第6話 狙われた沙紀の唇

「何でなの?」


問い詰めるような口調で音巴が言った。


「何が?」


沙紀が目を大きくして音巴を見つめる。


「何であたしのオーケストラ、入ってくれないの?」


「ごめん」


沙紀は即答した。これについては、沙紀は躊躇する余地がなかった。これは沙紀が音巴のために、正確に言えば音巴との友情のために考えた上で下した決断だ。


「そんなことが許されると思ってるの?」


怖いぐらいの厳しい口調で音巴は言った。しかし沙紀は音巴が全く怖くはなかった。


「音巴のオーケストラには入らない。これは私が決めたことだから」


平然と沙紀は言った。そして今度は威嚇するように真っ直ぐに音巴をみつめた。沙紀の答えを聞いた音巴は、怒ったように放送室の機械のところへ沙紀いていった。そしておもむろに赤いスイッチをONに入れた。その瞬間、マイクのスイッチが入ったような機械的なくぐもった音がした。そして、音巴はつかつかと沙紀のそばまでよると耳打ちした。


「今、放送室のスイッチ入れたから。あんまり大きな声、出さないほうがいいよ」


最初、沙紀には音巴の行動の意味が分からなかった。音巴はそのまま顔を戻すと今度は、沙紀の身体を両腕でおさえるとゆっくりと自分の唇を沙紀の唇に近づけた。


「ひっ」


もう少しで唇が重なりあうというところで沙紀は、音巴を振り払ってその場に倒れた。見上げると音巴は不敵な笑いを浮かべている。そしてすぐに沙紀の前にしゃがみこむともう一度沙紀の唇を奪おうとした。


沙紀は今度は後ろによけようとアンプを後ろに倒してものすごい音がした。後頭部を打ちつけて痛みが走る。しかし音巴に全く躊躇はなかった。音巴がゆっくりと沙紀の顔に近づく。沙紀は激しく動揺した。音巴が何を考えてるの全く分からない。音巴が追い詰められた獲物に最後のとどめをさすように身体をよせた。もう逃げられない。沙紀は目をつむった。


その時、突然ドアのほうから物音がしてきた。「誰かいるんですか?」という声が聞こえて誰かが放送室へ人が入ってきた。音巴がドアのほうをむいて軽く舌打した。沙紀は助かったと思った。音巴はすっと立ち上がると何事もなかったように後ろ手で放送のスイッチを切った。


「円城寺先輩?」


どうやら入ってきた子は音巴を知っているらしかった。


「ちょっと放送室に用があったから。ごめんね。勝手に入って」


音巴が言うと、入ってきた女の子はものすごく恐縮して言った。


「あ、いいんです。私たちも急にスイッチが入ったみたいだからきただけで。先輩が使ってるって知らなかったんで。私たちのほうこそ、急に入ってごめんなさい」


どうやら放送委員の後輩の子のようだ。


「いいよ。もう終わったから」


音巴はぶっきらぼうにそれだけ言って、部屋から出て行った。沙紀も続いて出ようとしたらその放送委員の子に呼び止められた。


「あの…北野沙紀先輩ですよね?」


「そうだけど」


沙紀がそう答えた瞬間、


「あたし達、北野先輩の大ファンなんです!」


「あの、サインもらってもいいですか?」


全員が一斉に声を合わせて、用意していたかのように言った。


勢いに押されて、沙紀が書くものを探していると立て続けに質問攻めにされた。


「北野先輩って、顔は可愛いしバイオリンは超うまいし、有名だしどうしたらそんなふうになれるんですか?」


「北野先輩ってドイツ語も日本語も両方べらべらなんですね」


「ヨーロッパのバイオリンコンクールってどんなふうなんですか?」


「沙紀、先に行ってるね」


音巴がドアのところで振り返って言った。


「あ、うん」


沙紀は答えた。あたし達何だか普通の友達同士みたいだと沙紀は変に感じた。


「あたし円城寺先輩と北野先輩のバイオリンの協奏曲、聴いてみたいです」


音巴と沙紀の様子を見ていた後輩の子が言った。


「円城寺先輩って、この学校で一番バイオリンうまいし、北野先輩みたいな生まれつきの天才に合わせられるのって円城寺先輩しかいないと思います」


「それに…ビジュアル的にも」


前の子に引き続いてはしゃぐように言った。


みんな自分を芸能人か何かと勘違いしているのかと沙紀は思った。生まれつきの天才なんてこの世の中にいるはずない。音巴のバイオリンをはっきりとまだ聞いてなかったが、これだけ騒がれているのだ。きっと沙紀と同じように血の出るような努力を続けてきたに違いない。だから沙紀は音巴のバイオリンには指一本触れたくないのだ。自分なんかが突然音巴のオーケストラにしゃしゃりでて、音巴の音楽の何かが変わってしまうことを沙紀は一番恐れていた。


後輩達と話している間に、音巴の姿は見えなくなっていた。沙紀は一人になってから、教室に戻って突然放送室内での一件を思い出した。にわかに心臓の鼓動が早くなるのを感じる。キスされそうになっただけなのに急に自分が何か取り返しのつかないことをしてしまったような気がした。


 改めて音巴は自分のことをどう思っているのか見当がつかなくなった。それに何より危険すぎると思った。女の子である自分と音巴がキスするなんて。とんでもなく危ない。そういうことって男女の秘め事とか快楽とか遥かに飛び越して表現のしようがないほどの目くるめく世界へ入ってしまっている気がする。ただ、沙紀には自分を守るとか、自分のイメージを崩さないとかそういう意識が先行したわけではなかった。


 むしろそんなことはどうでもいい。だけど音巴と「放送室でされそうになったこと」を平気ですることは、音巴ときちんと友達になりたいと思っている自分を裏切ることのように思った。

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