第9話 告白の代償

その日、沙紀は不思議な気持ちだった。音巴に告白した満足感でいっぱいだった。その瞬間、全く気負いも不安もなかった。告白というものがこんなに快感で、気持ちの良いものかと沙紀は自分自身の感情に驚いていた。


 張り詰めた空気の中で、いつもドラマのヒロインが一世一代の告白をするのを息が苦しくなるぐらい気持ちで見ていた。好きという気持ちが切実だから怖くもなるし、不安にもなるのだと思う。どっちに転ぶか分からない愛の告白なんて、常に言った方が負けだと沙紀は思っていた。でもそれは違った。


 沙紀が音巴が好きな気持ちは本心なのに、何の恥ずかしげもなく素直に告白ができた。音巴は沙紀の告白に何も言い返せなかった。ただ呆然と沙紀を見つめていた。そんな音巴の様子を見て沙紀は、勝ったと思った。だから沙紀は、言ってやった満足感で一杯なのだった。



その後、音巴は沙紀に何もしてこなくなった。沙紀の学校生活はやっと平穏さを取り戻した。平和な高校生活がおくれていることに沙紀はほっとしていた。


「最近、円城寺さん達、何も言ってこないね」


休み時間の教室で恵は言った。


「そうだね」


沙紀は正直拍子抜けしていた。


「また何か企んでいるのかも」


恵は音巴の方を向いて言った。音巴はいつものメンバーと自分の席の周りで話しているだけでこっちに気を配る様子もない。


「そうでもないでしょ」


話しを横で聞いていた梓が言った。


「定演近づいてるからオケのメンバー固めないといけないしそれどころじゃないんじゃない。それに音巴ちゃんもそろそろ万年2位からは抜け出したいだろうし」


梓は音巴を見て少し嫌味のある言い方をした。音巴は夏に行われる定期演奏会が近づいてきて次第に忙しくなっているようだった。音巴のオーケストラは周囲の学校では有名で、いつも音巴目当ての高校生で会場は一杯になるほど人気だったが、しばらく優勝から遠ざかっていた。それも音巴がコンサートマスターをするようになってからはいつも優勝候補にはなるものの連続で2位に甘んじていた。


音巴のことも気にはなったが、そろそろ自分の音楽も見つめなおさないといけないと沙紀は考えていた。きっとドイツではなく日本でないとできないこともあるはずだし、自分の音楽性を高める上で新しい発見もあるかもしれない。


沙紀は学校が終わるとさっそくバイオリンだけを持って練習のホールに向かった。沙紀はプロの交響楽団にドイツの先生の紹介で入ることになっていた。先生はプライドの高い沙紀には社会人プロの環境でないと合わないかもしれないとプロのオーケストラに話をもっていってくれたのだ。


沙紀は今日そのオーケストラに初めていく。沙紀は自分の心から邪念を消し去った。ドイツで賞を重ねていた冷徹で計算高い自分に戻ろうと思った。その澄み切った思考の中ではじめて沙紀の透明な音楽が実現されるのだ。


もうここには色欲も音巴の影もどこにもちらついていない。自分は純粋な音楽の中に入ろうとしているのだ。そう思ったとき沙紀の思考は突然の言葉に消し飛んでしまった。


 「北野さん、選考の結果、あなたは残念ながら不合格となりました」


 沙紀は唖然となった。一瞬なにが起きているのか分からなかった。


 「とっても残念なんですけどうちのオーケストラは北野さんと一緒には演奏できないんですよ」


 「え?あたしが参加することはあたしが帰国する前から決まっていたはずですけど。マティス先生から聞いてませんか?」


 「もちろんあなたの先生からは聞いてました。ですが、事情が変わったんですよ」


 「事情?どんな事情ですか?」


 そこまで言って沙紀は急に思い出した。円城寺音巴の存在を。


 「いや、高校生の参加は前例のないことだし、やはり選考することになって・・・」


 急に相手は言葉を濁した。


 「選考っていつしたんですか?選考するならきちんと試験をして下さい」


 言いながら沙紀は無駄なことだと気づいていた。


 「試験というのは・・・特にうちのオーケストラではやってないんですよ」


 「じゃあ私の何がダメなんですか?私の今までの実績じゃ足りませんか?」


 「いや、そんなことはないよ。あなたのバイオリンがすばらしいのはよく知っている」


 「じゃあ、私を入れてくれますよね?」


 「いや、今回は無理なんですよ」


 「何が無理なんですか?」


 いつのまにか沙紀は涙声になっていた。何を言っても無駄だと分かっているのに次々と言葉だけが先に出てしまう。そのせいで悔しさがどんどん増幅されていくのだ。沙紀はたまらなくなってオーケストラの練習会場を飛び出していた。  


 翌朝、学校に行った沙紀は音巴を見てずっと機会を伺っていた。そしてそのチャンスは3時間目の終わりにやってきた。音楽室への移動のため、音巴はたまたま一人になって階下の教室に向かっていた。みどり達は、前の数学の授業の質問をしていた。沙紀は、ダッシュして音巴を追いかけた。音巴が音楽室へ入ろうとしているのが見えた。


 「円城寺音巴!」


 階段の途中から沙紀は力のかぎり叫んだ。


 音巴はゆっくりと眠そうな表情でこちらを向いた。沙紀はあっという間に音巴に追いつくと音巴の両肩をつかんで壁に押し付けた。それでも音巴の表情は変わらない。


 「私がオケ、首になったの。音巴が仕組んだの?」


 そんなことかとでも言うように音巴の表情が緩むのを沙紀は至近で観察した。


 「え、私知らないよ」


 音巴はわざとらしく言った。


 「そんなはずない。そういうこと出来るのは音巴だけでしょ」


 沙紀は手の力を強めて言う。


 「沙紀、離して。痛いよ」


 沙紀は音巴を離すつもりなど毛頭なかった。こうなったら無理やりにでも吐かせてやる。さらに力をこめて音巴の肩を壁におしつけてにらみつけた。


 「音巴が裏で動いてんのは分かってるんだよ」


 沙紀は透き通るような音巴の両目を見た。


 「沙紀は私のもの。誰にも渡さない」


 そう言って音巴が怪しく笑った。


 音巴は急に階段のほうを向いた。そして大きな声で叫んだ。


 「沙紀、やめて!誰か助けて!」


 がちゃんと何かが割れる音がした。音巴が持っていたバイオリンケースで窓を叩き割ったのだ。その瞬間、音巴がその場に倒れこんだ。


 「北野、おめえ何やってんだよ」


 みどりの声が聞こえてきた。あっというまに周りに人だかりができて、クラスメイト達によって音巴が助け起こされている。周囲から沙紀に向けて疑いの視線が集まってきた。その場に呆然と立ち尽くしていた沙紀はやっと自分がはめられたことに気づいた。


 「沙紀・・・」


 心配そうに言ってくれた恵の声だけが頭に残った。


 「何で円城寺さんにあんなことしたの?教えてくれるかな」


 若林先生が言った。沙紀はすぐに職員室に呼び出された。音巴は保健室に行ったっきり戻ってこない。


 「あたし、別に円城寺さんに何もしてませんけど」


 沙紀は一応言った。


 「何もしてなくて円城寺さんが保健室に行くようなことにはならないでしょ?」


 「でも私は何もしてません」


沙紀は、職員室にきてからのほうがかえって落ち着いていた。沙紀だけは音巴の演技だということに気づいていたので平然と立っていたのだが、音巴が倒れたときはクラスメイトがあれやこれやで大騒ぎでうるさくて仕方なかった。 「あのね、あたしは別にあなたと議論はしたくないの。ただ何があったのか聞きたいだけなの」


「そんなに円城寺さんのことが大事なんですか?この学校は」


沙紀は冷静に思っていることを言った。


「そういう言い方はおかしいでしょ」


若林先生の顔色がみるみる赤く変わって行った。沙紀は心の中でため息をついた。沙紀はこれ以上ここにいてもますますめんどくさくなるなと思った。


 「ちょっとむかついたから突き飛ばしただけです。大した怪我はしてないと思います」


 そういって沙紀は先生に背を向けて沙紀き出した。


 「ちょっと待ちなさい。円城寺さんの出方次第であなたは停学じゃすまなくなるわよ」


職員室のドアのところで先生に言われた。


「音巴には謝っておきます」


沙紀はそう応えて外に出た。音巴が保健室でにやにや笑っているのがすぐに想像できた。沙紀はこんなことは歯牙にもかけないぐらい気にならなかった。沙紀のこれまではもっと厳しいことの連続だった。ただ音巴だけは絶対に懲らしめないと気がすまない。沙紀はぎりぎりと歯を食いしばった。


教室に入ると予想通り、クラス中の視線が沙紀に集まる。みどりが威嚇するように沙紀を見ていたが何もしてこなかった。その日は、音巴は早退してすでに教室にはいなかった。怪我なんかしてないくせに。すでに沙紀は犯人扱いされて誰も音巴を疑う人間なんかいないのに早退までする音巴の芸の細かさに沙紀はあきれてそう思った。


それからしばらく音巴は学校に来なかった。


「よっぽどショックだったんだよ」


「誰かお見舞いに行ったほうがいいんじゃない」


音巴のことをよく思っていないクラスメイト中にも音巴を心配する人も現れだした。


「気にすることないよ。どうせ演技に決まってんだから」


梓は言ってくれた。


「でもそうだとしてもせっかく音巴のこと追い詰められそうな雰囲気ができかかってたのにね」


恵が言った。確かに音巴が3日間も連続で休んでいることでクラスの雰囲気は最初は音巴のやりすぎを非難する声から、今では沙紀の暴力事件を非難する声に変わってきている。


まさか沙紀が少し詰め寄っただけで音巴がこれだけのことをしてくるなんて沙紀は考えてなかった。自分は音巴のことをまだまだ甘く考えているのかもしれない。


「ねえ、音巴のお見舞い行った人いるのかな」


沙紀は梓に聞いてみた。


「まさか、音巴グループ以外は誰も行かないでしょ」


「何で?」


「うーん。音巴の家って知ってるでしょ。すごい豪邸だし、お金持ちだし近寄りがたいんじゃない」


「そっか。ねえ音巴って本当にショック受けたふりして休んでるのかな」


「それは沙紀が一番知ってるんでしょ」


「そうだけど」


でももしかしたら全部が演技ではないのかもしれないと沙紀は心の中で思っていた。自分から沙紀に何かされたようにして装って倒れたにしても、本人も沙紀から責められて傷ついたのかもしれない。そういえば音巴からはひどい言葉をかけられたり、悪口を言われたことは一度もなかった。そして音巴がクラスメイトに沙紀の悪い噂を流していることもない。ただ子どもみたいな嫌がらせをしてきただけだ。今までのことはただ音巴のオーケストラに参加してほしくて、自分と一緒にオーケストラをやりたいがための子どもじみた行動だったのかもしれない。

今の沙紀は音巴については、一つの方向だけを考えることができないようになっていた。


お見舞いに行ってみようかな。


ふと沙紀の中でそんな考えが浮かんだ。それがどんなにお人よしな行動でも音巴にかぎっては何度でも許してしまうような、沙紀の習慣的な危ない癖のようになっていた。


「沙紀、今日の放課後ピアノ教えてくれない?」


梓が言った。


「あ。ごめん。私今日は無理なんだ。明日なら大丈夫だけど」


沙紀が答えた。


「明日はあたしはオケの練習があるから」


梓はばつが悪そうに言った。


沙紀は教室の音巴が座っているはずの席を見た。そこはいつも「円城寺音巴」というクラスだけでなく、学園全体の中心のような華やかな彩があった。それが今、跡形もなく消えうせている。音巴の周囲に与える存在の力はものすごいのだと沙紀は思った。

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