうが少し困ったように考え込んでいる。
「いいよ。でもそのかわり、私のほうがうまかったら沙紀。私の恋人になってよ」
音巴が言った。沙紀は自分がものすごく笑顔になるのが自分で分かった。
「それ、私の告白への返事?」
「さあね」
音巴がはにかむように笑って、それが悶えるくらいに可愛くて美しかった。
ただの練習だというのにオーケストラホールは、まるで演奏会でも開催されるみたいにぞくぞくと人が集まってきていた。クラスメイトはもちろん、他のクラスや学年の生徒もたくさん入ってきていたし、様々な楽器の先生ばかりか白髪の入った校長先生とおぼしき人まで来ている。これではまるでコンクールと一緒だ。
舞台裏でバイオリンのチューニングをしていた沙紀は、人の集まりようには驚いていたが意外にも諦観としていた。追い詰められた状況でバイオリンコンクールを迎えることは沙紀にとっては慣れたことだった。あるヨーロッパの皇室主催のコンクールで曲の編集やカットが不可だったのが突然許可されることもあった。皇太子の関係者が出場していたかららしいが、いちいちそんなことで動揺しては頂点に立つことはできない。コンクールは、たった一度きりのチャンスなのだ。
「みんな北野さんの演奏聞いたことがないみたいだから、お願いしていい?」
若林先生が、チャルダッシュの楽譜を沙紀に手渡しながら言った。
集中すると沙紀は曲のことしか頭に入らない。楽譜を見ただけで、これまで弾いてきたのとは全く違う演奏アイディアが次々と再構築されていくのだ。そうすると緊張とは全く違う、音楽の至福感で体中に鳥肌が立つ。 沙紀はバイオリンを構えた。弓をさっと上にあげる。その弓に観客の視線が一気に集中してくるのが手に取るように分かる。弓に集まった力を解きほぐすように沙紀はゆったりと弦に乗せていった。
さっきのチューニングのときにこのバイオリンが、沙紀に恥をかかせるために用意されたものではないことははっきりと分かっていた。それどころかこのバイオリンは沙紀が思っている音をかなり細密な部分まで再現することができる。ある意味それはものすごく繊細で不安定な音なのだが、それがこのバイオリンでは音がはじけて飛んでいってしまわない。一つ一つが重厚な音の中で再現できるのだ。
演奏前に分かったことが二つ。多分、沙紀の腕をもってすればこのヴァイオリンを使ってもそれほどひどいことにはならないこと。そしてもう一つ確実なことは今までの沙紀とは全然違う演奏になることだ。もうそれだけで沙紀の頭の中はどんな音が今から出せるのか興奮状態になってしまってそれを落ち着かせるのだけでも大変だった。沙紀の置かれている状況とか結果とか評価とかもうどうでもよくなった。ただすぐにでも弾かせてほしい。伴奏をするオーケストラは一秒でも早く音を鳴らし始めればいいのに。沙紀が思っていたのはそれだけだった。
沙紀のバイオリンは、最初は忠実に沙紀の心の中の音を再現していった。それにつれて沙紀の身体から力が抜けて徐々に音がやわらかくホールに共鳴していく。
曲は終盤のもっとも高度な技術を要する小節に入っていった。沙紀の期待する音は空間に不連続に自由に散らばる星のように、一定の法則もなくいたるところにまたたく。その音を次々と沙紀は指し示すのだが、バイオリンは寸分たがわず、まるで指し示した一点を光らせるように音を鳴らした。沙紀はおもしろくなってますます飛び跳ねるように音を散らばらせる。バイオリンの音は天空を舞うようにしてそれに応える。沙紀は夢中でバイオリンを弾いた。それは人間の感情が全く入らない純粋な音楽に聞こえた。
その圧倒的な沙紀の姿は、ヨーロッパで天才少女として大きな話題になった北野沙紀が、今も全く損なわれることなしにここに存在することを示すのにあまりに十分なものだった。
沙紀は満席になった観客席の大喝采で始めて自分の演奏が終わっていることに気づいた。沙紀は満面の笑みで客席にむけて右手をあげた。そのままゆっくりと腕をおろしてお辞儀をする。沙紀の感想はただ楽しかったということだけだった。呆気にとられたオーケストラのメンバーの雰囲気でさえも沙紀は見るのが楽しかった。指揮をしていた若林先生でさえも何を言ったらいいのか分からずに立ち尽くしている。
沙紀は音巴の方を振り返った。彼女は、まるで自分がメインの演奏だったように神妙な顔つきをしている。音巴はバイオリンを弾くときはいつもこんな表情をしているのだろうか。
「先生、もう一曲だけ弾いてみたい曲があるんです」
すでにその場は沙紀の独壇場だった。
「バッハの2つのバイオリンのための協奏曲、円城寺さんと、音巴と二人でやってみたいです」
所在なさげにしていた若林先生が沙紀の言葉にうなずいた。
「そうね。円城寺さん、どう?」
「いいですよ」
音巴はさらりと言った。この曲は、二人の独奏が模倣し合うように対比されるバイオリン協奏曲だ。二人の息が合うことが要求されるだけでなく技術、能力の違いがはっきりと示される。
後ろのオーケストラの席を立って音巴は、沙紀を真剣な表情で一度だけ見た。そしてそのまま沙紀の隣に座った。すると場内からどよめきと拍手がまた起こった。音巴はこの状況をどう考えているんだろうと沙紀は考えた。練習とはいえ、音巴はここで沙紀に負けるわけには絶対にいかないだろう。ましてや、沙紀に歴然とした差を見せ付けられることは音巴のプライドが絶対に許さないはずだ。
しかし音巴は怖気づくような感じも緊張した様子も微塵も見られなかった。ただいつもの美しさに加えて真剣なまじめさが加わって、カリスマ性さえ感じさせるオーラが漂っていた。沙紀の身体にまたぞくぞくとした武者震いのような闘志、そして音巴の音楽への期待感が湧き上がってきた。
生まれて初めて音巴と目配せをして曲に入った。音巴の音を聴いてはっとなった。これは自分のバイオリンの音だと思った。音巴は沙紀のバイオリンで弾いている。沙紀は、音だけに集中していたから音巴のもっているバイオリンのことなんて目に入らなかったのだ。
沙紀のバイオリンは、個人的にすごく微妙な調整をしてある。それを長年使っているせいで独特の癖も相当ついているはずだ。それを初めて触って弾いて使えるものなんだろうか。その疑問は音巴の奏でる音を聴いて一瞬で吹き飛んだ。
すごくいい音。
音巴の音を聴いて沙紀は恍惚となった。確かに音巴が弾いているのは自分がいつも弾いているバイオリンだ。なのに音が全く違う。これは唯一の音巴による沙紀のバイオリンの音だ。
音巴の音は、単に引き込まれるような響きだけでなく、先行すれば沙紀を導くように、後からくれば沙紀がどんな自由な音を奏でても寸分ぶれずについてくる。そして沙紀の音と音巴の音が真正面からぶつかる瞬間が訪れた。完全にがっぷり四つ、五分と五分だ。すごく引き込まれる。そして何て楽しいんだろう。沙紀は音巴のバイオリンに合わせながら身震いするような快感に包まれていた。
音巴はプレッシャーなんて全く感じていない。音巴も自分の立場や周りの評価なんか全て乗り越えて沙紀と全く同じ土俵で弾いているのだ。いつしか沙紀はバイオリンを弾きながらあまりにも楽しくて笑っていた。日本にもこんな才能が眠っていたなんて。私はこの才能を求めてわざわざヨーロッパから戻ってきたのかもしれないと沙紀は思った。 やがて二人の演奏はさっきよりももっと大きな、盛大な喝采で幕を閉じた。
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