第24話 持っていてくれませんか
赤い絵の具がなくなった、というのは、あのとき咄嗟に思いついた出まかせだった。私にはあれが見えていた。穂花ちゃんにも先生にも、あれが見えているようだった。でもなんていうか、先生には隠しておきたかった。だって、ことを大きくされて穂花ちゃんの絵がこれから見られなくなったら嫌だから。
まあそんな心配は杞憂だったけれど。
穂花ちゃんの美術室の絵が、私は一番好きだ。
私は絵を描いていると、特に人物を描いている時に、目が合った、と思うことがある。単なる点と線の集合体が、明確にはっきりと像を結んで、私の目の前に迫ってくる。そういう瞬間が、この世で一番好きだ。絵を完成させるのは紙と画材ではなく、人間の脳味噌なんだと思う。
でも大抵は妙な反応をされるから、だから私は、こういう話はしないようにしている。変な子だと思われるから。
穂花ちゃんの絵に描かれた女の人は、いつも目が合う。背景がどんなでも、穂花ちゃんが絵を描いている途中でも。それはきっと、穂花ちゃんがあの人のことをたくさんたくさん描いたからなんだろうと、私は思っていた。
そしてあの美術室の絵は、女の人の絵とは対照的に、像を結ぶ瞬間とそうでない瞬間を、行ったり来たりする。それは拙さゆえかもしれないけれど、私はそうやって何度も何度も絵の具の塊と美術室を行ったり来たりするのを見て、たまらない気持ちになる。
だから穂花ちゃんがあの絵を捨てたと聞いた時、ものすごくがっかりした。
だけど見つけた。見つけたと言うか、必死になって探し出したという表現の方が正しいのかもしれない。校内にあるゴミの集積場に、無造作に捨ててあった。全然、絵に執着のない子なんだなと思いながら、見るとそこに女の人はいなかった。
気味が悪いと思った。
気味が悪いと思ったから、捨てられなかった。
あの時もそうだった。私にはすぐにあれが穂花ちゃんの描いた絵だとわかった。だって何度も見たから。絵と現実がごちゃごちゃになるなんて、気味が悪いと思った。でもなんだか、そうなるのもいいような気がした。穂花ちゃんが何をしているのかは知らないし、あの女の人のことも知らないけれど、パースが狂っても美術室が美術室のままだったらいいなと思った。
そんなことを考えて、私が穂花ちゃんの絵に取り憑かれているうちに、穂花ちゃんは忽然と姿を消した。
だけど私は、本当にすぐ近くに穂花ちゃんがいるような気がした。何かに巻き込まれたとか自殺したとか精神を病んだとか、大人はいろんな推測を立てていたけれど、そのどれもが的外れに思えて仕方がなかった。
私には、認識の中と外を行ったり来たりするこの美術室の向こうに、穂花ちゃんがいるように思えてならなかった。だから別に、何も心配していなかった。戻りたい時に、戻ってくるだろうと思った。猫みたいに。
大人たちは私が心配そうに振る舞うことを期待しているようだったから、心配ですねと言ってみたり眉を顰めてみたりしていたけれど、その実私は何も心配していなかった。
だって穂花ちゃんはここにいるもの。
深刻そうな顔で美術室に向かっていく石崎先生と、穂花ちゃんの担任の先生と、もう一人の女の人と廊下ですれ違った時、私は咄嗟に、なにかあるなと思った。ばれないようにあとをつけて、そうして悍ましくも穂花ちゃんの絵が、というか穂花ちゃんが蹂躙されるのを見た。どうして大人はあんなに的外れなことしかできないんだろう。
私は穂花ちゃんの絵を、自分の家の、鍵のかかる引き出しの一番上にしまっている。炎に焼かれる無数の色彩を見た私は、咄嗟に走って家に戻った。
穂花ちゃんの絵には、なんだかわからないけれど妙な魅力があって、ずっと手元に置いておきたくなるような感じがする。だからだと思う、だから私は咄嗟に不安になった。他の絵が燃やされたことで、穂花ちゃんの絵に何か起こってしまわないかとも思っていた。
引き出しの鍵を開けて、私はその絵を見た。穂花ちゃんは猫を抱いたまま、パースの狂った美術室にいる。その穂花ちゃんに寄り添うようにあの女の人が、今にも消えそうないでたちで笑っている。やっぱりここにいたんだなと思った。この女の人と穂花ちゃんがどういう関係なのか、私は少しも知らないけど、絵の具の塊と美術室を行ったり来たりするこの背景と、その時目にした女の人はすごくよく似ていた。
人間と絵の具の塊の間を行ったり来たりするその女の人は、多分あまり元気ではないんだろう。もう私と目を合わせてくれない。
私は、この絵を穂花ちゃんに返さなければいけないとその時思った。この絵はもとより穂花ちゃんのための、あるいはこの人のための絵なのだ。コンクールのため、文化祭のため、少しの間どこかに飾られて自分の手元に戻ってくる頃には、私は私の過去の絵なんてもうアーカイブくらいにしか思っていないけれど、穂花ちゃんのこれはたぶん、全然違う何かなんだ。穂花ちゃん自身が初めのうち、それに気がついていなかっただけなんだ。
そろそろ戻ってくるだろうと思った。戻ってきたら、この絵を返そう。でもその前に石崎先生に見せてあげよう。あんなに絶望している先生は初めて見たから。
私はその足で学校まで引き返して、美術準備室のドアを開けた。絶望した面持ちの先生が顔を上げて私を見た。私が絵を差し出すと不思議そうな顔をしていたけれど、目には安堵と興奮が滲んでいた。
「どうしてあなたがこれを持っているんですか」
「穂花ちゃんが捨てたので、拾ったんです」
先生はそうですか、とだけ答えて、それ以上は何も言わなかった。私には、何も言わなくても、先生も同じなんだとわかった。だから穂花ちゃんの絵を、この人も引き出しに鍵をかけてとっておいたんだろう。
「でもこの絵は、穂花ちゃんに返そうと思うんですよ」
「そうですね。それがいいと思います」
その時背後でガチャリとドアが開く音がして、穂花ちゃんが準備室に入ってきた。いなくなる前となんら変わらない、綺麗に切り揃えられた前髪をして、猫を抱いていた。
「お帰りなさい、須藤さん」
穂花ちゃんは猫を抱いたまま、口からうすく吐息を漏らしていた。
「これ、返すね。私がずっと持ってたの。ごめんね」
美術室には彼女しかいなくなっている。穂花ちゃんは、ああ、それ、と言葉を漏らして、また黙り込んだ。何かを考え込んでいるようだった。
「持っていてくれませんか」
「え?」
自分の声帯が、自分が思っていた以上に高く鳴ったのがわかった。私はこの絵がよほど好きだったみたいだ。
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