第10話 囚われのしるし
「隣の北野沙紀です。あの音巴さんはいますか?」
門の前のインターフォンを押して沙紀は言った。傍らにはいつものバイオリンと買ってきたばかりのクッキーをもっている。
「沙紀。私だよ」
中からくぐもった声が聞こえた。
「音巴?大丈夫なの」
「お見舞いにきてくれたの?」
「うん。私もちょっと言い過ぎたかなって思って」
思わず口走ってしまった。
「中に入って」
音巴はいかにも頼りなさげな小さな声で言った。
電動ロックが解除されて沙紀は玄関のドアを開けた。室内は誰もいなくてしんと静まり返っている。前にはだだっ広い瑠璃色の絨毯が広がってその奥にはひたすら長い廊下が連なっている。
「音巴。入るよ」
沙紀の声がよく響いたが答えは返ってはこなかった。音巴の部屋はこの前案内してもらったのを覚えていた。沙紀は記憶をたどりながら階段を上がっていった。途中で心細くなって何回か声をかけたが応答がない。音巴は本当に部屋で臥せっているのかもしれないと沙紀は思った。
音巴の部屋の前まで来て沙紀は軽くノックをした。
「どうぞ」
消え入りそうなか細い声だった。
「音巴?」
ベッドに寝ている音巴が見える。
「音巴?大丈夫なの?」
どこか体が悪いのかもしれない。心配になって沙紀は思わずベッドに駆け寄ろうとした。その時だった。
「はい。残念でした~」
沙紀は後ろから急に羽交い絞めにされた。
「みどり!?あんたなんで?」
後ろから確かにみどりの声がした。
「別に。あたしだけじゃないけどね」
周囲を見ると支倉、倉橋、広瀬の音巴のグループの3人が取り囲むように沙紀を見ていた。
「沙紀ってほんっとにお人よし。だから好きなんだけどね」
音巴はやっと演技が終わったとでも言うようにベッドの上で背伸びした。そして沙紀を見てさもおもしろそうに笑った。
「沙紀、もう観念しな」
「観念ってなにを・・・」
みどりの力は強く、沙紀は後ろから抱きしめられたまま身動きすらとることができない。沙紀は懇親の力をこめて無理やり両腕を伸ばしてみどりから逃れようとした。
「沙紀」
音巴が、突然黒い物体を沙紀の目の前にもってきた。
ジリリリ。金属の両端が火花のように電気が通る。スタンガンだ。それに気づいただけで沙紀は震え上がった。体中から抵抗する力が抜けていく感覚が手に取るように分かった。
「よし。大人しくしてろよ」
みどりがそう言うと、残りの3人が集まってきて沙紀を取り押さえた。両腕が背中に回されてロープみたいなもので念入りに縛られている。次に両足。口には猿轡。ヒロが黒い布をもってきた。
「じゃあまた後でね。沙紀」
作業を機嫌よく見ていた音巴が沙紀に手を振って言った。沙紀は音巴をにらみつけた。何をされても絶対に泣くもんかと沙紀は強く心に念じた。
最後に目隠しをされた沙紀は完全に自由を奪われた。捕らわれの身というのはこういうことを言うんだろうと沙紀は思った。
沙紀は小さな箱のようなものに折りたたまれて入れられた。ふたが閉じられてコロのようなものが動き出してから沙紀はそれがスーツケースだということに気づいた。沙紀は、身動きのとれないままスーツケースに入れられてどこか他の場所に移されようとしているのだった。
そういえば、自分のバイオリンはまだ音巴の部屋に置いてある。何とかして取り戻さないといけない。スタンガンを見せ付けられたときは、沙紀も驚いて青くなったが少し落ち着きを取り戻してきた。逃げるチャンスがあるとすればスーツケースから出された後だ。ある程度広いところに出されたら何とか後ろの手を縛っているロープを外しさえすれば逃げることができる。沙紀は心を沈めてじっとその機会を伺った。
スーツケースはずっとコロの回る音がして相変わらず動き続けている。行く先はおそらくあの古い洋館だろうと沙紀は思った。あそこなら誰も住んでいないし、沙紀を閉じ込めていじめるのにはもってこいの場所だ。
もし逃げることに成功したら絶対に音巴を訴えてやる。沙紀はそう決めた。そして何もかも音巴中心に回ってる学校も一新させるのだ。音巴はきっとこういう方法でしか自分の力を誇示できないのだ。だから絶対に音巴を恐れることはやめようと思った。相手はたかだか可愛らしい人形のようなお嬢様じゃないか。沙紀は何度も心の中で反芻する。そうしなければこの狭い真っ暗な場所で両手両足を縛られて身動き一つできない状況に耐えられなかった。自分にもう少し、少しだけでも理性が残っていますように。沙紀は神に祈った。沙紀の意識はそのまま遠くなっていった。
沙紀は気づくと台の上に乗せられていた。場所はあの古い洋館であることは間違いない。あたりはカーテンで全ての窓は閉められ蝋燭の明かりだけがあたりを照らしていた。沙紀は起き上がろうとしたが身体がいうことをきかない。沙紀の両手がばんざいした形で固定されていることに気づいた。両足もしっかりと台の先端にくくられている。
「沙紀気づいた?」
音巴の声がした。あたりには音巴以外には誰もいないようだ。
「音巴?どういうつもり?」
思ったより自分は平常心でいるようだと沙紀は自分で思った。
「悪く思わないでよ。こうでもしないと沙紀は私の言うこと聞いてくれないじゃん」
音巴の声は美しく清らかだった。
「音巴、何をされても私はあんたの思う通りにはならない」
沙紀は言った。まだ何をしろと音巴に言われたわけではないが、音巴の目的はここで沙紀を徹底的に打ちのめすことに間違いない。だから沙紀は何を言われても突き返さないといけないと思った。そうでないと、理性を保っていられない。このままではやることなすこと全てが音巴のペースに飲まれてしまう。
「あ、そう。だったらちょうどいいな」
音巴が冷淡な表情をして鉄の棒を振りかざした。沙紀はぎょっとなった。沙紀が洋館に最初に捕らわれたときに見せつけられたあの魔女裁判で使われた鉄のハンコだ。
「沙紀はね。自分がどんな存在なのか全然気づいていないんだよ」
音巴は沙紀を見下ろして言った。
「私は・・・わたしだよ。音巴に何か言われる筋合いはない」
沙紀は震えながら唇をかみしめて言った。ここでひいたら自分の負けだと思った。あくまで自分が正しい。何をされても自分の生き方として正しいことを突き通さなければならなかった。
「こんな、短いスカートはいちゃってさあ」
音巴が沙紀のスカートのすそをもって左右にふった。
沙紀はそんな音巴の行動が何を意味しているか分からなかった。
「沙紀って昔から何も変わらないよね。無防備で無邪気ですぐに人を虜にして」
音巴が言った。
「それは…人を魔女みたいに誘惑するのはあなただよ。音巴」
沙紀は言い返した。無理やり音巴の洋館に連れ込まれて、縛られているという絶体絶命の状況なのに何故か、沙紀は初めて音巴と対等に渡り合っている気がした。
「何であんたみたいな子が生まれてきたのかわたしには分からない」
沙紀は言った。音巴は沙紀をずっと上から見下ろすようにして見ているから黒い髪は沙紀に向けて垂れ下がり、音巴の顔はふだんと違って天から井戸をのぞきこむ仏様のような柔和な表情に見える。
「私が、生まれてきて悪いの」
音巴がつぶやくように言った。
「悪いよ。音巴みたいな完璧な美しさを見ていると不安でたまらなくなる」
それを聞いて音巴が笑った。初めて悪魔みたいな笑いだと思った。ジェットコースターから落ちる瞬間のような背筋が凍るような戦慄が沙紀に走った。
「沙紀、おんなじ言葉をあんたに返すよ」
音巴はゆっくりと沙紀の着ているブラウスのボタンを上から順番に外し始めた。抵抗できない沙紀はなすすべもない。沙紀の胸元は大きくはだけた。怖くて沙紀は横を向いたが向き直った瞬間に本当の恐怖で嗚咽がした。あの鉄のはんこが音巴の胸につきたてられるところだった。一瞬しびれたような感覚がしたが、痛みは感じなかった。沙紀はそのまま目をつむっている。
「あんまり痛くなかったかもしれないけど跡は必ず残るよ。私がつけた沙紀の傷跡」
音巴が言った。沙紀の胸の上から白い煙のようなものが立ち込めている。
「何をしたの?」
「沙紀に目印をつけてるんだよ。もう沙紀に自由なんてないから」
音巴が残酷な白い歯を見せた。今度は太ももにしびれたような感じがした。痺れはやがて痒さとも痛みともとれる微妙な感覚にかわっていく。苦痛はそれほどでもなかったが、沙紀にはこの印の意味が分かりかけた。これは自由を奪うために与えるためのしるしなのだ。中世の異端者はこれをつけられることによって信仰の自由を奪われ、過去の誇りや自尊心を失い精神的に抹殺されるのだ。沙紀は印をつけられるごとに自分にとっての大切なものが一つ一つ奪われるような気がした。
「やめてあげてもいいんだよ。沙紀が私のものになってくれれば」
音巴の声が魔界の誘いのように怪しく木霊する。沙紀にとって、とてつもなく長い夜のはじまりだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます