第4話 音巴の正体
「ねえ、沙紀。まだ思い出さないの?」
怪しく揺らめいていた蝋燭の炎は音巴の息で急に吹き消された。そして突然やる気をなくしたかのように音巴は焼けた鉄を暖炉に戻した。
「円城寺さん?」
「ちょっと待ってて」
音巴は沙紀に軽く笑いかけると、部屋の片隅においてある古ぼけた木製の戸棚のドアを開けた。沙紀ははっとなった。中にバイオリンが入っていたのだ。音巴はそれをおもむろに手にとると、沙紀を振り返ってバイオリンを構えた。不思議だ。ずっと昔にこの光景を見たことがあるような気がする。あれほど沙紀の中を充満していた恐怖心が消えていく。
音巴が弓で弦を動かすと、一瞬古ぼけたドアをひきずるようなさび付いた音がしたかと思った。しかし、次にバイオリンの音はすぐ昇華されるように奏でられて音楽の音色へと変わっていった。音巴が弾いているのは誰もが知っている誕生日に使うハッピーバースディの曲だ。最初におかしく感じたのはきっとバイオリンがうまく調律されてなかったせいだろう。
一体何のデジャブだろう。何の変哲もない曲なのに、そのメロディーとともに沙紀のセピア色の記憶が鮮やかに呼び覚まされていくようだった。そして突然、音巴のバイオリンと沙紀の脳裏に浮かんだ歌詞が重なった。
「ハッピーバースディ、ディアさきちゃん」
子供の声で沙紀ははっきりとこの言葉を聞き取った。とても昔の記憶だ。沙紀がまだ幼稚園の頃、その日は沙紀の誕生日会で沙紀は小さな子供たちの中心にいた。その前に沙紀のためにバイオリンを弾いてくれている小さな女の子がいた。その子は沙紀の一番仲がよかった友達で、幼稚園のときからバイオリンを弾くことができた。沙紀も周りの友達はみんなその子のことをすごいと思っていた。だから沙紀もバイオリンをやろうと決めたのだ。
「オト、オトちゃんは円城寺さん?」
沙紀は縛られた身体をよじらせて言った。言ったときすでに沙紀には確信に近いものがあった。ふいに幼稚園のアルバムに残っているうさぎ班の自分の名前の隣に「おとは」という幼い字を鮮明に思い出したのだ。
「この部屋も覚えてない?」
音巴はゆっくりとうなずいてから言った。
「沙紀の家、市営アパートで狭いからうちで誕生日会やったでしょ?」
「ここ!?」
沙紀は目を見開いて周りを見渡した。沙紀の中でようやく全ての記憶が繋がったような気がした。
「音巴、私の誕生日にバイオリン弾いてくれたよね?ここで」
「そうだよ。ここは私の昔の家。もう古くなっちゃって使ってないけどね」
音巴はそう言って沙紀を縛っているロープをほどき始めた。
「う…立てない」
やっと手足の拘束が外されて立ち上がろうとして完全に腰が抜けてしまっていることに気づいた。音巴はしょうがないなというふうに優しく笑った。
「私が送っていくよ。ほら肩に手をかけて」
音巴が言うので、沙紀は音巴の肩に手をかけた。音巴の肩は華奢で、強い力でおぶさったら潰れてしまいそうだ。音巴と沙紀の頬が接近してお互いの髪が重なり合って交じり合う。音巴からは、さっきと同じ麗しい花から漂うような香りがした。沙紀は、音巴が何故こんなことをしたのか聞こうとした。しかしその言葉はなかなか沙紀の口から出て行こうとしない。口を開けばこの一瞬が失われてしまうような気がしたのだ。
沙紀は見とれるようにして音巴の横顔を眺めていた。
「何てきれいな子なんだろう」
沙紀は至近でみる音巴の美しさに目を見張った。
バイオリンにも実際に弾くためのバイオリンと何千万もする観賞用としてのものがあるが、もし観賞用の人間というのがあるのならばそれは音巴のことだと思った。遠目から見たら美人だけどそばによるとそうでもないのはよくあるが、間近で音巴を見るとその容姿の端麗さはそんな次元は遥かに超えていた。肌理の細かい白い皮膚に真っ黒で大きな瞳が際立ち、まるで命を吹き込まれた人形のようだった。よく白人の女の子でフランス人形のようなきれいな子がいるが、日本人の音巴はそういうふうでもない。音巴はフランス人形とお菊人形、二つの美しさをかけ合わせたようだった。
「もういいよ。あたしの家すぐそこだし。もう暗いから音巴が一人で帰ったら危ないでしょ?」
洋館の庭までおりるとようやく沙紀は口を開いた。沙紀を支えるのにやっぱり力を使うのだろう。音巴からの息遣いがすぐ傍に聞こえた。
「平気。あたしん家もすぐそこだから」
横で音巴がはにかんだように笑った。
「その沙紀の家の隣」
その言葉を聞いて沙紀は驚いた。
「え?もしかしてあの豪邸!?」
沙紀は驚いた。今回日本に戻るにあたって、沙紀の家族に安く家を貸してくれたのもその豪邸に住んでいるお金持ちだったのだ。
「うちのパパと沙紀のお父さん、ずっと知り合いだったでしょ?沙紀の親は楽器の卸やってるし、うちも楽器屋さんやってたりするからね」
単に知り合いという間柄でもないことを沙紀は知っていた。隣の豪邸のお金持ちの話は両親から聞いていた。それが音巴の家だということはわざと聞かされなかったのか今まで気づかなかった。
沙紀の両親は、クライアントに高価な楽器や珍しい楽器を届けるためにヨーロッパを飛び回っていたが、家はそれほど裕福ではない。一方音巴の家は、大手の楽器屋を経営している上にプロのバイオリニストを何人も抱えてコンサートをやったりしていた。家の格も財力も格段に上だった。いくらバイオリンの天才と言われても音巴に勝てないことがあることを沙紀は思い知らされた。沙紀はプロになってお金を稼ぐには若すぎたし、プロとしての実力を試されるにしても、まだ高校生だった。
「音巴、バイオリン続けてたんだね」
沙紀は先ほどのバイオリンを思い出して言った。最初に違和感を感じたのはバイオリンは調律が、わずかに狂っているせいだと絶対音感のある沙紀は気づいていた。しかし音巴の弾き方はまるで微妙な楽器の変化に自分を合わせているようで、かなりの熟練した奥深い技術を感じさせた。
「だって私からバイオリンとったら何も残らないもん」
その答えは沙紀を急にうれしくさせた。少なくとも自分と同じ人間がこの世界にもう一人いる。それも沙紀のこんなに近くにいるのだ。
「ねえ、沙紀一緒にオーケストラやらない?」
音巴が言った。その言葉を聞いて沙紀はたまらなくうれしかった。できればこの瞬間を、音巴が沙紀の答えをを待っているこの時間を切り取って保管しておきたかった。だけど待っている間が気まずい時にかわるまでの時間は短い。
「ごめん。私は社会人のオケに入ることが決まってるんだ」
しばらく考えて沙紀は言った。今からでも社会人オーケストラの方を断ることもできた。しかし、沙紀は音巴のオケには入らないほうがいいと思った。沙紀が考えたのは自分がオケに参加することによって与える影響だった。
日本の高校生のオーケストラなんてたかがしれている。とてもじゃないが自分のレベルについてくることはできないだろう。沙紀が入れば第一バイオリンとなる首席奏者は確実に音巴から沙紀に入れ替わってしまう。もしそうなったら高校一の美少女でバイオリンも優秀な音巴のプライドをずたずたにしてしまい、音巴との友情が壊れてしまうかもしれない。こうして向かい合って話したり、二人きりで会うこともなくなってしまう。そんなことを考えるだけで沙紀にとっては恐怖だった。
すでに音巴の存在は沙紀にとって単なる幼馴染ではなくなっていた。それは、バイオリンの収集家が何千万もするブルガリを欲するように観賞用の人間としての音巴に出会ったしまった沙紀は、音巴を独占したい気持ちで頭がいっぱいになってしまっていた。
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