#03 実業家の一日

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ライアンはIT企業のCEOとして忙しい日々を送っている。チャリティーは大事だが、出席する時間が取れず、秘書に代理出席するよう指示を出す。


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 ライアン・エヴァンスはシャワーを浴びていた。

 夜明けとともに起きて今日の会議資料に目を通し、そのあと周辺を1時間ほど走ってからシャワーを浴びる。水圧の強いシャワーを短時間、英気を養う貴重なひとときだ。

 大判の白いバスタオルを腰に巻き、最新式のシェーバーで手際よくひげを剃る。体も気分もさっばりしたところで、クローゼットから出したシャツとスーツを着た。シェーバーにこだわるのは、ひげ剃りに重きを置いているものの、余計な時間を使いたくないからだ。仕事用の服も、同じ理由で同じものを何着も仕立てている。最上等だが、派手さを抑えたシンプルで上品なデザインに特化し、朝の貴重な時間に組み合わせに悩まなくていいように整えてある。自分はおしゃれとは言えないと自覚しており、朝に選ぶのは、その日の気分に合わせたネクタイだけだ。

「失礼します」ノックの音が聞こえ、執事が入ってきた。「おはようございます。どうぞ、コーヒーだけでも召しあがってください」

 執事のミスター・ウィックフィールドはライアンの父の時代から働いている。最近はさすがに白髪が目だつようになったが、それでも体型は昔と変わらず、いまも背筋がぴんと伸びて、声にも張りがある。子どもの時から世話をしているためか、ライアンの体調を過剰に心配し、すぐに意見するところがうっとうしいとも言えるが、その穏やかな人柄と適確な判断力にこれまでずっと助けられてきた。

「ありがとう」

 ライアンは執事の差しだした盆からカップを取り、立ったままコーヒーを飲んだ。

「何度も申しあげていますが、朝のお支度は使用人がお手伝いしますよ。そうすれば、コーヒーもゆっくり座って召しあがれるのでは?」

「いや、王子じゃあるまいし、身の回りのことは自分でやりたい。すぐ着られるように揃えてもらっているだけで充分だ」

「そうはおっしゃいましても、全部ご自分でやるのは無理ですよ。人を頼ることも大切です」

 ウィックフィールドが言い張る。

「失礼します」

 戸口のほうでまた声が聞こえた。今度入ってきたのは秘書のフレッドだった。雇ってまだ2年ほどだが、ケンブリッジ大学キングスカレッジ卒の優秀な男で、すでにライアンの右腕として信頼のおける存在となっている。明るい性格だが皮肉っぽい男で、メガネの奥で青い瞳がいつも笑っているように見えるが、それが楽しいのか、人を小馬鹿にしているのか、いまひとつわからない。ときに人をくったような印象を与えるせいで、女性に敬遠され、浮いた話のひとつもない。

「お車のご用意ができました」

 フレッドが言った。

「わかった」

 ライアンはネクタイをきゅっと締め、入り口に向かって歩きだした。

「きょうは、社内の幹部と早朝会議、そのあとは人工知能による新たなデータ活用について、開発部門のエンジニアから報告があります」フレッドが隣で歩調を合わせて歩きながら、矢継ぎ早に報告する。「昼は情報処理サービスで提携を模索しているネクストシステムズ社CEOのミスター・ウェブと会食が予定されており、午後は来月に開催予定の新製品発表会の打ち合わせです。これがかなりかかりますね。そのあと時間があれば、明日の講演の原稿に目を通されて、夜は6時からレディ・ヘイデン主催のチャリティオークションに出席を――」

 ライアンは足を止めてフレッドを振り返った。

「忘れていた。それは行けそうにないな。昨晩遅く、ニューヨークのマッキントッシュ・ホールディングスのCEOから連絡が来て、緊急でテレビ会議をしたいと言ってきた。例の契約の件だ。ちょうどその時間にぶつかる」

「夜分にあえて連絡してきたなら、おそらく法的な手続きのことでしょう。では、チャリティのほうはいかがしますか?」

 フレッドが手に持っているiPadに指を走らせる。

「ヘイデン家の夫人が主催では、まったく欠席というわけにはいかないな。チャリティイベントに定期的に出席するのは、社会的責任を果たすという意味でも重要だ。顔を出すべきだが、マッキントッシュの件は後まわしにできない。すまないが、きみが代理で出席して、一番高いものを一番高く競り落としてくれないか。あとでオフィスに届くように手配してくれればいい」

 ライアンは深く考えなかった。いつものことだ。一番高く競り落としておけば文句は言われない。

「承知しました。テレビ会議のあとは……」

 ライアンがさらに予定を続けた。たいていは会食後も予定が入り、帰宅は夜中になる。

 屋敷の前にブリティッシュグリーンのジャガーがとまっていた。運転手が扉を開けて待っている。エヴァンス家の車は黒塗りのベントレーが定番だが、そこをあえてジャガーに乗っているのは、あの美しい流線を愛してやまないということもあるが、名家出身という特権的立場に加えて、若いうちに起業してみずからの才覚で財を成した立場で、尊大にならないようにという自戒も込めている。

 ベージュの革張りの後部座席に座り、ライアンは一瞬目をつぶった。本当は自分で運転したいが、会社までの短い距離も執務時間にカウントされ、フレッドが隣に座って会議内容などの詳細を確認する現状では致しかたない。小さくため息をつくと、ライアンは早朝会議の議題について考え始めた。

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