第25話 先生にはこれが見えますか
部屋が燃え尽きている。
フラフラとした足取りで家に戻り、母の小言に薄情にも適当に相槌を打ってから部屋に着いた時、真っ先に思ったのはそれだった。
燃え尽きた部屋と、あたしの部屋が、あたしの視界には二重写しになって見える。ドアもベッドも机も、触れることもできるし匂いもするし間違いなくここにあるけど、灰になってしまったそれらをも、あたしは同時に感じている。
あたしは本当に帰ってきたのだろうか。
母には、これが見えないのだろうか。母だけじゃなく、あたし以外にはこれは見えないのだろうか。あたしの世界は、ほとんど燃え尽きて灰になってしまった。そしてあの人も消えかかっている。
あの人はあたしに描いて欲しいと言った。でも描いて何になる?燃やされてしまえば、滅びてしまえば、ここに残るのは灰と、荒れ果てた大地だけじゃないか。いくら描いても、またあの人がいなくなるのを、黙って見ているだけになるじゃないか。また、あたしのせいだった。
また、あたしは守れなかった。何もかも無駄だったのだ。
先生はもういない。あの人にももう会えない。あたしはこれから先一体何をして生きていけばいいんだろうか。この燃え尽きたあたしの部屋に満ちる煙の匂いとたくさんの灰や燃え滓を、見ないふりをして生きていくことが果たしてできるのだろうか。
見ないふりをして生きていくあたしのことを、果たしてあたしは許せるのだろうか。
向こうには荒野が、これより遥かに広い荒野が広がっているに違いないのだ。あたしの拙い美術室の絵と、あの人を取り囲むようにして。
いつの日かあの美術室もなくなってしまうかもしれない。そうなったら彼女は一人だ。今度こそ永遠に。荒野に飲み込まれそうになりながら、これから先の茫漠とした時間をたった一人でやり過ごさなければならない。そんな目に彼女を合わせるくらいなら、初めから何もない方がマシだった。
描かない方がよかった。
そんなことは初めからわかっていた。描かない方がよかった。でも描かずにはいられなかったのだ。そして、一度描いてしまったからには、もう何もなかったことにはできない。
燃えてしまった部屋の残骸が、この部屋と二重写になって見えるのはそういうことだ。あたしはこれを無かったことにできない。
この部屋の絵は母が燃やしたと聞いた。なんとなくそうだろうなと思っていたあたしは、だけど何も言わなかった。燃やしたのは母だけれど、きっかけを作ったのはあたしだ。
煙の匂いと寝具の匂いが両方するベッドに横になり、あたしは眠りに落ちた。夢の中だったら、あるいはあの人に、会えるかもしれない。独りよがりの妄想だったとしても。
目を覚ましてベッドから起き上がり、部屋のドアを開けた時、階段まで続く短い廊下の床のフローリングが、ズタズタになって今にも崩れそうになっているのが見えた。
あ、と思った。
あたしは振り返って部屋の中を確認した。この荒野が広がっているんだろうか。そっと足を踏み出してみると、なんてことはない、崩れるような気配もない廊下も見えるのだ。
無かったことにはできないし、見ないふりもできない。
はっきりとそう思った。たとえあたしの気が狂って、おかしくなっているのだとしても、あたしはこれを見なかったことにできない。
逃げるように階段を降りたけれど、あたしはいずれ階段もそうなるだろうと思った。階段どころか、いつかは世界の全てがああいうふうに見えるだろう。
あたしは母の言葉も聞かずに、家を飛び出して学校に向かった。警察や大人たちに、失踪している間何をしていたのか根掘り葉掘り聞かれて、本当のことを答えたのだとしても、きっとあたしがおかしくなったと思うだけだ。そんなの無駄だ。何一つ意味がない。
あたしは美術室に駆け込んで、あたしのパースの狂った美術室の絵と、いつもの美術室が二重になっているのを見た。
「須藤さん?」
準備室の扉が開いて、石崎先生があたしを見ていた。
「先生にはこれが見えますか」
「これ、というのは」
「パースの狂った美術室です」
石崎先生は表情をひとつも変えずに、ごく当たり前のこととでもいうように、ああ、と言った。
「時々」
「時々、ですか」
「おかしいですよね」
おかしいのは誰なんだろうか。
「普通は絵を見て本物みたいだと思うでしょう、でも現実の景色を見ていて、絵みたいだと思うことがあるんですよ。須藤さんの絵はなんだか、俺の──、私の世界の認識みたいなものを、時々描きかえてしまうんですよ」
じゃあ、あたしはあたしの世界の認識を、描きかえてしまったのだろうか。
「あたしには、ずっと見えるんです。パースの狂った美術室と、燃えた部屋が」
「そうでしょうね」
「そうでしょうねって……」
「須藤さんが猫を抱いて準備室に入ってきた時、なんていうか、思ったより近いなと思ったんですよ。向こうとこっちには、そんなに違いがないのかもしれないって」
「そうですか」
あたしもおんなじことを思っていた。描いている間はあんなにも遠いと思っていたのに、一度出てきてみれば、こんなに近い。そしてこんなにはっきり見える。怖いくらいに。
「見えなくなったらいいと思うんですか?それが」
あたしは答えに窮した。見えなくなったらいいとは思えなかったけれど、こんなものが見えている状態で、どうやって平気で生きていけるのかわからなかった。
「須藤さんは、もう描きたくありませんか?」
「よくわかりません。でもこんなことになって、あの人ともう二度と会えなくなるくらいなら、初めから描かなければよかったと思うんです」
「会えますよ」
石崎先生は間髪入れずにそう言った。
「全く同じ絵は一枚も描けませんけど、あなたが会いたいと思って、今までとおんなじ緻密さで描けば、会えますよ」
「それは、あたしにおんなじことをもう一度やれと言っているんですか」
石崎先生はたしかに、あたしの絵に何かを書き換えられてしまったのかもしれない。もう賢明でも正しくもない。
「いいえ。今も見えるんでしょう、あなたが描いた美術室が。須藤さんはもう、ここにいても向こうにいても同じなんですよ。二重の世界を生きているんです」
こんな先生だっただろうかと、あたしは石崎先生の瞳を覗き込んだ。先生の瞳はいつも通りの美術室を映していたけれど、時折揺らいで、あたしの絵が見えるような気がした。
「ところで、結局あの人は誰なんですか」
先生の目尻が珍しく緩んでいた。こんな人ではなかったような気がする。でも多分みんなそうなんだろう。みんな、見せたことのない表情がたくさんあって、そういう何枚もの絵が重なって一人をかたちづくっているのだ。
あたしも先生とおんなじように微笑み、それから言った。
「石崎先生の知らない人です」
やっぱりそうですよね、と先生は笑った。
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