第11話 奪われたものと得たものと

翌朝、沙紀は普段どおりに登校していた。普段はだらしなく外しているブラウスの第一ボタンはしっかりとめられて、スカートはいつもより少し長めのを穿いていた。沙紀はうつむき加減で、下駄箱の上履きを取り出そうとしていた。


「おはよう。沙紀」


ぎょっとなって沙紀は横を向いた。音巴がいた。


「今日はとってもいい一日になりそうだね」


音巴がにこやかに笑って言う。


沙紀はくやしそうに唇をかんだ。一晩中監禁されていたのに沙紀の両親は、音巴の家に泊まっていると連絡を受けて何も心配していなかった。沙紀は今日は学校は休まないで出てくるように音巴に命令されていた。沙紀は制服だけ着替えて登校してきたのだった。


「うまく隠せてるじゃん」


値踏みするように音巴は沙紀の制服姿をじろじろ見た。


「今日の沙紀のバイオリン、とっても楽しみにしてるよ」


音巴は沙紀の耳元でささやいた。


「音巴、一つだけお願いがあるの」


沙紀は立ち去ろうとする音巴に言った。


「何?」


「今日のバイオリンは自分のでやらせて」


沙紀のバイオリンは音巴に奪われたままだった。代わりに音巴のバイオリンを持たされている。ケースこそ立派だが、中身は年季の入った骨董品のようなバイオリンだ。音巴はこのバイオリンを弾かせて沙紀に恥をかかせる気がしれないと沙紀は思った。ここまで沙紀を追い詰めたのに、最後にバイオリンで圧倒的な差をみせられてしまっては音巴の立場がないからだ。


音巴は意地悪そうに笑ってから言った。


「だーめ。沙紀にはあのバイオリンで演奏してもらうよ。沙紀のはしばらく預かっとくね」


朝のクラスルームでどよめきが起こった。すでに沙紀が高校のオーケストラに参加することが知られていて先生がそれを発表したのだ。


「あなたはここのオーケストラには参加しないのかと思ってたけど。楽しみだわ」


若林先生はオーケストラの顧問でもある。先生は満足げに沙紀のほうをむいた。沙紀はうつむいたまま先生の話しを聞いていた。そんな沙紀を梓と恵は怪訝な表情で見ていた。


「沙紀、どうかしたの?いきなり音巴のオケに参加するなんて」


前の席の恵が言った。


「うん。別に」


沙紀は作り笑いを浮かべる。


「別にってことないでしょ。沙紀、社会人のオーケストラでやりたいって言ってたじゃん?」


「うん。そうなんだけど」


「何かあったの?音巴に何かされたとか?」


「別に何でもないよ」


言ってから咄嗟に沙紀は胸と足を手で覆い隠すような仕草をした。


「先生、あたし北野さんのチャルダッシュ聞きたいです」


音巴が手をあげて言った。


「いいわね。確か北野さんはドイツのコンクールで演奏したんだったわよね」


「ベネチア国際です」


沙紀が訂正した。多分若林先生は、上機嫌なのは沙紀が音巴を突き飛ばしたと言われた件で音巴が何も訴えなかったことに安心しているのだ。今回、沙紀がオケに参加することで仲直りしたとでも思っているのだろう。 クラスルームが終わって休み時間になると、沙紀の周りにはあっという間に人だかりができた。ほとんどは今日いつからオケの練習場に行くのかとか、自分もオーケストラに入りたいとかそんな話ばかりだった。沙紀は無理やり笑顔を作ってやっとのことでそれをこなしていた。


突然、梓が立ち上がって音巴の席に向かっていった。沙紀はそれを見逃さずに見ていた。クラスの大半はそれに気づいていない。


「円城寺、あんた沙紀に何したの?」


梓の大きな声が轟いてクラス中が一斉にそっちを向いた。


「何って。別に」


音巴がしらをきって梓と目を合わせない。


「何もしてなくて、沙紀があんたのオケなんかに参加するわけないでしょ?あんたが何かしたに決まってる!」


梓が激しく言い寄った。


「あんたのオケってこの学校のオーケストラなんだから、上條さんのオケでもあるでしょう。それに沙紀が何かされたって言ったの?」


音巴が梓の激昂をおさえるように冷静に言った。


「そうだよ。沙紀が何かされたって言ってるわけでもねーのに、音巴に言いがかりつけんじゃねーよ」


みどりが梓を威嚇して言った。


「上條さん、何か勘違いしてんじゃないの」


「頭おかしくなったとか」


梓が音巴グループに口々に言われているのに耐えられなくなって沙紀は席をたった。


「梓、オケに入るのは本当にあたしが決めたことだから」


沙紀が言った。嘘だ。


「音巴には何もされてないよ」


これも嘘。音巴グループはみんな知ってる。私が音巴に脅されていることを。沙紀は心の中だけで梓にお礼を言った。


昼休み、音大付属だけあって教室のそこらじゅうからいろんな楽器の音で満ち溢れている。沙紀は大小さまざまな音の中をかいくぐるようにして梓と恵と一緒に音楽の自主練習用の教室にやってきた。沙紀はオーケストラへのお披露目としてバイオリンの演奏をすることになっていたが、そのための練習は全くしていない。今日行われる沙紀のオーケストラでの初舞台のために二人が練習に付き合ってくれることになっていたのだ。沙紀にとって気のすすまない練習ではあった。バイオリンは誰かに強制されて弾くものじゃない。だけど不思議と音巴への嫌悪感が湧き上がるわけでもなかった。


「沙紀、本当にどうしたの?いきなりオケに入るなんて」


 恵がピアノの椅子に座ると不思議そうに沙紀を見て言った。


「私もちょっと高校生のオーケストラって憧れてたからさ」


譜面台に楽譜を開きながら何でもないというように沙紀は答えていた。梓は沙紀の返答に怪訝な表情を浮かべてこちらを見ていた。


沙紀は沙紀でこんなに音巴に脅されて、追い詰められた状況にいるのに妙に落ち着いている。自分の身の上に無感情で冷静な自分自身に驚いていた。むしろ社会人オーケストラを首になって音巴のオーケストラに入ることが決まってほっとしている自分がいるのだ。


音巴のことばずっと気にかかっているけどそれを言葉にはしようもない。脅されているのにそうとも感じない。音巴に対しては怒りとも断ち切れない片思いとも区別のつかない、消化しようもないわだかまりのようなものが、沙紀の心の中でうずまいていた。


そんなことを考えていたら隣の部屋からはバイオリンの音がずっと聞こえているのが気になってきた。すごく澄んだ音だと沙紀は思った。本当に濁りもかすれもないきれいな音だ。沙紀は自分のバイオリンを弾き始めもせずずっとその音を聞いていた。


「このバイオリンの音は?」


「多分、みどりが弾いてるんだよ」


 梓が答えた。


 正直驚いた。楽器を聴けばその人が今までどんな練習をしてきたのか分かる。正しい音質。狂いのない音。みどりは正しい練習を正しいやり方でずっとまじめにやってきたのだ。どんな人と練習してきたのだろう。それはもう分かりすぎるぐらいに分かっている。きっとその先には音巴がいる。音巴のことを考えるともうどんどん沙紀の頭の中が混乱してくる。


 そのとき、バイオリンの音が途切れた。音楽の独特の余韻を残してつかの間の静寂が部屋に戻る。沙紀は目を閉じた。自分の中のもやもやした何かが一瞬晴れるような予感がしたのだ。


 「沙紀、弾かないの?」


 梓に言われた。


 「あ、うん」


 あわてて沙紀はバイオリンを構えた。その時に思った。自分は音巴のことを分かりかけているかもしれない。


 同時に突然扉が開いてみどりを先頭にして音巴達が入ってきた。きっと来ると思っていた。沙紀は自分の確信があたって逆に安心したように思った。


 「ここの練習部屋、昼休みは全部オケの練習用に使われることになったから。出て行ってくれる?」


 みどりがいつもの表情でこっちを見て言った。


 梓が反論しようとしたのを沙紀は立ち上がって制止した。


 「二人は関係ないでしょ?」


「目的は私なんでしょ?二人は関係ないじゃん」


沙紀は、少し集団の後ろにいる音巴を逃さないようまっすぐに見て言った。音巴は一瞬微笑んだように見えた。


 「話早いね。沙紀」


 音巴が前に出て言った。


 「ほら、使っていいみたいよ。ここ」


 沙紀は恵と梓を振り返って笑った。


 「ちょっと沙紀?」


 二人は不安そうに顔を見合わせる。


 「私なら大丈夫だから」


 沙紀は全部まかせておいてと言わんばかりだ。


 「じゃ沙紀、行こっか?」


 音巴が言うや否や沙紀はすぐにみどりとヒロに両肩をつかまれた。


 「沙紀をどこに連れてく気?」


 「さあね。どうしようかな」


 音巴は口元を歪めて笑った。


 「私は大丈夫だから。二人はそのままそこにいて」


 沙紀は振り返って言った。


 音巴たちは沙紀を無理やり部屋の外へ連れ出すと乱暴にドアが閉められた。しかし沙紀は前のように恐怖心は感じなくなっていた。特にみどりに対してはさっきのバイオリンの音を聞いていたからかもしれない。この人たちに悪意は感じない。やっぱり全ては音巴なのだ。そして自分は音巴ともっと正当な関係になる権利があると思ったし、音巴のほうもきっとそうなのだ。確実なことは誰にも何も分からない。でも自分と音巴の関係は今よりも未来のほうがずっと比重が重いのだと沙紀は思った。

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