第7話 沙紀の反撃

「お前、放課後覚えとけよ」


教室に入ろうとしたら突然言われた。音巴グループの柳沢みどりだ。みどりは威嚇するようにこちらを見ている。音巴の席のほうを見ると、何人かいるグループの中心で音巴がさっきと同じ不敵な笑いを浮かべている。きっと放送室での一件が邪魔が入って気に入らないのだろう。きっとまた音巴がなにか企んでいるのだと沙紀は思った。


「別に、私。あんた達のことなんか全然怖くないから」


そう言って沙紀は音巴以上の笑いでみどりに返した。そしてすたすたと音巴のそばを通り過ぎると自分の席についた。席に何か仕掛けされてるかもしれないと思ったけど何もなかった。


「ちょっと、沙紀。円城寺さんに何かしたの?やばいんじゃないの?」


今度は席につくなり恵に言われた。クラス中のみんなが気まずそうな視線で沙紀を見た。確かにこの教室の雰囲気、空気。全てが沙紀がぼこられることが確定したような雰囲気だ。事情も何も知らないくせに音巴は何も悪くなくて、全て沙紀が悪いみたいな流れになっているから日本の群集心理というのは本当に不思議だと沙紀は思った。


「ああ、平気。平気。音巴なんてぜんっぜん大したことない奴だから」


沙紀はわざと音巴に聞こえるように言った。その瞬間、柳沢みどり、支倉留美はせくらるみ倉橋五月くらはしさつき、広瀬紀子、円城寺音巴。つまりチーム音巴が一斉に鋭い視線で沙紀を貫こうかというぐらいの表情をした。沙紀はむしろ心地よい気持ちになった。


「今日の放課後、楽しみだわ」


沙紀は恵に言った。


「それから、今日は放課後あたしに近づかないほうがいいよ。危ないから」


それを聞いて恵はものすごく嫌そうな顔をした。


「そんな暗い顔しないでよ。別にとって食われるわけじゃあるまいし」


と沙紀は努めて明るく言った。


「沙紀は知ってるの?円城寺さんのこと」


恵が言った。


「よく知ってるよ。単なるお嬢様でしょ?」


すると恵はさっと横を向いてしまった。


「沙紀は知らないんだよ。本当に円城寺さんがどんな人なのか」


恵は急に小さな声になって沙紀に囁くように言った。音巴がどんな人か。それを人から聞くよりやっぱり自分で音巴と関わって、徐々に分かり合っていけたらいいなと沙紀はまだ悠長なことを考えた。


終礼の挨拶が終わった。沙紀はさっと音巴の周りを確認した。みどりが白い目をこちらに向けているだけだ。よし。先手必勝だと沙紀は心の中で自分に言い聞かせた。沙紀は教室の前の方からものすごい勢いで飛び出した。目標はいたって簡単だった。自転車置き場までダッシュしてそれから家まで全速力で帰還するのだ。いや、逃げるのだ。沙紀が飛ぶようにして自転車置き場までくると、あまりにも早いためか誰もいなかった。よし。とりあえず今日は無事に帰ろう。そう思って沙紀は自転車で一目散に校門に向かおうとした。その瞬間、


「はい、残念でした」


みどりの意地悪そうな声が眼前に立ちはだかった。


「チャリ置き場への近道、おめー知らねえの?」


みどりが仁王立ちになって通せんぼしている。沙紀はその場に自転車を投げ捨て音巴たちを避けて横に走った。おめえ、逃げんなよ。後ろから声が追いかけてくる。いくらなんでもここは音大付属の高校だ。まさか何もしていない自分を捕まえるために走って追いかけてはこないだろうと予想したのが甘かった。待てこらというみどりを先頭に全員が全速力で沙紀を追いかけてきている。


 沙紀は何故こんなふうにして自分が逃げなければならないのか全く分からなかった。それでもとにかく必死に逃げた。こうなると肌身離さずもっているバイオリンケースの重みが走る邪魔になった。だけど中には両親に買って貰った、そしてヨーロッパでの思い出がたくさんつまっている大切なバイオリンが入っているのだ。沙紀はバイオリンを大事に抱きかかえながらスカートを振り乱すのも気にせずに走った。しかしもうすぐ校舎から裏手にある校庭に出るというところでついに追いつかれてしまった。みどりに強い力で腕をつかまれた。あっという間に周りを囲まれる。


「おめー、逃げれるわけねーじゃん。ばっかじゃないの」


みどりが息を切らせながら言う。


「そうそう。たっぷりこのお礼させてもらわないとね」


「大丈夫だよ。音巴がこの子ぼろぼろにするまで可愛がってくれるわよ」


最後の言葉はヒロが言った。ヒロだけは友達になれたと思っていたから沙紀は少しショックだった。


沙紀が無理やり連れて行かれたのは校庭の横にある体育倉庫だった。倉庫の前で待っていた音巴は沙紀を認めるとにっと笑った。沙紀は音巴を睨みつけたが、すぐに引っ立てられるようにして暗い倉庫の中に引きずり込まれた。


「早く逃げられねーように縛っちまおうぜ」



みどりの指揮でまた沙紀は手足を拘束されようとしている。今度は前よりももっとひどい目にあわされるに違いない。そう思うと沙紀は再び絶望的な気分になったが、まだあきらめたわけではなかった。沙紀は今度ばかりは冷静に音巴達の動きを見ていた。この人たちは、周囲を注意深く警戒しているけど、リーダーの音巴には従うばかりで沙紀にはあまり注意がむいていない。


みどりが、沙紀の腕を無理やり後ろに回した。


「痛い!」


沙紀が叫ぶと音巴がはっとこちらを見た。


「ちょっとみどり、沙紀には触らないで」


 触れずにどうやって沙紀を捕まえるのだろう。音巴は信じられないような矛盾したことをみどりに言っている。


「ごめんなさい」


しかしみどりは言い返すでもなく、いきなり弱々しくなると沙紀から手を離した。音巴が周囲の様子を見ようと一瞬、沙紀に背を向けた。


「音巴」


沙紀は力強く言った。沙紀が放った言葉に導かれるように音巴が動きを止めた。そして音巴が振り返った瞬間、見計らったように沙紀は椅子から立ち上がって思いっきり頭つきをくらわした。鈍い音がして音巴の額に見事にクリーンヒットした。華奢な音巴の体がその場に崩れ落ちた。そして目を閉じたまま床に倒れた。


多分音巴に直接手を出すやつがいるなんて考えられないのだろう。その間に中途半端に結ばれたロープを外す。沙紀は完全に意表を突いた。思わずみんなは音巴にかけよった。その間に沙紀はさっとバイオリンを奪い返して、倉庫の扉をあけてあっという間にそこから離れていった。


沙紀は走り続けていた。倉庫からは逃げ延びたものの、沙紀はどこへ行ったらいいかわからなかった。すぐ後から、沙紀を追いかけて何人かが飛び出してきていた。目立つところにいてはまた捕まってしまうし、転校したばかりでこの学校の構造は沙紀にはよくわからない。


途方にくれて、空調設備のようなものがごちゃごちゃと集まっている建物の間の溝を歩いているとふいに上から声が聞こえた。


「北野」


見るとはしごのついた四角い構造物の上に女生徒が座って沙紀に向かって手をふっている。確か同じクラスの子だと沙紀は気づいた。音巴のグループではない。


「あたし、あいつらが絶対わかんない抜け道知ってるから」


背の高い子だった。


「あたしは、クラス委員をしてる上條かみじょうあずさ。困ってる人を助けるのもクラス委員の仕事だからね」


梓は笑って言った。そして沙紀に上ってこいと言うようにはしごを指差した。


沙紀が肩をいからせてはしごを上り終えるとまた少し笑って梓は沙紀を迎えてくれた。登ったときの一瞬心地よい風とともに沙紀はどんな状況であれ人の笑顔でも見ると自然に沙紀も笑ってしまった。


「いいとこだね。ここ」


そこからは、学校の校庭や体育館、裏庭などが一望できた。吹いてくる風が汗ばんだ身体を乾かして心地よい。


「ここで何してるの?」


沙紀は言った。


「うーん。日向ぼっこかな」


沙紀は、梓の横に座った。リズミカルな風に乗ってクラシックの音楽が聞こえてきそうだ。沙紀はみどり達に追いかけられて必死に逃げたのも忘れて、しばらく気持ちいい風にあたっていたいと思った。


「円城寺音巴さあ。ひどいことするよね」


梓は言った。


突然、音巴の名前が出てきてだけで沙紀は動揺してしまった。


「いじめのターゲットにされてるんじゃないの?」


沙紀は一瞬黙った。沙紀はいじめられていることを認めたくはなかった。どこかで音巴には友達として認められていたいと言う気持ちが働いていた。


「別に。あたしはいじめられてなんかいないよ。一方的にやられているのはあいつらが隙を見せるのを待ってるだけ」


沙紀は言った。


「本当に?」


「ホントもなにも私が音巴なんかにやられるわけないじゃん」


強がりだった。沙紀には音巴に対抗する策があるわけではない。慣れない日本で、しかも音巴が完全に仕切っているこの高校で、一つだけ音巴に抵抗する手段があるとするなら、それは自分の傍らにあるバイオリンだけかもしれない。だけどそんな力任せのことはしたくなかった。何よりそんなことは自分にも音巴にもふさわしくないと思った。


「でもあたしはもう円城寺は終わりだと思う」


梓は言った。


「え?」


沙紀は音巴のことを言われると自分のこと以上に心が揺れ動く。


「何で終わりなの?」


「沙紀にこうやって嫌がらせしたり、いじめたりして先延ばししてるけどさ。本人も分かってるんじゃないの?もうそろそろ自分の時代が終わりだって」


「音巴の時代?」


「円城寺はこの学校でバイオリンが一番うまくて一番可愛くて家もお金持ちでみんなにちやほやされてるけどさ。もし沙紀が本気出せば円城寺なんて全然大したことないでしょう?」


「それは分からない」


沙紀ははっきりと言った。


「まだあたしは音巴のこと少ししか知らない。音巴のバイオリンもこっちに来てから聞いたことがないし、音巴の性格だってよく知らない」


「性格?あんた音巴にむかついてるんじゃないの?今だって円城寺に追いかけられてたんでしょ?あいつらこれからどんなことしてくるか分からないよ」


梓は少し声を荒げて言った。


「沙紀はお人よしで優しすぎるんだよ」


梓は今度は沙紀を見据えて静かに言った。梓にそう言われて沙紀は不思議な気がした。


日本人であなたほど勝負強くて勝気な人間は見たことがない。ドイツでバイオリンの先生に言われた言葉だ。だから日本に行ったらその攻撃的な性格で人を傷つけてしまうかもしれない。人間は勝負してるときだって、優しさも大事なんだよと日本に帰る前にその先生に言われた。帰ってから自分の性格など全く気にもしていないのに、その真反対の「お人よし」と言われて沙紀は今心の中でものすごく驚いた。しかし確かにその通りなのだ。


「あ、やっと見つけた。こんなところにいたの?」


後ろを振り返ると、恵が息をきらせてこっちに向かっていた。


「恵、遅いよ」


梓が恵に手を振って言った。


「恵、どうかしたの?」


沙紀が不思議そうに言った。


「放課後になって、円城寺さんたちのグループがさ。沙紀を追いかけてひどい目にあわすって言ってたからさ。やっぱり心配になっちゃって。沙紀、大丈夫なの?」


「あたしは大丈夫だよ。上條かみじょうさんが助けてくれたから」


恵は沙紀のすぐそばに座った。


「クラスのみんなも言ってたよ。やっぱり円城寺さん達がやってることひどすぎるって」


恵が言った。


「そうだよ。やっぱそろそろ円城寺も調子に乗りすぎたって分かるんじゃない? だから沙紀、怖がらないでさ。あいつに立ち向かえばいいんだよ。」


 「うん・・・」


 沙紀の答えは歯切れが悪い。気弱になっているわけでは決してない。だけど何とかはっきりとした対立じゃなくて、別の方法で音巴と分かり合えることをどうしても期待していた。


「大丈夫。沙紀にはこれがあるでしょ?」


梓は沙紀のバイオリンを指差した。


「あたしは絶対負けないと思う。あんなやつに。あたしは沙紀の味方だから」


恵は言った。


「あたしは沙紀を応援する。きっと心の中でも沙紀を応援してる人も多いと思う。だって沙紀は希望だから」


梓も同調してそう言った。


「希望?」


「ずっと円城寺が中心で動いているからさ。この学校。学校のオーケストラもそう。授業もそう。先生達の扱いもそう。だからそんなのおかしいと思ってる人たちはたくさんいると思う。そういう人たちの希望なんだよ。沙紀は」


沙紀の中で何かが動いた。それは使命感にも似たものだった。


「だったらさ。何人ぐらい集められるの?」


「何が?」


「音巴をよく思ってない人たち。クラスでもオーケストラでも」


沙紀は言った。


「え?実際円城寺を恐れなくてもよくなったらかなりいると思う。クラスでもオーケストラでも半分くらい。あたし、円城寺のオーケストラのコン・バスやってるからよく分かるんだ」


沙紀は考えた。音巴への近づき方はたくさんある。何も相手の思うとおりに近づかなくてもいい。音巴が無視できない力を沙紀がもてば、きっと音巴は今みたいな強引ないじめはできなくなる。そしたら音巴が沙紀を見る目も変わってくるかもしれない。音巴の行動を見ていると沙紀を唯一の目的としていることは確かで、それは沙紀にとっても同じだった。


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