第16話 なんででしょうね
その人の話は、あたしの想像の範疇を超えていた。なぜだろうか。この人はあたしが描いたはずなのに。
あたしたちは相変わらず、風がばさばさと吹き付ける海岸にいる。
何も話さないその人の体と背景のちょうど間のあたりに目の焦点を合わせながら、あたしは考えを巡らせている。自分の感情が、あるいは自分自身が本物かどうかを疑いながらたった一人でここにいるのは、いったいどんな心地がするだろう。
「どうしたの、黙り込んじゃって」
その人は、軽蔑とも慈愛とも取れるような眼差しであたしを見る。やっぱり、こんな表情は描いていない、とあたしは思う。絵から絵へ、何度も何度も移動する彼女の輪郭を何度もなぞり直したけれど、こんな表情は描いていない。先生はこんな顔はしていなかったから。でもじゃあ、どんな顔をしていたんだっけ。
「……駅に」
あたしは目を逸らして、遠くを指差す。
「駅から電車に乗ったら、どこへ行けますか」
えき、と口にした瞬間に、あたしの指の先の遠くに駅が現れる。いや、初めからあっただろうか。あったような気もする。
「知らないけど、向こう側へは行かれないよ」
「別に、帰れるなんて思ってませんよ」
「でも帰りたいんでしょ」
「別に。帰っても先生はいないので」
「こっちにもいないよ」
「ええ。だからわりと、もうどうでもいいというか」
「あの美術教師やあんたの親は、あんたを探してるよ、きっと」
「そうでしょうか」
「川上美咲以外のことはどうでもいい?」
彼女はまた、軽蔑とも慈愛とも取れるような複雑な眼差しをあたしに向けている。あたしは曖昧に頷く。
「じゃあなんで死んでないんだろうね、あんたは」
図星をつかれて、あたしは黙り込んだ。
「あの女はもういない、描き続けてきたあんたの絵も、その中の私のことも、あんたは看破ってしまった。生きている理由がないってずっと言ってたでしょ、今度こそ本当に生きている理由がなくなったのに、なんであんたはまだ生きて、私なんかの話を真面目に聞いてたのかな、穂花さん」
言葉とは裏腹に、彼女の口調は優しかった。
「……なんででしょうね」
「どうするの、これから」
「わかりません」
美術室の中にいた先生の輪郭が、どんどんぼやけていくのをあたしは感じていた。先生とそっくりなこの人のそばにいると、どんどん先生が遠くなって、磨りガラスの向こうへ押しやられてしまう。記憶の中の先生は刻一刻と朧げになるのに、目の前の彼女はこれ以上ないくらい鮮烈で生々しい。
こんなに緻密に描くべきではなかった、とあたしはまた思う。
「なんて呼んだらいいですか、あなたのこと」
「私?」
「先生でも美咲さんでもないなら、なんて呼んだらいいのかな、と思って……」
「別に、必要なくない?」
「え」
「ここには私とあんたしかいないんだよ、穂花さん」
彼女の指先があたしの指先を捕らえる。あたしはそれに抗うことができない。それはこの人が先生にそっくりなせいだろうか、それともこの人だから?
「世界に2人しかいないなら、名前っていらないでしょ」
あたしはまた頷いた。ひんやりした指先につながる手のひらはわずかな体温を孕んでいて、ほんの少しだけ温かかった。保湿の行き届いた感じのする掌だ、そう思った瞬間、また先生が遠くなった気がした。
「乗りませんか、電車」
「いいよ」
当然だけれど、駅にもホームにも電車にも、誰もいなかった。いったいどういう理屈で電車が動いていて、この線路の先はどこへ続いているのか、見当もつかなかった。
「夢なのかな」
「夢だったらどうするの?」
「夢って目が覚めたらなくなるじゃないですか」
「でもこれは夢じゃないよ」
「なんでそう言い切れるんですか」
「あんたが描いたんでしょ、私も、この電車も駅も」
「絵なんて、夢みたいなものでしょう」
そう言い放った瞬間、彼女の瞳に影が落ちたのがわかってあたしは後悔した。
「やっぱりそう思う?」
「……いいえ、その」
「じゃあ別に夢でもいいから、今は信じてよ」
縋っているのか諭しているのかよくわからない言い方だった。
「何をですか」
「全部。私のこと、この世界のこと、全てを」
頷きかけてから、あたしはさっき聞いた話を思い出していた。
「あなたは信じてるんですか、この場所のこととか、自分のこととか」
自分の感情のこととか、と言いかけたのにどういうわけか口には出せなかった。
「私はずっと一人だったから、他に選択肢がないんだよ。だから穂花さんが信じてくれたら、本当の意味で信じられるような気がする」
いいですよ、とあたしは答えた。もとよりここでこうしてこの人と話して、この人の心のうちに興味を抱いてしまった時点で、この人のことを先生の模造ともただの絵だとも思えなくなっていたのだ。
車窓をぼんやり眺めていると、遠くにさっきまでいた海岸が見えた。夢にしては緻密で鮮やかで生々しすぎるな、と思った。
「優しいんだね」
彼女がそう言うのが聞こえた。海岸で繋がれた手は相変わらず繋いだままで、絆されている、とあたしは思う。あたしは先生があんなに好きだったのに、なぜここにいて、なぜこの人の手を振り解けないんだろう。ここでこうしていることは、先生に対する裏切りではないだろうか。
「でも、先生を忘れることはできないと思います」
自分に言い聞かせるようにそう付け足した。あの人が朧げになっていくことへのせめてもの反抗だった。
「いいよ、別に」
彼女はそう言って悪戯っぽく笑った。なんとなく目を合わせられなくて、あたしは車窓に向き直った。もしかしたら先生もこんなふうに笑っていたのかもしれない。あたしの知らないところで。
「応えてくれなくていいから、全部信じてよ。今はそれで十分だから」
「全部、ですか」
「好きだよ、穂花さん」
振り向くと、彼女がふっと笑った。先生がまた磨りガラスの向こうへ追いやられていく。あたしは視線を下へ移して、口を開く。
「あなたは、あたし以外の他人に会ったことがないじゃないですか」
「うん。だから本当じゃないと思う?でもこれから先もずっとそうだよ」
これ以上この人と一緒にいたら、多分本当に先生を忘れてしまうし、戻れなくなってしまうような気がする。それがわかっているのにどうしてあたしはこの手を解けないのだろう。
「本当かどうかとか、そういうこと考えるのもうやめてよ、私もやめるから」
あたしはそれには答えずに、また窓の外に視線を移す。この感情をなんと呼ぶか、あたしはよく知っている。電車はまだ止まらない。
あたしはこのまま、どこへ行くんだろう。
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