第23話 拾ったんです
やめてくれ。
須藤の絵が目の前で灰になっていくのを俺はただずっと見ながら、ずっと頭の中でそれだけを唱えていた。やめてくれ。これ以上奪わないでくれ。それは須藤穂花からなのか、俺からなのかわからない。俺はいつの間にか須藤の絵にこんなにも執着していたんだと、その時気がつく。三上は正しかったのかもしれない。
炎が絵を、まるで喰らうかのように包み込んでいき、後には燃え滓だけが残る。もうそこにはなんの色彩もない。なんの色彩も無くなってしまった遺灰から、けれども俺は目を逸らすことができない。
俺は、二人に反論できずに、須藤の大切な絵を燃やすことを暗に了解してしまった。
そしてやはり、それは間違っていたんだと思う。こんなことをしても、須藤は戻って来ないだろう。それどころか、須藤はこの絵の中で、息絶えてしまうのではないだろうか?
二人に促されて引き出しを開けた時、咄嗟にその中の一枚を隠そうと試みた。けれどその努力はむなしく見破られてしまった。絶望しながら三上に渡した絵には路地裏が描かれていた。これは須藤が、背景を描き始めてからまだ日が浅い頃に描いた絵だ。初めて見た時は確かあの女性がここで猫を撫でていた。
路地裏の陰気な雰囲気と、和やかなその人の表情に妙なコントラストがあった、と俺は懐古する。でももうその絵も燃えてしまった。
須藤は今、どこにいるのだろうか。
「何も、起こりませんね」
灰になってしまった絵を見つめてしばし黙り込んでいた三上が、不意に口を開いてそう言った。
「あなた方がしたのはただの破壊行為ですよ」
妙に強い言葉が口をついて出た。しまったと思ったけれど、もうどうにでもなればいいとも思っていた。どのように他人から軽蔑されようとも、須藤の絵が二度と見られなくなってしまったなら、もうどうでもいい。その思考は、まるで絵の中のあの女性に取り憑かれていた時の須藤のようだと思った。
「石崎先生、本当に絵はこれで全部なんですよね?」
三上は完全に俺のことを軽蔑しているだろう。理解できないとさえ思っているかもしれない。
「だから、全部ですよ。もう、出ていってもらえませんか」
当てつけのようなため息をついてから、三上は須藤の母親にいきましょうか、と声をかけて立ち上がった。俺は教師失格かもしれない。教師どころか、人間も。三上はこれからも須藤を探すつもりなのだろう。でも見つかるはずがない。須藤はあそこにいたのだ。あの絵を焼いたなら、須藤もあの女性も、もうあの灰と一緒になっているはずだ。なぜ奴らにはそれがわからないんだろう。殺人の片棒を担いだようなものだ。でも二人はただ絵を焼いただけだと思うのだろう。
バタンと美術室のドアが閉まる音を聞いてから、俺は必死に頭の中で須藤の絵を思い出そうとした。だけど無駄だった。同じ絵など描けるはずもない。
その時準備室のドアが控えめにコツコツと叩かれた。
***
流れ込んでくる。彼女がちかちか揺れて見えて、手の感覚が存在したりしなかったりを繰り返しながら、あたしは目の前の彼女が流れ込んでくるのがわかる。そうだ、描き始めた頃は確かにあたしの一部だったんだ。
やっぱりだめだな。これはきっと罰だろう。だって私は人間じゃないし、私欲にかられてあんたを世界から奪っておいて、なんの報復もなしにこのままずっと一緒に暮らせるなんて、そんなはずないんだ。初めからそんなはずなかった。そんなはずなかったけど、でも一緒にいたかったんだよ、穂花さん。私のわがままのせいでこうなった。
でも、選んだのはあたしだ。
きっと私は消えるだろうし、今だって、どんどん何かを忘れていってしまうのが、どんどん鮮明じゃなくなっていくのが、自分でもよくわかる。私はきっと灰にすらならないけれど、だけど私は、何もかもなかったことにするのだけは嫌なんだよね。嫌っていうか、私が何もかも忘れても絵が全て灰になっても、何もなかったことにはならない。ならないんだよ、穂花さん。あんたがいる限りは。
もう全部燃えたはずなのに、どうしてかろうじてあたしも彼女も存在できているんだろう。何か──。何かがあるような気がする。炎で囲まれたあたしの視界の、認識の外側に、何かが。
よくわかったね。そう、あの子に悪いと思って、嘘をついてたんだ、ごめんね。上手くいけばそこから外へ出られるよ。
あたしはじっと目を凝らす。あるのかもわからない地平に向かって足を踏み出すと、遠くに三毛猫が見える。ああ、そうだった。あの猫、死んだのでも、保健所に連れて行かれたのでもない、よかった。でもいったいどこにいるのだろう。もう一歩、もう二歩足を踏み出して、そう、そうなんだよ穂花さん、ごめんね。チョークの匂いと絵の具の匂いと、古い紙の匂いと木の匂いがする。でもどうして?あたしはあのとき、棄てたはずだ。それまでのたくさんの絵と同じように。ねえ、私のことは忘れないでくれればもういいから。どうしてそんなことを言うんですか、やっと二人でいられる場所が見つかったのに。だってもう無理だから。本当はわかってるんでしょう?それにここ、私はとっても好きだけど、居心地がとてもいいってわけじゃないんだ。
穂花さん。私はずっとここにいるから、穂花さんはここから外へ出て、描いてよ。
それを最後に、彼女の声は聞こえなくなった。あたしは人懐っこそうにこちらに近寄ってきたその猫を抱えて、深呼吸をする。飽きるほど嗅いだ匂いがして、聞き慣れた声が聞こえた。
「どうしてあなたが、それを持ってるんですか」
「穂花ちゃんが捨てたので、拾ったんです」
ああ、中川先輩か、とあたしは少しだけ安心する。どこかの知らない誰かじゃなくてよかった。美術準備室のドアは黒板から向かって左手にある。あたしは猫を抱いたまま、パースの狂った準備室のドアノブを回した。
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