第8話 キスと告白

家に戻った沙紀は、かばんを投げ出すとベッドの上に大の字になった。あずさ達といるときは一度は音巴をこらしめてやろうと強気になっていた沙紀だが、一人になるとその気持ちも次第に萎えてきた。


「あたし、別に音巴のこと嫌いじゃないのにな」


一人つぶやいた。それが本当に正直な気持ちだ。あんなにきれいでバイオリンもうまくて表現しようがないけど「なんかいいな」と思ってしまう。


でも徐々に音巴への対立する方向に動いていることにため息が出る。結局私は、やはり音巴に嫌われてるんだろうか。このまま音巴と対立していては満足に高校生活すら出来ない気がする。沙紀は明日からの学校生活のことを考えると憂鬱になってしまった。


そして、そんなことがあった日の夕方に沙紀は両親から信じられないことを言い渡された。音巴の家に一人で行って夕飯を食べて来いというのだ。


「俺達、今から仕事になって母さんと出かけてくるから。夕飯は、音巴ちゃんの家で食べてくれ。音巴ちゃん、お前が帰ってくるのをすごく楽しみにしてたみたいだから。行ったら喜ぶと思うぞ」


父が言った。両親は音巴が沙紀と同じ幼稚園だったことを知っていたらしい。そして音巴におぶわれて帰宅した一件以来、家でも音巴は大人気となっていた。仕事では両親同士は完全に上と下の立場なのに、娘同士はちゃんとした友達づきあいをしてくれると沙紀の両親は思ったのだ。


「遅くなっても隣同士だし危なくないしね」


母も同調して言う。


両親は沙紀と音巴はすでに親友同士ぐらいの仲だと思っているらしかった。しかし沙紀は親友どころか音巴から悪質ないじめを受けているうえに、まだ普通の会話すらあまりしていない。


もしかしたら音巴は自分を特別に思ってくれているのかもしれない。音巴の不可解な行動は全てそれの表れなんだ。そんな思いが沙紀の中にないでもなかった。沙紀が歩けなくなったときに沙紀を負ぶってくれたとき、あのときは確かに長い年月の通り越してあの幼稚園のときと同じ親友同士に戻れていたような気がした。しかしそれは沙紀を陥れるための罠だったのかもしれない。


いろいろ考えても仕方がない。意を決して沙紀は音巴の家に向かった。学校であれだけ付け狙われたのだ。きっとただでは帰してもらえない。だけど沙紀には音巴と再会したとき、音巴の吐息を間近に感じたときの音巴の心地よい感触。そしてその刹那音巴が見せてくれた優しさが片時も忘れることなく沙紀の心の中に残っていた。


音巴の家の玄関先はふかふかの絨毯がだだっ広く敷き詰められている。体をかちこちに緊張させている沙紀に対して音巴は意外に明るく出迎えた。


「沙紀、いらっしゃい」


音巴は早く上がって来いというように手招きをしている。


「あ、うん…」


沙紀は思わず音巴に駆け寄ろうとしたが、これも何かの罠かもしれないと咄嗟に立ち止まった。沙紀はまだ警戒を解くことはできなかった。まるで無防備に悪の巣窟へ一人入っていくような心境だ。


「今日、学校でごめんね。もうあんなことしたりしないから」


音巴は素直に謝ってきた。


「ほら。せっかく沙紀と同じクラスになれたのに。話す機会ってあまりなかったでしょ?私、沙紀とどうしても近づきたくて。だからわざとあんな意地悪しちゃって本当、ごめん」


音巴は潤んだ瞳を沙紀に見せてゆっくりと視線を外した。


胸騒ぎが止まらない。すごい。プロ並みの悩殺技だと沙紀は思った。


「うん」


言ったものの騙されてはいけない。でも不思議だ。沙紀の口元が緩んでいるのが自分でも分かった。音巴が本当のことを言っているのか以前に、音巴と話していると何だか今までの全てを忘れて音巴に誘惑されそうな気分になる。


大木の幹をあしらった豪華なテーブルに音巴と向かい合って座った。


音巴の顔を正面から見た。あまりの音巴の美しさにくらくらとする。音巴と二人で過ごすこの時間が永久に続けばいい。何だろう。この所有欲。音巴に対する独占欲。沙紀は自分の中で湧き上がってくる感情を無理やり押さえつけた。沙紀は自分は頭がおかしくなっているのかもしれないと思った。それは、沙紀にあるはずのない、女を求める男の征服欲のようなものなのかもしれなかった。


「ねえ。沙紀。沙紀はどんな曲が好きなの?」


音巴は言った。


「どんなって…うーん。いろいろかな。シューベルトも好きだしモーツァルトも悪くないしベートーベンも」


「チャルダッシュは?」


「モンティの?」


音巴はうなずいた。沙紀は多分自分のベネチアでの国際コンクールのことを言っているに違いないと思った。そこで沙紀はチャルダッシュというとてつもない技巧を要する曲を選んで優勝した。でもあの時は好きで曲を選んだというよりテクニックでごり押ししたほうが優勝が狙いやすかったからあの曲を演奏したのだ。曲の解釈よりエモーションやテクニックにうるさい審査員が多かったし、年少者には技術的な面での好評価が得られやすいというのもあった。


「嫌いじゃないけど、でもあたしはもっと静かな曲のほうが好きだな。例えばメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲の作品64とか。あの曲って何か日本の民謡みたいでしょ?聞いててすごい落ち着くんだ」


沙紀は本音を言った。音巴にもっと自分のことについて知ってほしかった。


「えー?日本の民謡?」


音巴はびっくりした表情を見せた。驚いて目を大きくしている音巴を見て始めてみる音巴の表情に沙紀は何だかうれしくなった。


「そうだよ。最初聞いたとき日本の歌だとあたし思ったもん」


「嘘だ。ヨーロッパのクラシックは日本の歌と調子が全然違うよ」


「そうかな」


沙紀は音巴の顔をまじまじと見つめながら言った。


全ては音巴がいけないのだ。音巴があまりにも人を魅了するから自分がこんな目に会わなきゃいけないのだと沙紀は思った。クラスで沙紀が浮いているのも音巴のグループとの対立するのも全て音巴の存在自体のせいだと思った。それが今本当によく分かった。音巴は存在自体が罪だ。音巴は沸き起こる全ての嫉妬の根源なのだ。


「沙紀、2階で海外で見つけた珍しいバイオリン見せてあげる」


「へえ。すごい見たい」

音巴が無邪気に笑って言うから沙紀もすぐに同調したくなってしまう。


「すごいんだよ。フランスの古い農家で数百年前に使われたバイオリンを使えるように直したりしてるんだから」


「まるで発掘だね」


「そう。掘り出し物がすごい高い値段で売られてるんだから」


「どのくらい?」


「うーん。家が建つぐらい」


「それはすごい。あたしなんて今使ってる日本製ので十分だな」


「実際弾いてみたらきっと欲しくなるよ」


音巴はにやりと笑った。


食事の後、沙紀と音巴は2階の音巴の部屋に向かった。きっとすごいバイオリンが何個も置いてあるのだろう。自分はバイオリンの曲ならいくらでも弾くことができる。だけど何千万もするバイオリンをそこに置かれても、多分その価値を見抜くことはできないだろう。せいぜい鳴らしてみて音の違いが分かるぐらいだ。沙紀は根っから演奏にしか興味がないのだった。


音巴の部屋に入るとそこは普通の女の子の部屋だった。本棚があってベッドがあって勉強机があって音楽の教本のようなものが何冊か並んでいる。拍子抜けするぐらい何もない。むしろ殺風景とさえ言える部屋だった。バイオリンは…古めかしい黄土色のケースに入ったものが一つあるだけだ。


「音巴」


沙紀が言った瞬間、電気が消された。真っ暗な部屋の中でいきなり強い力でベッドに押し倒された。


「しまった」


沙紀は心の中で叫んだがそれも遅かった。頬に音巴の髪がさらっとかかって同時に唇が重なった。足をばたつかせたが、音巴の足が細木のように強く締め付けてくる。沙紀は観念したように力を抜いた。そうすると音巴もそっと唇を離した。


「音巴?」


暗闇の中で恐らく数センチが離れていないだろう音巴の顔を見つめながら言った。


「沙紀」


答えるように音巴は言った。


「沙紀はどんなバイオリンを弾くの?」


そしてまた唇が重なった。今度は深かった。濃厚で永遠に続いていきそうな危うい快楽。そして逃れる術もない追い詰められた被虐的な快感。だけど理性も忘れてはいけない。沙紀は自分にそれを言い聞かせた。


「ちょっと音巴」


沙紀は両手で音巴を押しのけようとした。そうすると逆に音巴に両手をベッドに押し付けられる。もう駄目かもしれない。沙紀は押し寄せてくる大きな波にそのまま流されそうな自分に気づいた。その時、誰かが階段を昇ってくる音がする。


「沙紀ちゃん、お父さん達迎えにきたみたいですよ」


音巴のお母さんの声が階段から聞こえてきた。その瞬間、音巴の力が緩んだ。隙をついて沙紀は咄嗟に音巴を横に押し倒してベッドから起き上がった。急いで電気をつけて、乱れた衣服を元通りにする。振り返ると、音巴のほうがまるで突然口づけをされたように唖然としていた。


「音巴」


呼びかけても音巴は反応がない。


「音巴また明日学校でね」


反応のない音巴を見て沙紀は仕方なくドアから出て行こうとした。


「沙紀、私から逃げられるとでも思ってるの?」


その瞬間音巴が言った。


「別に。私は音巴から逃げるつもりないよ」


沙紀は笑った。何故この状況で笑えたのか自分でも分からなかった。ただ言えることはさっきと全く違って沙紀には驚くほど心の余裕があった。今の音巴はいつもの美しさに加えて妖艶さまで加わっている。だけど沙紀はその全てが身近に感じられた。


「音巴、私音巴のこと好きだよ」


最後に沙紀は言った。

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