Ep.7 海からの奇襲

 フェイルが甲板に走り去り、一人の客室で本を読み始めてから数刻がたった。

 イグルは本から目を離し、ふぅ……と息をつく。

 読み始めた"海賊Dの渡航記録"、何かの伝記かと思ったが、どちらかというと誰かの日記に近いものだった。それも、かなりファンタジーチックな。

 主に異世界へ渡航した話が多く綴られていた。作り話と言われれば納得してしまうほどに現実離れした体験談。著者が知人であるDという男から見聞きした話を綴っていく、という冒頭で始まり、どうやら物語は完結しないまま終わりそうだった。


「……これ、未完結なのかなぁ」


 人間、だめと言われるとやりたくなるのと同じように、続きをおあずけされると続きが気になってしまうものだ。続きを売っているのであれば是非とも買いたい。本の虫イグルの好奇心が掻き立てられた本だった。……まぁ、しばらくは落ち着いて本など読めることはないだろうけれども。


「……レイノット・Wウィドル、かぁ」


 作者は何を思ってこの本を綴ったのだろうか。あとがきと奥付を見ようとした。

 ――その時。


「わ、わ……!?」


 船が大きく揺れた。カンカンと緊急事態を知らせる鐘がなり、外が騒がしくなる。

 何があったのかと外に顔を出すと、船員が武器を持ってバタバタと廊下を移動する姿が見えた。

 理解が追いつかず困惑した顔で状況を見ていると、船員の一人が顔を出すイグルに気づいた。


「天司様!室内でお待ちください!!」

「えっ!?あ、あの、何が――」

「クラーケンが船を襲ってきたのです!いまは危険ですので、安全のためお客様は室内で待機していただいています」


 天司様も早く中へお戻りください。と早口で告げると、彼も甲板へ続く階段を駆け上がって行った。

 クラーケン。海に生息する巨大な牙と6本の触手を持つ魔物だ。魚と間違われた船が襲われ、海の藻屑となっていく旨の話は度々耳にする。

 しかし、クラーケン海路になる海には滅多に現れないとイグルは聞いたことがある。つまりこれは、レアケースということだ。近日は尽く不運が降り注ぐ定めであることに、イグルは苦い顔をした。


「……船が襲われたってことは、魔物は甲板にいるってことだよね」


 甲板には今、フェイルが出ているはずだ。

 ――嫌な予感にイグルの血の気が引いていく。


「っ、兄さん……!!」


 待っていろと言われたことも忘れ、イグルは客室を飛び出した。


 甲板に出れば自体は騒然としていた。

 船員が撃退しようとクラーケンに刃を向けているが、巨大な触手に薙ぎ払われたり、捕まったり。船の揺れで体を放り出されて海に落ちていく姿も見える。


「兄さん!!」


 戦場になど来たことのないイグルは、震える足に鞭打ち、蒼白になりながら兄の姿を探した。しかし甲板にはその姿はなかった。

 避難できたのか?はたまた、襲われて海に落ちてしまった――?

 最悪の可能性に、船の揺れも相まって思考がグラグラと揺れる。


「――あ」


 不安定な足場と、震える足。イグルはバランスを崩した。支えを失った体は、まるで引きずり込まれているかのように、そのまま海の方へ倒れてしまう。


 ――落ちる。

 直感が訴えた。


 ――嗚呼、このまま、溺れて死んでしまうのか。

 思考が死を悟った。


 自分は、天司とやらに勝手に選抜され、家にも帰れず、促されるまま旅に出て、そのまま海の藻屑になるのか。一体前世で何をしたらこんな振り回された人生を歩めるのだろうか?

 もっと必死になって拒否すればよかった。自分は世界を救うなんて柄じゃないと。自分は勉強して、医者になりたいのだ、よくわからぬ伝承に付き合ってるほど暇ではないのだと。

 16年という短い生涯だった。来世では平凡に、幸せに生きて、寿命を全うできますように。後悔と切望を噛み締めながらギュッと目を閉じる。


 しかし、体は海の方ではない方向にグンっと引っ張られた。体が最後に何かに縋って足掻いているのだろうか?


「っあぶねぇ……!! 大丈夫かイグル!?」


 ついには兄の声の幻聴まで聞こえてきた。

 走馬灯だろうか?しかし視界は待てども真っ暗のままだし、ゴボゴボと溺れるような感覚もない。そもそも息ができる。

 イグルは恐る恐る、硬く閉じていた目を開いた。

 最初はぼやけていたが、だんだん焦点が合ってくる。そこに写ったのは、自分の腕を掴む兄の姿があった。


「にい、さん……?」


 思わず掠れた声を漏らす。生きている?ここは天国とやらではないのか?頭が混乱している。


「おう。びっくりしたぜ……ったく。お前の声が聞こえたから何とか柱つたいに来てみたら、この世の終わりみたいな顔してフラフラしてるし、終いには海に投げ出されそうになってるし。もう少し遅かったら海に落ちてたぜ?」


 怪我はないか?大丈夫か?と心配する兄フェイルの顔を、呆けた顔をして一瞥した。そして、やっと今自分の腕を掴んでいる兄の手から体温を感じ取ることができた。そして、バクバクうるさい自分の心拍音も。

 ――生きている。自分も、兄も。

 その事実をやっと飲み込むことができれば、イグルの目からはぶわ、と涙が溢れた。


「うおっ、どした、泣くなよ」

「だ、だってぇ……」


 16年の生涯に幕を下ろさずに済み、兄も五体満足無事であった奇跡に安堵したイグルの目からは、ボロボロと大粒の涙が溢れて止まらなかった。困ったような顔でフェイルはイグルの背を擦る。

 家族も自分も、一命はとりとめた。が、状況は全くというほど変わっていない。それどころか、船側が押されているようにも見える。甲板の一部の木材は破壊されているし、甲板に打ち付けられて怪我をしている船員もいるようだ。


「……イグルは部屋戻ってろ」

「え?兄さん、どうするつもりなの?」

「剣が扱えるやつは多いほうがいいだろ、このまま加勢する」


 遠くで暴れるクラーケンを一瞥しながら、フェイルは自分の腰に固定された両手剣の柄を握った。


「そんな、無茶だよ!!あんな大きのに勝てるわけない!!」

「だけどこのままじゃお前どころか船に乗ってる人全滅だ!!そんなの黙って見てられるかよ!!」


 フェイルはギリ、と奥歯を噛み締めながら敵を睨みつける。「とにかく、避難準備できるまで部屋にいろ」と、フェイルがイグルを客席の廊下へ向かって押した。イグルの軸がぶれ、後ろへと倒れそうになる。

 衝撃に備えて反射的に目を瞑る、が、その衝撃は下半身ではなく、ぽすん、と優しく背中にきた。頭上からは「おっと」と男の声がする。


「客の避難指示を任されて戻ってきてみれば……、天司殿御一行じゃねぇか」


 声の主は青い目をぱちくりと瞬きさせた。


「ほら、お前らも危ないから、客室前の廊下まっすぐ行って、倉庫の方にいる船員と合流しな。今避難のための小舟の準備をしてる。それで一旦脱出できる」


 青年はフェイルとイグルの肩をポンと叩くと甲板の方へと歩を進めた。


「はぁ!?ちょ、避難はあんたも同じだろ!?でしゃばんないで避難――」


 フェイルは未だその青年が気に入らないのか抗議の声を上げる。張り合うように甲板へ赴こうとするフェイルに、イグルは「兄さん落ち着いて……!!」と声を振り絞って止めようとした。


「こういうのは傭兵の仕事だ。剣が使えるからって一介の船客が出る場所じゃねぇよ」


 今までの明るいトーンから一変し、低く冷静な声でそう言うと、フェイルも思わずその圧に足を止める。

 青年は両方の太もものベルトについた短剣を鞘から抜いて器用に回し、逆手で持った。

 その動きを見れば、剣を多少嗜むフェイルも、ずぶの素人のイグルでさえも見ればわかる。彼は明らかに戦闘慣れしている。

 荒れた海の風に赤い髪を靡かせる青年は、標的を見据えた。


「無駄に命を散らすのは俺の信条に反するんでね」


 背を向けたまま言うと、青年は甲板に向かっていった。


 ――その後、戦況が覆る。

 傭兵を名乗った青年は、己を叩きつぶさんと振りかざされる触手を身軽に躱し、あっという間にクラーケンの胴体に近づいた。

 そのまま速い短剣さばきで、敵の目を潰す。

 魔物は甲高い声を上げて無造作に触手を叩きつけた。


「こうなりゃあとは後ろに下がりながら暴れるだけの獣だ、あんたらは船と身を守ること、あと落ちたやつの救助に徹しな!!治療が必要なやつは下がれ、運悪かったら巻き込まれるぞ!!」


 青年は戦闘に参加する船員に指示を出す。最悪の戦況に士気が下がっていたが、手練の傭兵の登場により覆った戦況を見て、船員たちは希望を見出したのか、引き腰気味だった動きが変わった。

 いても立ってもいられず加勢に行ったフェイルと、それを放っておけずついていったイグルは、その傭兵の動きに度肝を抜かれていた。


「す、げぇ」


 思わずフェイルは声を漏らした。最悪の戦況を一瞬で覆したその姿は、一種の英雄と言っても過言ではない。

 あんなヘラヘラとした野次男が、こんなに手練の傭兵だったとは。


「おい、突っ立ってないで手伝ってくれるなら運んでくれ!!」


 怪我人を運ぶ船員に声をかけられてハッとしたフェイルは「あ、はい!」と慌てて怪我人に肩を貸したのだった。

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