第22話 私のせいだね
石崎先生は、たぶんあたしの絵を燃やさないだろう。
どうしてかはわからないけれどあたしにはそんな確信があった。もし燃やされるとしたら、それとは別の、何か他の理由か、別の誰かの手によってだろうと思う。
「穂花さん、ごめんね」
「何がですか」
その人は一度キュッと唇を結んでから、再び口を開いた。
「本当は、帰れないって嘘なんだよ。嘘っていうか、嘘だったんだけど」
「知ってるんですか、何か、ここの、仕組みみたいなものを」
「あの部屋の絵は、向こうの世界の景色だったでしょ。寸分の狂いもない。だから繋がるんだよ、向こうと」
それがどうしてかは私も知らないんだけどね、と彼女は申し訳なさそうに言った。
「でも帰したくなかったから、知らないって言ったんだ。そのせいであの絵が燃やされたなら……」
本当にもう戻る方法がなくなった、という目で彼女はあたしを見ていた。
「別に、決めたのはあたしですよ。帰ってもあなたはいないんでしょ」
彼女は複雑そうに頷いただけだった。あたしに申し訳ないと思っているんだろうか?今更戻る手立てが見つかったところで、彼女にもう二度と会えないなら、死んでるのと同じなのに。
「初めて会った時のこと、覚えてる?」
「覚えてますよ」
先生に会いたいあたしが見た、白昼夢か何かかもしれないと思っていた。夢かもしれないと思いながら、それでも絵を描くことをやめられなかった。
「私は、あの時に本当の意味で生まれたんじゃないかと思うんだ。それまではずっとどこかよくわからないところで眠ったり起きたりを繰り返していて、あのとき、あの秋の日に産み落とされたんじゃないかな。それで、それから、ずっとここにいるんだと思う。あんたのためだけに。穂花さんの存在と、穂花さんが描いてくれた絵だけが、私を私にしているんだと思うの」
半分自分に言い聞かせているみたいな口調で彼女は言った。遠くを見ていた。
「だから、これは憶測だけど、私はその、石崎だっけ?とかいう美術教師が持ってるあんたの絵が全て燃やされたら、多分消えて無くなくなるんだろうと思うんだ」
処刑を待つ罪人のような暗い瞳だと思った。
「その時はあたしも一緒ですよ」
間髪入れずにあたしは言った。真っ暗い瞳に僅かに光が宿って、また消えた。
「それは、好きだから?」
表情の読み取れない声で彼女があたしに尋ねた。
「そうです」
「他に選択肢があったとしても、あんたはそう思うの?」
「他の選択肢?」
「川上美咲が、もし生きていたら?あるいはあの女じゃなくても、もっと他の、間違いなく血が通っていて、向こう側の世界の戸籍のある人間が、あんたのことを大切だと思っていたとしても、あんたは私と死んでくれるの?」
「はい」
少しの迷いもなかった。でもどうして少しの迷いもないのだろう。向こうの世界の出来事が、まるで長い長い夢だった気がする。あたしは紛れもなくここにいて、この人と一緒に息をしている。たしかなことはそれだけだった。
彼女はそう、とだけ相槌を打って、それから黙り込んだ。
石崎先生が、あたしの絵を大切に取っておいてくれるなら、これから先ずっと、絵が朽ち果てるまではここにいられるだろう。
もう誰もあたしの好きな人を傷つけたりできないし、もし彼女が傷つくならそれはあたしがつけた傷だ。
そしてあたしのことを傷つけられるのもこの人だけなんだ。
そう思った瞬間、あたしは自分の心がびたびたに満ちていくのを感じた。羊水のなかを漂っているかのような心地だった。充分だと思った。足りないことなんてなにひとつない。
彼女が何かを察知したように顔を上げたその時、また海が歪んだ。
潮の匂いは絵の具と、紙の焼ける匂いにすり替わった。誰かが、あたしの世界を壊している。
──石崎先生じゃないなら、誰なんだろう。
あたしはコマ送りのようにつぎはぎに動く視界のなかで、呑気にもそんなことを考えていた。あたしをここから出すために、ここを燃やすなんてずいぶん強引な気がする。勝手にいなくなったあたしが悪いんだろうか。どうして勝手にいなくなるのがダメで、勝手にあたしを炙り出そうとするのはいいんだろう。
コマ送りになった彼女が、コマ送りのまま、あたしの手を掴むのが見えた。
「逃げよう、穂花さん」
かろうじて聞き取れた言葉にあたしは頷いて、駅の方へ一緒に走った。一枚ずつ丁寧に燃やすなんてことしていないだろうから、じきに全て燃えてしまうだろう。でももしかしたら、石崎先生が一枚くらい隠してくれるかもしれない。どういうわけかあの美術教師を信じている。あの人は絵が好きだから、絵が燃やされるのを黙って見ているなんて、耐えられるはずがない。あたしは今でも、絵なんて少しも好きじゃないけれど、石崎先生はずっと絵が好きだと思うから。
絵の具の匂いと紙の焼ける匂いから遠ざかるように、どんどん走る。海はもうないし、駅も電車もそのうちなくなってしまう。
あたしのわずか前を、あたしの手を取って走るこの人はどうなるんだろうか。景色がひとつひとつなくなっていくたびに、彼女の塗りが粗くなっているような気がする。コマ送りになった視界の中で、彼女の体も髪も手の感触も、全てが変わっていってしまっているような気がする。どんなに注意深く描いても、全く同じ絵を描くことは出来ない。彼女はあたしがたくさん描いた絵の総和なんだと、その時悟った。一枚一枚の絵の中のそれぞれの彼女は、そのどれも紛れもなく彼女なのに、全て燃やされて、消えていってしまう。海にいる彼女、駅のホームで電車を待つ彼女、電車に乗る彼女、花畑にいる彼女、喫茶店にいる彼女、その全てが燃えて灰になってしまう。
変わらず前を走る彼女の後ろ姿を見ながら、あたしのせいだと思う。あたしのせいだ。あたしが連れていってほしいなんて言わなければ、大人たちはあたしの絵を燃やそうなんて愚かなことを考えなかった。ずっと秘密にしておくべきだった。そうすれば少なくとも、こんなふうに彼女の断片が消えていくところを見なくて済んだのに。
強く握ったら消えてしまいそうな彼女の手をそっと握り返して、右手で涙を拭った。何もかもあたしのせいだ。一緒に死ぬと言った気持ちに嘘はなかったけれど、彼女を構成するものがどんどん減っていくのを見ていると、波のように後悔が押し寄せてくる。そもそも他人に話すべきではなかったし、向こうの世界の景色を描くべきではなかった。会えなくてもいいからこの人のことを秘匿しておくべきだったのだ。あの猫を招いてしまったと確信した時に、あたしはもっと……。
──猫?
そういえば、あの猫はどこにいるんだろう。初めは路地裏にいたけれど、それから姿を見ていない。あたしはどうなってもいいけれど、猫は帰してあげなければいけない。この燃やされる景色の中から、無事逃げられているだろうか。
考えながら走り続けていると、不意に彼女が振り返って、申し訳なさそうに目を細めるのが見えた。彼女の中から、一体どれだけの彼女が、景色が失われてしまっただろう。それがどんな心地のすることなのか、あたしは推し量ることは出来ても、本当の意味で理解することは出来ないのだ。
「私のせいだね、ごめんね」
あたしは首を振る。この人の表皮よりももっと深い部分に、核のようなものに触れて、あたしがどれだけこの人でいっぱいになってしまったか、伝えられたらいいのに。
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