骨噛み

山咋カワズ

Prologue『夜明け / 星の歌』

「なあ、一粒の米には七人の神様が宿るって話、ニルヤは知ってるか?」

 その声に釣られるようにして、わたしは空を満たす満天の星から視線を下ろす。廃材を燃料に燃える焚き木の灯りが、積もった雪に反射して、粗末な布の上に横たわる青年の顔を浮かび上がらせていた。

 実に120分ぶりに口を開いた彼からさらなる言葉を引き出すため、「米」、「七人の神」というキーワードから、身体の内を流れる膨大な記録を辿る。この近辺の信仰に的を絞って検索してみれば、それと思しき情報はすぐに見つかった。

「日本の民間信仰だよね。稲作に必要な過程を、七人の神様になぞらえるっていう。それがどうかしたの?」

「別に、たいしたことじゃないよ。ただ、僕が生まれた国で育まれた思想を、君はどう思うのか気になったんだ」

 僕が生まれた国。その言葉を日本という単語と結びつけてから、『遠藤アラヤ』のタグ付けをして覚える。アタマの中で行うその仕事に並行して、わたしは彼に言葉を返した。

「好きな考え方、かな。生存に不可欠な穀物に神性を見出して教訓にするっていう素朴な感性には、なんていうかその、日本っていう国らしい美しさがある気がする」

 少し、表現を彼の記録に寄せ過ぎたかもしれない。表情を伺うわたしの顔に向けて、額に無数の汗の粒を浮かべた彼が微笑む。

「ありがとう……だけどね、僕が訊きたいのはそういう事じゃないんだ」

「?」

 わたしが首を傾げると、彼は這いずるようにゆっくりと身体を起こした。

「……元気が出てきたんなら、飲みなよ」

 焚き木の側で温めておいた缶入りの豆スープを、白地に色鮮やかな花々が描かれたマグカップに注いで差し出す。けれど青年は、軽く首を横に振ってそれを拒んだ。

「食欲が、無いんだ。……君は、そうだ。食物に神を……命を失ったはずの物体に、神や魂のような概念を重ねたりするのか?」

 焼けた枝の破裂する乾いた音が、二人しかいない夜の底を叩いた。振り絞るように細められた瞼には、消える寸前の炎のような切実さが込められている。その黒い瞳に、一本に結んだ柳色の髪を漆黒のドレスの前に垂らしながら、マグカップを手渡そうとするわたしの姿が写った。

 スープが溢れないように、わたしの掌には少し大きい器を両手で抱える。伝わってくるその温もりをゆっくりと味わってから、言葉を紡いだ。

「わたしが記録するのは、この身体にある感覚器で観測できる事だけ。あなた達みたいに、失われた何かや、最初からありもしなかった何かを想像で補完したりはできないんだ」

「七人の神という概念を知った今でも、それは変わらないと?」

「一粒の米は、一粒の米以外の何物でもない、かな。粒の大きさや、甘さや、香りや、食感の違いはわかるよ。だけどそこに魂は見いだせないし、誰かの比喩や主観を被せたりもできないの。それは、わたしの設計思想に反してしまうから」

 そうか、と青年が息を吐きながら呟く。その声が、微かに震えていた。

「けっきょく僕らは、独りよがりにしかなれないんだな。好きで陥ったはずの孤独の中にも繋がりを求めてしまって、君たちのように無垢なモノにさえ勝手な願望を押し付ける。そして結局、最後には呪いだけを残して、醜く虚無に溺れるのか」

「……悲しいの?」

「いや、悔しいんだ。その愚かさが、自然の無作為じゃなくて、僕自身の意識が選んだ救いだってわかっちまうんだから……ごほっ」

 言葉の途中で青年がむせて、炎の下に幾つもの黒ずんだ赤い飛沫が散った。

「……惨めだな。それでも僕はいま、これまでの人生でいちばん幸福なんだよ、ニルヤ」

 皮肉気に笑う青年の喉奥から、音を忘れた笛のように長く細い単調な呼吸音が通り抜ける。それを聞いて、ふいにわたしは、『星の歌』と呼ばれる話を思い起こした。

 核融合反応によって輝く恒星は、そのガスの身体の表面で巻き起こっている乱流が生み出す音波を内部へと伝える。すると振動を金筒へと伝えて自在に音を生み出すパイプオルガンのように、星の内側で共鳴しあう楽音が、神秘的な調べを奏でるのだ。

 星は声を持たずとも、たとえその音色を真空の壁に拒絶されようとも唄っている。だったら、本当は、ヒトやモノも口ずさんでいるのだろうか。わたしには感じ取ることのできない、神様たちが奏でる透明な音階を。

 何万年、何億年前という遠い過去から降り注ぐ光の群れを見上げてから、周囲を包む暗闇へと視線を流す。一面に広がるのは、ニルヤとアラヤが囲む焚き木の灯りを押しつぶそうとするかのような、果ての見えない闇ばかりだ。夜空に浮かぶ月面に似た、拒絶と孤独だけが遺されている、雪で埋もれた枯槁ここうの海。

 気が付けば、両手で抱くカップから伝わってくる熱はすっかり尽きていた。それを見計らったかのようなタイミングで、青年は、病んだ肺に残る僅かな酸素を振り絞るように声を発した。

「なぁ、やっぱり、スープを、くれないか?」

「もう冷めてるよ。すぐに温め直すから、ちょっと待ってて」

「すまない……いや、ありがとう。そのままで、いいんだ。君がさっき注いでくれた、そのスープが……」

「……そっか」

 わたしは、悲鳴のように咳き込む青年の側にかがみ込む。少しでも温もりが伝わるように、マグカップを受け取った彼の震える両手に手を重ねて、その渇き切った口に甘いトマト風味の豆スープがひとくち注がれるまで、支え続ける。

 生温い血の色をした、けれど芳しいコンソメの香りを放つ液体が、青年のやせ細った喉を通り過ぎる。胃の底にまで沈み落ちた味すらも噛みしめるように彼は瞼を閉じて、俯きながら呼気を吐いた。

「……ああ、あったかい。はじめてだ。こんな世界で、心の通った食事は……」

 羽毛のように力のない指をそっと外して、言葉の途絶えた青年の代わりに、殆ど減っていない赤いスープの揺れる器を、焚き木の側の石に置く。

 青年は、降り落ちる雪のように音を立てず横たわった。聞こえるのは、空に浮かぶ一面の星が次々と破裂するかのような、薪の爆ぜる音だけ。

 眠りにつく彼の首元に手を伸ばしながら、わたしは独りごちた。

「お礼も、謝る必要もなかったんだよ。これは、ずっとずっと昔から繰り返されてきた、当たり前のことなんだからさ」

 私に観測することのできる『遠藤アラヤ』の歌は、全て止まっていた。その時刻、身体を侵した感染症の段階と症状、会話や所作の全てに、『遠藤アラヤ』のタグ付けをして、あたまの中の記憶領域に入力する。

 それから、次の仕事を行うための道具が入ったザックを、焚き木の向かい側にある荷物置き場へ取りに行ってから、彼の元へと戻った。炎が照らすその顔に、厚い涙の跡が浮かんでいるのが見えた。

 無数の怒りと悲しみが、その身体と言葉に刻まれていた。僅かな喜びと楽しみが、彼が目の前の現実を生きるために作った仮面に、掠れた泥のような残滓を残しているだけなのが切なかった。

 目を逸らすように手を動かす。

 わたしの仕事は、ここからが本番だった。

 まずは、地面においた道具袋から、鈍色の輝きを放つノコギリを引き抜いた。その荒い刃を、『遠藤アラヤ』の喉元に置く。

「まずは、血抜き」

 わたしと同じくらいに細い首は、数度の押し引きで簡単に落ちた。病で腐りかけていた血管から、清らかな泉のように滾々と血が流れる。

 次だ。

 全身を覆っていたボロ布のような服を脱がす。色褪せた肌の上には、いくつもの汚濁した痣が浮かんでいた。そんな簡潔なコメントと共に、眼球で捉えた映像データを感染症の症状として記録しておく。

 次だ。

 愛用の超音波ナイフを取り出して、皮の張り付いただけの両腕を肩の付け根から切り離す。毎日欠かさず手入れしている刃を関節の間に突き刺せば、あっさりと腕は取れた。同じようにして、股関節から両脚も落とした。

 次だ。

 臓器を傷つけないよう、臍の下辺りへと慎重にナイフの先を挿し込む。そうは言っても、もう幾度となく繰り返してきた行為だ。内容物が溢れないように出入口の周囲ごと大きく切り取った消化器官や生殖器を取り出して、あらかじめ広げておいた遮光袋に入れる。

 その頃には一通り血抜きも済んでいたので、肝臓や心臓などの臓器も切り離して、防腐フィルムで包んでから保冷バッグに入れた。残る身体の部位は適当な大きさに解体して、新しく取り出した袋に放り込む。

 血まみれの道具と手のひらを、ザックのサイドポケットから引き抜いた2Lペットボトルの水を全て使って洗った。木片の焼ける匂いが、むせ返るほどに濃密な血の香りと混ざり合って夜に溶けてゆく。

 一息ついた時、ふいに全てを投げ出したくなった。このまま流れ落ちる血と水に解けてしまって、大地に飲み干されてしまいたい。

 瞬きをしてから、軽く首を振る。

 それは、錯覚だ。わたしは感情や意識を演算できるけれど、この役割に嫌気が刺すようには設計されていない。わたしのような存在でも、得た知識や感覚を整理する際に、夢を見ることはできるというだけだ。そこに神や魂のような、意味を見出すことはできないけれど。

 思考が逸れた。さあ、これで最後だ。

 最初に切り落とした頭を拾い上げて、近場にあったなんとか机代わりに使えそうな小さな岩の上に置く。それからナイフの振動機能を切りつつ、新たに袋の中から取り出した愛用のフォークを手に持って側に座る。

 そして、いつものように、両手を合わせて呟いた。

「いただきます」

 ナイフを額に刺し込んで、円を描くようにくるりと回す。そしてナイフを左手でフォークと一緒に持ち、右手で頭頂部を持ち上げた。すると何ら抵抗を生じさせることなく、毛髪や頭皮と一緒に切断された頭蓋骨が離れた。

 脂質とタンパク質で編んだ神経細胞で形作られた脳が、薄い毛細血管の膜の下にその黄ばんだ肌色を晒す。暴いてはならない本性を覗いたかのような罪悪感ごとナイフを突き入れて、一口大に切り取る。フォークで取り出したそれを、唇の端を汚さないように、自らの口に運んだ。

 舌の上を満たすのは、卵の黄身をたっぷりと使った濃密なカスタードの食感。口内から鼻孔へと、ハイビスカスの蜜を煮詰めたかのような甘い香風が吹き抜けて。咀嚼した脳が喉を通り抜けてゆく際には、この世のものとは思えないほどの幸福感が、夏の日差しが見せる夢のように一瞬だけ全身を震わせた。

 一口一口を味わいながら、大きな脳をぜんぶ咀嚼する。その時に、『遠藤アラヤ』の顔を、溢れてくる髄液や脳片で汚すことのないようにだけ気をつけた。脳を生で食べれば後は好きにしていいという要望だったけれど、涙の跡が火傷のように染み付いたその顔を、もうこれ以上は汚したくなかった。

 日本文化圏で育った『遠藤アラヤ』は、『骨噛み』と呼ばれる文化的儀礼に根ざした思想を有していた。

 その儀礼とは文字通り、葬儀の際に死者の骨を食すというものだ。

 それは愛する人や尊敬した人物の体の一部を血肉に変えて、その能力や意志を自らの体に宿す儀式として受け継がれてきた食屍習俗の一種。かつて野蛮だと蔑まれて淡い伝承だけを残し消え去ったその風習には、呪術的な意味合いだけではなく、もっと純粋な、愛と哀しみの表出としての意味もあった。

 あるいは『遠藤アラヤ』にとって、食事とは弔うことだったのかもしれない。ただ歩むことすら躊躇われる孤独の世界で、せめて過去を噛み締めて、前に進む原動力にするための儀式。そちらは、ヒトがわたしにアウトソーシングした行為と、とても良く似ていた。

 脳を食べ終えたら、頭蓋骨の中から長い神経をナイフで切り離して、両の目玉を引き抜いた。

 死者を弔う黒装束のわたしを写したまま色彩を失った瞳を口に含んで噛み潰せば、ぶどうの果汁に似た味が口内に溢れて、ほのかな酩酊の感覚が秋の収穫祭を彷彿とさせた。もう一つも食べてから、がらんどうになった眼窩をそっとまぶたで隠して、彼のルーツがあった、かつての世界の作法に乗っ取り両手を合わせる。

「ごちそうさまでした」

 暗視機能を切るために閉じたまぶたを開いてみれば、いつの間にか焚き木の炎は消えて、どこまでも続く荒野の向こうに、朝日が昇ろうとしているのが見えた。

 少しだけ休んだら、彼の顎を外して、舌を抜き取ろう。それが済んだら埋葬を済ませて、周辺の石を加工して墓を作ろう。それから肉の抗腐敗処理を終わらせて、また旅装束に着替えてから歩きはじめよう。たった一つの、私の役割のために。

 そんなことを考えながら、袋から取り出した手のひら大の散布装置で、血中の成分を分解する酵素を一帯に撒く。一日もすれば、ここで『遠藤アラヤ』が死んだ事を証明するのは、ちっぽけな墓と、わたしの記憶領域にある『遠藤アラヤ』とタグ付けされた情報のみとなる。

 わたしは、わたしが食べ尽くして情報とエネルギーになった『遠藤アラヤ』に、彼や彼の生まれ育った文化圏の人々のように神を見出すことはできない。けれど、人を弔うために人に生み出されたわたしだからこそ、できることもある。

「……わたしが、あなたに神様を見出してくれる誰かを、きっと見つけてあげる」

 朝の日差しが、くらいくらい夜を暴く。そうして、わたしと、この近辺で最後の人間だった『遠藤アラヤ』が旅をしていた、かつて日本と呼ばれていた白雪の荒野が陽の光に晒された。

 ある日突然、世界中に起きた感染症を始めとする『大災害』をきっかけに、人類の歴史は終わってしまった。けれどまだ、何もかも失ってしまったわけじゃない。

 それを、諦めきれずに彷徨う人たちに伝えるために。

 自分の生に意味があったと、彼ら自身が知るために。

 道半ばで倒れた彼らの血肉を取り込んで、その内に流れていた歌を語り継ぎながら、わたしは旅を続ける。ずっとずっと昔から、私を生み出した人類がそうしてきたように。

 ふいに吹いた東からの風が、雪に埋もれた大地へと、夜明けと共に草木の香りを連れてきた。胸の裡から湧き出てくる、命の予感。記録の参照と無節操な類推が生み出すその錯覚に従って、次に旅立つ方向を決めた。

 誰にも届くことがない歌を奏で続ける、恵みの星が昇る。

 その眩い光に向けて、わたしは先程『遠藤アラヤ』に向けたのと同じように手を合わせて、小さな祈りを捧げた。

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