第17話 信じるって約束してください
「最後に須藤さんを見かけたのはあなたでしょう」
須藤穂花が失踪したと聞かされ、俺は途方に暮れていた。
「私は、須藤さんが家に帰っていくのを見た、だけですが……」
「そこが引っかかるんですよね、なんで家まで行ったんですか?」
「なんというか、様子がおかしかったので」
「どんなふうに?」
「何かを追いかけているか、あるいは何かに追われているような様子でした」
自分が、何か重要なことを忘れているような気がする。
「それで、家に着いた後、須藤さんと話しましたか?」
「いいえ。女の人に呼び止められて、疲れて眠ってるから起こさないでくれって言われて、だから帰りました」
結局あの人は誰だったんだろう。
「女の人、ですか?」
「ええ。二十代半ばくらいかなぁ、若そうでした」
「その人、名前は?」
「聞いてません。教えてもらえなかったので」
須藤の担任の数学教師は、顔を顰めてみせた。
「……須藤さんの部屋には、入っていないんですよね」
「ええ。その女の人に帰されたので」
「電話があって、保護者の方から。須藤さんが帰ってこないって連絡とは別に、須藤さんの部屋の壁に、須藤さんと女の人が描いてあった、と。」
「描いてあった?」
「その二人の絵が、今はないらしいんですよ。馬鹿げてますよね」
須藤が自分の絵を描くなんて珍しいな、と思っていると、数学教師の三上は訝しげに顔を覗き込んできた。
「おかしいと思わないんですか?大方、子供が帰ってこない不安で幻覚か何かを見たんだろうと、僕は思っているんですが」
「須藤さんだけが見えたなら、幻覚ってことでもいいと思いますが、その女の人が気になりますね」
三上は右手でこめかみを押さえて黙り込んだ。苦労が多いせいなのか、彼は歳のわりに老けて見える。
「……石崎先生が須藤の家で会ったっていうその女性に、須藤が連れ去られた、とかですかね」
そんなふうには見えなかった、と俺はあの日の記憶をほじくり返しながら思う。彼女が須藤を呼ぶとき、ひどく優しい、気を許し切った声をしていたのを覚えている。まるでずっと一緒に生活してきたみたいに自然に須藤を呼んでいた。
「誰なんでしょうねその女。本当に心当たりはないんですか?」
「顔を見たことはあるような気がしたんですが、それ以上はなんとも…」
俺は必死で記憶をたぐり寄せようとしたが、どうしても思い出せなかった。俺は須藤を引き止めなければいけなかったような気がする。引き止める?それじゃまるで須藤が、自分の意思で失踪したみたいじゃないか。俺は何を考えているんだろう。
「石崎先生、なんか落ち着いてますね」
「そう見えるだけですよ」
「須藤さんは、美術部だとどんな感じですか?」
「どんな……」
「なんか、教室だと静かで、掴みどころがないんですよね。極端に暗いってわけでもなくて、誰とでも話すけど、その誰にも心を許してないように見える、っていうか。真面目ないい生徒ではあるんですが」
「私も、彼女のことはよくわかりませんが、須藤さんの絵はとてもいいですよ」
「…そうですか。僕は芸術はからっきしなのでよくわかりませんが」
「見たことありませんか?ほら、これとか」
俺は引き出しを開けて、一番上にあった誰もいない喫茶店の絵を差し出す。飲みかけのアイスコーヒーのカップがテーブルの上で光っている。
「さっきまで誰かがそこにいたみたいな息遣いがあるでしょう」
「はあ。まあ、上手いってことはわかりますよ、僕にも」
俺は三上の言葉を右耳から左耳へと流しながら、その絵を凝視する。どうして今、須藤の絵がこんなに気にかかるのだろう。
「…これって、実際にある景色を描いているんですか?」
三上の質問に、俺は顔を上げた。
「いいえ?私があげた資料を参考にはしていたみたいですが、実際にある場所を書いたのは、一番最初に背景を描いた絵だけですよ、たしかこの美術室でした。須藤は気に入らなかったみたいで、勝手に捨てちゃったので、ここにはないんですが」
そう答える自分の声を聞きながら、俺は疑問を挟んでいた。背景?須藤の絵はそもそもが風景画ばかりだったじゃないか。
「そうですか。もし現実にある景色だったら、その場所に須藤さんがいたりするのかも、とか思ったんですが、ばかげてますよね、こんな発想」
「……あながち、間違いではないかもしれません」
「はあ。でも全部、どこか特定の場所を描いたってわけじゃないんでしょう?」
「それはそうですけど、でも行ってみたい場所を絵に描くのって道理じゃないですか?あるいは行ったことがあって、思い出深い場所とか」
そういえば須藤が次に描いたのは海辺だったな、と俺は思い出す。案外どこかの海辺にいたりするのかもしれない。俺はそんなことを考えながら、引き出しの中に入れていたたくさんの須藤の絵を机の上に置く。一枚一枚確認する俺の指先を、三上は呆れたように見つめていた。
最後の一枚の絵を拾い上げた時、俺の手は止まった。
海辺には須藤と、あの女性が立っている。にっこり笑うその女性とは対照的に、須藤は泣き出しそうにも笑い出しそうにも見える複雑な表情をしている。
──描いてくれませんか、あたしを、この人の隣に。
絶句したまま固まる俺の手元を覗き込んだ三上が、その絵がどうかしたんですか、と言うのが聞こえた。
「須藤さんははじめ、この女の人しか描かなかったんです。だから背景を描いたらどうかと、私が提案した」
「はい?」
背景だけしかない無数の絵を一瞥した三上が、訝しげに俺を見た。どうして俺は今まで忘れていたんだろうか。あの女性があまりにも自然に、俺の目の前にいたからだろうか。
「須藤さんのこと、連れ戻すべきだと思いますか」
「何言ってるんですか、そりゃそうでしょ」
「彼女はそれを望んでいないかもしれないのに?」
どうでもいいと言い切って、こちら側を捨てて出て行ってしまったなら、もう放っておくべきなのかもしれない。いずれにせよ俺は止められなかったのだ。
「自分の意思でいなくなったって言いたいんですか?だったら尚更、話を聞く必要があるでしょう。彼女はまだ高校生ですよ」
三上の意見は、教育者として非常に模範的な意見であるような気がした。俺だってそう思っていたはずだった、だから絵を描くのをやめさせようとした。それが間違いだったんだろうか。俺はどうするべきだったんだろう。
「私が今からする話を、信じて欲しいんですが」
「なんですか?」
「……須藤さんは、ここにいるんですよ」
「は?」
俺は三上に持っていた海岸の絵を差し出した。この男は信じるだろうか?実際に目にしたら、信じるしかなくなるだろうけど。
「石崎先生までそんなことおっしゃるんですか……?」
「馬鹿げてますよね、私もずっとそう思っていたんですよ。馬鹿げているから、見なかったふりをしていれば、なかったことにできるんじゃないかと思っていました。でもそんなことにはならなかった」
俺は須藤を連れ戻すべきかどうか、尚も迷っている。大体、連れ戻すことができるのかどうかすらわからない。三上は全て知った後で、なんと言うだろうか。それでも連れ戻すべきだと言うだろうか。
「私が知っていることは全て話します。話すので、信じるって約束してください」
結局この女性は誰なんだろう。須藤がこの人に向ける眼差しが、以前とは全く異なっているように見えて気がかりだった。
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