第21話 本気で言ってるんですか

「燃やした?」

壁紙がビリビリに破かれて石膏が剥き出しになった部屋で、俺は敬語を使うのも忘れていた。

「ええ。だって、気味が悪いじゃないですか」

須藤穂花の母親に会ったのは初めてだった。感情がなさそうにつらつらと喋る時の表情が、彼女によく似ていると俺は思った。

「ここにあったはずの、部屋の絵をですか」

同行してきた三上は冷静に物事を整理しようと努めている様子だった。この部屋で一番取り乱しているのは間違いなく自分だと思った。

「ええ。あの女の人がいたんですよ、我が物顔で、絵の、あの子の椅子に座って。自分の部屋でもないのに。でも穂花はいなかった、だから燃やしました。それから部屋にあったあの子の絵も、全部」

あの女の人、と口にする時、そこに本当に僅かに、忌々しいとでも言いたげなニュアンスが滲んでいる感じがした。感情がないように見えるのは、子供が帰ってこないショックからなのか、あるいは元からなのかわからなかった。

燃やした?須藤穂花の絵を?

いけない、と俺は思った。教え子が戻ってこないこと、その唯一の頼みの綱だったかもしれないあの部屋の絵が燃やされてしまったことに対して、俺はもっときちんと動揺して、心配になるべきだ。俺は教師なのだから。そう思っているのに、目下、俺の一番の動揺は須藤の絵がみられなかったことだった。部屋の中の須藤とその女性は、一体どんな顔をしていたのだろうか。

「どんな絵でしたか、それ」

俺はきれぎれになりながらそれだけ尋ねた。自分で思っていた以上に縋るような顔をしていたのかもしれない。三上が驚きと呆れの混ざった眼差しをこちらに向けているのを感じた。こんなのは教師として間違っていると、俺だってわかっている。わかっているつもりだ。

「どんな?別に、この部屋の絵ですよ。そっくりな。あとは川とか線路とか、とにかくいろんな風景」

「それで、気味が悪くて燃やしたんですか。穂花さんが描いた絵を」

責めるような口調になってしまったのに気がついていながら、それを誤魔化すこともできなかった。俺が須藤の絵を引き出しの中にしまっておいたのは、単にあの生徒が自分の絵を捨てないようにするためだったのだろうか。

「それが、何ですか?」

「燃やしたら、戻ってきたときに穂花さんが悲しむとは思わなかったんですか」

母親の目に、炎が宿るのが見えた。それは須藤穂花がたびたび俺の前で見せたあの頑なな表情によく似ていた。この顔で、この眼差しで、須藤は俺が何を言ってもひとつも取り合わずに、遠くへ行ってしまった。

「帰ってきたら、二度とあの子に絵を描かせたりなんかしませんよ」

俺が止められなかった須藤とおんなじ表情で、彼女は言った。

「あの子、もともと絵なんて描くような子じゃなかったのに、ある時から取り憑かれたように絵ばっかり描くようになって、高校に入ってからは特にひどかった。止めてあげればよかった。止めてあげられなかったから、もう戻れないようなところまで行ってしまったんだと思うんです。だから、穂花が戻ってこないのは私のせいなんです」

思い込みが激しいところまで、彼女にそっくりだ。止めてもらえなかったせいなんて、彼女は思っていないだろう。きっと誰に止められても、あの生徒は絵を描き続けたはずだ。母親だろうと顧問だろうと担任であろうと、あの女性以外なら同じことだっただろう。

「提案なんですが、いっそのこと全部燃やしてみるのはどうですか」

三上がそう言うのが聞こえた。俺は呆気に取られて固まってしまった。聞き間違いだろうか。

燃やす?須藤穂花の絵を?

「須藤さんとあの女性は絵から絵を移動してるでしょう?僕も見ましたから確かですよ。おそらく出入り口であったであろう部屋の絵がもうないなら、全部壊して彼女を引っ張り出すしかないんじゃないですか?」

「やっぱり、あの子は絵の中にいるんですね」

初めからわかっていたとでもいうように、彼女は言った。

「ちょっと、待ってくださいよ」

俺は必死になって頭を働かせた。須藤の絵を燃やすなんて、そんなことは絶対にさせたくない。

「石崎先生、もう手段は選んでられないですよ」

「でも絵を燃やしたら、絵ごと彼女が消えてしまう可能性だってあるでしょう。そうなったら永久に……」

「今のままでも永久に、でしょ」

「話が違うじゃないですか、まず須藤さんに聞いてみるのが筋って、三上先生はそうおっしゃってましたよね。須藤さんが幸せだったら、私は彼女を連れ戻すのは……」

「幸せ?」

またあの表情だと俺は思った。須藤の母親の声は静かに部屋の中に響く。

「本気で言ってるんですか、それ」

じんわりと軽蔑の念が滲んだ声色で彼女がそう言うのが聞こえた。俺は、間違っているんだろうか。だって絵の中の須藤は、俺がみたことないくらい瑞々しい表情をしているように見えたのだ。それを取り上げてまで連れ戻すのが、本当に正しいのだろうか。

「あんなところに閉じこもって、どこの誰かもわからない女と一緒に夢を見続けて死んでいくのが、本当に幸せだと思ってるんですか、石崎先生は」

あれは夢なのだろうか。仮に夢なのだとしたら、須藤は夢の中の方がよほど生気に溢れているように見える。

「学校の先生って、もっとまともかと思ってました」

どうしたら、俺のこの逡巡をわかってもらえるのだろう。わかってもらえると思うことがそもそも間違っているんだろうか。もしかしたら須藤も俺と話している時、同じ気持ちだったのかもしれない。だけどどうしても、須藤の絵を燃やすのだけはやめさせたかった。どうにかして反駁しなければと唇を噛んだその時だった。

「石崎先生は」

三上は言葉を切って、短く息を吸ってから言った。

「須藤さんより須藤さんの絵の方が大事なだけですよね」

さっきから薄々考えていたことを投げかけられて、俺は俯いた。やはりそうなのだろうか。須藤より須藤の絵の方が大事なんだろうか、俺は?以前なら違うと言い切れたような気がするのに、もう分からなくなっている。そもそも彼女自身と、彼女の絵を切り離して考えたことがあっただろうか。

「戻りましょうか。美術室に。須藤さんの絵、引き出しに大事にしまって、鍵をかけてましたもんね、石崎先生」

三上の言葉が頭に反響して、俺はその場から一歩も動くことができない。


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