第26話 似ていませんね

やっぱり、全然似ていない。

線香の香りの中で手を合わせたあと、遺影を見ながらあたしはそう思っていた。

石崎先生に無理を言って、連れてきてもらったけれど、本当はもっと早くここに来るべきだったんだろう。死人が蘇って会いにくるなんてそんなことを、あたしは信じていないし、仮に会いにくるとしたって、それはあたしのもとに、じゃないだろう。

先生のお母さんは、遺影の中の先生によく似て穏やかに笑う人で、時々思い出したようにぽつりぽつりと先生の話をした。それはあたしの知る先生とは全く異なっていて、あたしは全然知らない人の話を聞いているような気がした。

あの時も今でさえも、あたしは先生のことを何一つ知らないんだ。

「そういえば、絵、見ていきますか?」

帰り際に、思い出したようにその人がそう言った。先生の絵は、いつもなんだか寂しかった。苦しそうに絵を描く理由が、あの頃わからなかったけれど、今見たら、何かわかるような気がした。

「って言っても、あの子はすぐに描いた絵を捨ててしまっていたから、完成したのが一枚と、描きかけのが一枚あるだけなんですけど」

ぜひ見たいです、といいかけるあたしより早く、石崎先生が見せてください、と言った。

じゃあ持ってきますねと言って彼女は部屋を出て行った。階段を登る足音が聞こえた。

「やっぱり、似ていませんね」

石崎先生がそう言った。

「だって、違う人ですもん」

「須藤さんの絵の中にいるあの人は、どんな人なんですか」

「どんな──」

あたしは目を細めた。どんな形容をしても、あたしは彼女を取りこぼしてしまうような気がした。

「すごく人間臭くて、あたしにも川上美咲先生にも似ていない人です」

でもそれもあたしが感じ取った一面に過ぎないのだろう。もっとたくさん描いていたら、あるいはもっとたくさんの面を、その総和を知ることができたのかもしれない。

「石崎先生は変だとは思わないんですか」

「何をですか」

「あたしが描いたのに、彼女は少しもあたしに似ていないんですよ。そしてあたしは自分が描いたものに──」

「私は、絵が単なる空想だとは思えないんですよ。現に私にはあの人が見えたし、美術室も見えた。他人と共有できるならそれは──」

もう一つの現実。先生が最後の言葉を言うより先に彼女が絵を持って部屋に戻ってきたから、あたしは最後までそれを聞くことがなかったけれど、先生が何を言うつもりだったかあたしにはわかった。


「お待たせしてごめんなさいね、こっちが完成してる絵」

差し出されたそれは、小さな中学の美術準備室の絵だった。制服を着た少女が絵の前で佇んでいる。まるで絵に魅入られているかのように。

「もしかして、これはあなた?」

言われてみれば、あたしに似ているような気もした。先生があたしにくれると約束してくれていた絵だろうか。

「わかりません」

あたしは曖昧に笑った。そうだよね、わかんないよねえとその人も笑った。片えくぼが見えた。

「それで、こっちが描きかけの方」

下書きが済んで着色が途中の油絵だった。画面の真ん中で髪の長い女性が椅子に座って机に頭を突っ伏している。それを後ろから見ている絵だった。机の上にたくさん積まれている書類と後ろ姿で、あたしはこれが準備室の机で、これが先生だとわかった。

背景に描かれているのは、美術準備室とは思えないほど荒れ果てた部屋だった。窓ガラスは割れていて、外は嵐で水滴がいくつも部屋に吹き込んで、壁の石膏は剥き出しでところどころ崩れている。先生の周りだけ時間が止まったまま、何百年も経過してしまったかのような絵だった。


その絵を見た時、あたしにはわかってしまった。

これはあたしの部屋と同じだ。いまやあたしの部屋を飛び出して、玄関先まで拡大してしまったあの景色と同じだ。先生にはこれが見えていたのだ。二重写しになった視界の中で、先生はずっとこれを見ていたのだ。その耐え難さを、あたしは一番よく知っている。

先生はこれに飲み込まれたのだ。あんまりにもしっかりと、これを見つめすぎたから。二重写しの世界を生きているうちに、気がついたらこれしか見えなくなってしまったのだ。

そうだとすれば、あたしはどうなるんだろう。このままここにいたら、あたしはいつの日か、先生と同じように──?

そうなったら、あたしは二度とあの人に会えない。

──描いてよ。

描いたら、あたしはあの荒野を遠ざけることができるのだろうか。わからなかった。わからないけれど、描くより他に仕方がないような気がした。

「そろそろ行きましょうか、須藤さん」

焦点の合わない瞳であたしは頷いた。その人にお礼を言って家を出て、帰りの車の中で石崎先生と何を話したか、ほとんど覚えていない。


家に帰って画用紙と鉛筆を手に取って、あたしは浮かび上がるその人の姿を無心でなぞっていた。あたしが描いているんだろうか。この人があたしに描かせているんだろうか?

「穂花?」

母親の声がして振り返った。あたしの手元を見るなり彼女は顔を歪ませた。

「ねえ、もうやめてよ」

あたしはそれには答えずに、何処かの美しい浜辺を、その背景にしようと考えていた。

「もっとちゃんと、現実を生きてよ」

「うん、そうする、だから絵を描いていてもいいでしょ」

「それが現実を生きてないって言ってるの」

「うん。だからあたしの絵を燃やしたんだもんね」

母は唇を噛んで、ほんの少し申し訳なさそうな顔をした。

「学校には行くし、急にいなくなったりもしない。でも絵はやめない」

「どうして」

「あたしが現実を生きるために必要だから」

逆かもしれないと思った。本当は絵を描くために、現実を生きているだけなのかもしれない。もう一度あの人に会うために、あの人がもう寂しくないように、現実を生きているだけなのかもしれない。

「もういい」

諦めたような顔をして母親は部屋を出て行った。

あたしは画用紙に向き直った。

燃やされてしまったたくさんの絵を、今度はもっと鮮やかに、もっと緻密に描き直そう。もう誰も燃やせないくらい美しい海辺をこの人にあげよう。

たとえもう二度と会えなかったとしても、あの人はあたしの描いた景色の中で息をしているのだ。

絵を描いている間だけは、燃えてしまった部屋が遠ざかるような気がした。先生がどうしてあんな顔をしても絵を描き続けていたのか、今では手にとるようにはっきりとわかる。

絵の具の匂いが、部屋の匂いも灰の匂いもかき消していく。それを肺いっぱいに満たしているとき、あたしは恍惚という言葉の意味がはっきりわかる。

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美術室から外へ出て トワイライト水無 @twilight_mizunashi

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