第18話 それって現実になりませんか

「じゃあ彼女は、なんらかの手段でこの絵の中に入り込んで、その女の人と同じように絵から絵へと移動するようになった、と?」

その数学教師は思ったより飲み込みが早いようだった。

「おそらくですが」

「でも、じゃあやっぱり拉致じゃないですか?」

「須藤さんが望んでそうしたとしてもですか?」

「この女性が唆したんでしょう、彼女まだ未成年ですよ?」

「ていうか、信じるんですね」

そう頼んだのは俺だったけれど、この男が俺の話を信じたのは意外だった。

「信じるしかなさそうなんですよ、ほら」

三上は俺に海岸の絵を突き返した。みると海岸には誰もいなくなっている。砂浜に足跡が二つ残されているだけだ。

「で、その女は誰なんでしょうね。須藤さんの中学の頃の美術教師は、亡くなってるんでしょう?」

俺は頷いてから、机の上の須藤の絵をもう一度改めた。駅のホームの絵に、二人が並んでいる。電車に乗るつもりらしい。どこへ行くのだろうか。

俺は須藤の家に行った時のことを思い出していた。彼女はあの時、須藤が絵を描き進めるにつれ、どんどん鮮烈に自然になっていったような気がする。

「須藤さんが描いたのかもしれません」

「妄想の中の女が動き出したってことですか?」

「わかりませんが、多分この世界の人じゃないと思います」

「石崎先生は、いつから知ってたんですか、その女の人のこと」

「須藤さんが入学してきて半年と少し経ったあたりからですかね」

「病院に行こうとは思わなかったんですか?」

「え?」

三上は遠慮がちに頭を掻いて続けた。

「いや、すいません、なんていうか、普通おかしなものを見たらまず自分の頭を疑うじゃないですか?」

「まあ、そうですね……。でも須藤さんにも同じものが見えていたので。幻覚って、普通は共有できないでしょう、他人と」

須藤にも同じものが見えている以上、これは現実なんだろうと思っていた。

「でもほら、集団幻覚とか、あるのか知りませんけど、そういうの、あるかもしれないじゃないですか?」

なんだ、やっぱり半信半疑なのかと拍子抜けしたけれど、それが普通の反応だろうとも思った。

「世界中の人が同じ幻覚を見ていたら、それって現実になりませんか」

「は?」

三上は素っ頓狂な声を上げ、訳がわからないとでもいいたげに俺を見た。

「いや、幻覚は幻覚でしょう、何人が見ていても」

「そうでしょうか?」

俺は絵が好きだ。観るのも描くのも。だけど時々不思議で仕方がない。なぜインクの滲みや点の集合が任意の何かに見えて、こんなにも心を揺さぶるのだろう。

「三上先生は、これが何に見えますか」

俺は須藤とあの女性がホームに立っている絵を差し出した。

「絵でしょう。駅のホームと、須藤さんと女性の絵」

「これが、駅のホームに見えるんですか」

「見えますけど」

「そうですよね、私にもそう見えます。誰もこれを見て紙に絵の具が乗っている様子だとは言わないでしょう」

「何が言いたいんですか」

「さっき、妄想の中の女、と言ったでしょう、この人のことを」

俺は彼女を指さした。長髪のその人の表情は、前に絵の中で観た時とは決定的に異なっているような気がした。なぜだろう、須藤が隣にいるからだろうか。

「ええ。言いましたね。須藤さんの妄想、でしょう、この人は」

「でも絵でしょう」

「絵だから妄想だって言ってるんですよ」

「でも現に私たちは、この女性について話ができるじゃないですか。須藤さんの頭の中だけの妄想だったら、こんなことできない」

三上は呆れたような顔をしている。自分が屁理屈のようなことを言っている自覚はあった。けれど俺はどうしてだか、須藤の絵を妄想の産物だと思えなかったし、須藤が自分の妄想の世界の中に閉じこもったとは思えなかった。それはこの絵の中の須藤が見たこともないほど複雑な表情を浮かべているからだろうか。

「私はここにあるのは、もう一つの現実だと思うんです」

なんで俺はこんなことを話しているんだろう。

「はあ。なんていうか、観念的な話ですね。僕そういうの苦手なので。で、どうやって連れ戻すんですか」

連れ戻すべきなんだろうか。須藤がこの絵の中を現実だと思うなら、俺に止める権利があるんだろうか。

「……もしかして、まだ連れ戻すべきじゃないとか思ってるんですか?」

三上は信じられないといった表情で俺を見ていた。当然かもしれない。

「わからないんですよ。須藤さんが幸せなら、それを止める必要ってあるんですかね」

「石崎先生って、死にたい奴は死ねばいいとか思うタイプですか?」

責めるような三上の言葉に、俺は黙り込んだ。そんなことは思っていなかったはずだ。人生はとても長くて、須藤はこれから先たくさん学んだり、人と出会ったり、違う誰かを好きになったりするはずで、だからたった一つの後悔のために身を滅ぼすべきではないと、俺はあの時彼女を諭したはずだ。こんなことは大人になってから振り返れば数ある後悔の中にひとつに過ぎなくなっているから。でもそれは今現在の須藤の望みよりも重要なことなのだろうか?

俺がなおも黙り込んでいると、三上の大きなため息が聞こえた。

「まず須藤さんが幸せなのかどうか、聞く必要があるんじゃないですか。そんなに悩むんだったら」

半ば呆れたような口調で彼はそう言った。俺はそうですね、とだけ返答した。

「で、見当はついてるんですか?どうすれば絵の中から須藤さんを連れ戻せるのか」

「全くわかりません」

三上はまたため息をついた。

「この女性がこちら側にいるのを少なくとも私は確認しているので、須藤さんをこちら側に連れてくること自体は可能だと思います」

「ああ、石崎先生は、この人に会ったんでしたね、須藤さんの家で。その前に何かありませんでした?」

「何か、ですか。須藤さんが絵を描いていたので、やめるように叱りました、無駄でしたけど。そのあと学校の黒板にあの女性が浮かび上がっているのを見て、須藤さんに描いたのか聞いたら、首を横に振って家へ走って行ったので、ただごとではないと思って後を追いました」

「はあ、なんでそれをもっと早く言わないんですか」

「忘れていたんですよ、この絵を見るまで」

三上は呆れたように瞳をぐるりと回した。

「まあいいです。それから?」

「声をかけても返事がないので、玄関先に上がりました。そしたらあの女の人がいて、須藤さんが絵を描いてるから邪魔しないでくれと言われました」

俺は慎重にあの日の記憶を再生する。今度こそ間違ってはいないはずだ。

「その絵って、須藤さんの部屋の壁に描かれていたっていうあの絵ですかね?」

「その絵、どんな背景だったか聞きましたか」

俺は須藤の描いた美術室の絵が、本当の美術室と重なったあの日のことを思い出していた。背景を描いたらどうかと提案したのは俺だ。

「なんでも、須藤さんの部屋らしいですよ。鏡みたいに部屋の内装をうつしとっていて、気味が悪いって保護者の方がおっしゃってました」

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