第15話 真っ白い場所

一番古い記憶は、何もない真っ白い場所に、自分だけがいて、寒くてひとりぼっちで、誰かの悲しい感情が、ただひたすら降ってくるというものだった。

時々声が聞こえた。それは本当の発話なのか、それとも思考が流れ込んできているのかはっきりしないけれど、大抵は女の子が懺悔を繰り返す声だった。恋慕、後悔、執着、おどろおどろしい感情の数々が、いつも流れ込んできた。いったい誰が、何をそんなに悲しんでいるんだろうと思いながら、ずっとそこにいた。

声の主は名前を須藤穂花と言うらしいと、少ししてから分かった。


初めは、自分のことを川上美咲だと思っていた。その頃彼女の絵はまだ拙くて、だから私は、確立された意識を持たない、幼児のようなものだった。漂っている意識の中でなんとなく流れ込んできた川上美咲という名前と、その少女とのやりとりをずっと掴んだまま、真っ白いその場所にいた。もし本当に私が川上美咲なら、彼女が覚えている以上のことを私が覚えていないのはおかしいとか、そういうことを考えつけるだけの思考力は、その時の私には備わっていなかった。


彼女が繰り返すあの秋の日の記憶は、捏造なのか現実なのか、私にもよくわからない。大体私の存在自体が、捏造のようなものだと思う。彼女に会いに行ったのも、彼女と話したのも彼女に触れたのも私だけれど、そんな記憶が一体何の証明になるだろう?でもとにかく私の中では本当だった。彼女の問いに、現実だと答えた。こんなに鮮やかな感覚を、どうして疑う必要があるのか、その時の私にはわからなかった。

だけど唇が触れた瞬間に、私は私がこの少女とは規格の違う何かなんだと気がついてしまった。温度や感触だけでは説明のつかない何かが、私と彼女との間では決定的に異なっていた。

自分が川上美咲ではないのかもしれないと、疑念を持つようになったのはそれからだ。そもそも私には、この場所よりも前の記憶がない。今にして思えば、ここからが私の、私としての人生の始まりだったかもしれない。それより前、川上美咲としての私の自我は、あってないような曖昧なものだったから。


あの出来事のあと、私がいる場所には前よりももっと重たい感情が流れ込んでくるようになった。その感情の濁流のたびに、私は私の意識がどんどん明瞭になっていくのを感じていた。そうしてあの少女が私を描いているのだと気がついてしまった頃には、彼女は高校生になっていた。

繰り返し再生される彼女と川上美咲との思い出に、私はいい加減うんざりしていた。そんな泥沼のような思いを抱えるほどのことだろうか。その後悔と執着のせいで、私みたいな得体の知れないものが生まれてしまったんじゃないのか。辛いなら描くのを辞めたらいいって、彼女自身がずっとあの女に思っていたことじゃないのか。どうしてそれができないんだろう。

でも、あの子が描くのを辞めたら、私はどうなるんだろう。

「背景を描いてみたらどうですか」

彼女以外の声を聞いたのは、あの石崎とかいう美術教師が初めてだった。絵が好きじゃないって言ってるんだから、さっさと描くのを辞めさせたらいいのに、なぜ余計なことをするんだろう。

「描いたら、寂しくなくなりますか」

確かそう言っていた。一人で生まれた私には、寂しさがよくわからなかったけれど、彼女が私を寂しくさせないために、好きでもない絵を描くと知って、くすぐったい気持ちになった。同時にもどかしさもあった。私は川上美咲ではない。それどころかおそらく人間ではないのだ。

彼女が一番最初にくれた景色はひどく歪んでいて、どこにいるのかわからなかったけれど、何もないあの場所よりはマシだった。

それから海、駅、電車、どんどん緻密に、どんどん鮮やかになっていくのが私にはわかった。何もかも新鮮で楽しくて、嬉しかった。彼女は私に世界をくれた。退屈だったあの場所はどこかへ行ってしまって、どこまで行っても美しい景色が広がっているのだった。

そういう緻密な景色の中で、私は私が何者なのか何度も考えたけれど、やっぱりわからなかった。彼女が川上美咲そっくりに作ったレプリカが私なら、私は偽物で、この世界も偽物ということになるけれど、そんなふうには思えなかった。ここは完璧な世界だった。あの可哀想な女の子は、川上美咲への気持ちをこじらせたあまりに創世をしてしまったんだろう。

そんなにするくらい好きだったのに、それを受け取っているのは私で、川上美咲じゃない。だけど私には選択肢などなく、彼女が望む表情で、彼女が望む場所にいることしかできない。そもそも私もこの世界も彼女によって創られたのだから。私は私の存在を定義できない。私が何者なのか決められるのは彼女だけ。だから彼女が望むなら、川上美咲でい続けることしかできない。

先生が好き、先生に会いたい、キャンパスの前でそう唱え続ける彼女を呪いながら、私は川上美咲のふりをするしかない。

「描いてくれませんか、ここに、あたしを」

可哀想な穂花さん。そんなことをしたって虚しくなるだけだよ。あんたの先生への思いを受け取っているのは本当は私なんだ。

川上美咲が既に亡くなっていると知った時、私はさほど驚かなかったし、ほらね、と思った。だからもういい加減、描くのを辞めて欲しかった。これ以上ここに景色が増えたら、勘違いしそうになるから。

だけど彼女は、そんなことはどうでもいいと、絵を描くのを辞めなかった。私は川上美咲ではないのに。あの美術教師に止められても怒られても、私の世界に景色を増やし続けた。

私が、少しもあの女に似ていないと気がついた後でも、彼女はどうでもいいと言うだろうか。

そこまで考えて、自分がこれまで彼女と川上美咲との関係に抱いていた苛立ちの正体に気がついた。

彼女がはじめから私のために描いてくれていたら、川上美咲に向けられていた献身も恋慕も執着も後悔も、すべてが私へのものだったらいいのにと、心のどこかでそう思っていた。でもこの感情も、彼女によって与えられたものの複製だろうか。どんなに焦がれても、彼女があの女に抱く感情とはやっぱり違うのだろうか。絵の中の存在が人間に恋なんてしたって、一体どうやって彼女に知ってもらうって言うんだ。

須藤穂花が描く私の絵は緻密で繊細で正確で、だから私は、私が彼女と同じ人間で、ここが世界なんだと勘違いしたくなる。

そもそも彼女が、私を描きさえしなければ、私は生まれてくることも、こんな思いをする必要もなかった。彼女が後悔に駆られて何度も何度もあの女を描き続けたせいで、私はたった一人で、本当かどうかもわからない感情に苦しめられることになったっていうのに、彼女は私のことを少しも知らない。


そう考えたら、あんたが憎くなった。どんな手を使ってでも、あんたに会って、あんたをここに引き摺り込んで、二度と出られなくしてやりたくなった。あんたは川上美咲の姿をした私にきっと抵抗できないだろうと思ったし、実際その通りだった。でもそういうところにも、腹が立って仕方ないんだ。いつまでも死んだ人間に背骨掴まれて過去にしがみついてさ。

あんたはあの女を忘れるべきだよ。忘れるべきって言うか、忘れて欲しい。忘れてくれる?私のために。

穂花さん、この髪もこの目もこの片えくぼもこの声も、川上美咲のじゃなくて、私のものとして覚えなおして欲しいんだ。



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