第14話 話してあげる
「だから、ずっと言ってたでしょ?私は先生じゃないって」
「先生でもなければ、川上美咲さんでもありませんよね」
海辺は風が強いから、あたしは声をいつもより張り上げる。彼女にはさっきまでの優しそうな雰囲気がなくなっている。こうなってみれば、少しも似ていない、とあたしは思う。
「そうだよ」
「先生じゃないなら、なぜ先生のフリなんか……」
「あんたがそう望んだからだよ。もう一度先生に会いたい、名前を呼んで欲しい、懺悔したい、許されたい、ずっとそう思っていたでしょ?」
もし本当に先生だったら、なんて言ったんだろうか。あたしが先生を好きで、だから逃げて、それをずっと後悔して、ずっと絵を描き続けていたと知ったら。
「でもダメだね。なんで疑ったりなんてしたの。あんたはもう十分おかしいんだから、中途半端に正気になっちゃだめだよ。つらいだけでしょ?私を川上美咲だと思って、私に酔っていればよかったのに。そっちの方がずっと幸せでしょ?」
そもそも初めからおかしかったのだ。先生のために何枚も何枚も好きでもない絵を描き続けて、それをあの人が喜ぶはずがない。きっとあたしを気持ち悪いと思うに違いない。
「じゃあやっぱりこれは、あたしが見ている幻覚なんですか」
この海も空も風も、目の前にいるこの人も、本当は存在しないんだろうか。あたしはまだ自分の部屋のベッドの上で、眠っているだけ?でもじゃあ、この人が絵から絵を渡り歩いていたのは一体なんなのだろうか。石崎先生だって見ていたはずだ。
「知らないけど、でもさぁ穂花さん、例えば誰かの見ている幻覚が、赤の他人に共有できるとしたら、それって幻覚だと思う?」
「あたしが見ていた夢が、石崎先生にも見えていた、って言いたいんですか」
「モノの例えだよ。私は何にも知らないし、よくわかんない。でも仮にそうだとしたら、どうやって、夢と現実を描き分けたらいいんだろうね」
淡々と話すその口調は、やっぱり少しも先生に似ていない。
「それで、どうするの?私があんたの大好きな先生じゃなかったのにがっかりしたから、もうお家に帰りたい?」
「知ってるんですか?帰り方」
「帰っても、先生はいないよ」
「知ってますよ」
「死んだから」
あたしはまっすぐ彼女を見た。挑戦的な瞳が揺れている。何を考えているのかわからない。
「だから、知ってますよ」
「あんたはまだ自分のせいだと思ってるの?それこそ思い上がりだと思わない?あんたは何も知らないんだよ。あの女のことを。あんた如きの言葉や行動が違ったくらいで踏みとどまれるような状況なら、初めから死んだりなんかしてないよ」
「あなたに何がわかるんですか。ただの絵のくせに」
カッとなってそう口走ってから、あたしは後悔した。彼女の顔が大きく歪むのが見えて、狼狽えた。あんな表情をあたしは描いたことがない。先生はあんなふうにあたしに怒ったりしなかったから。
「ただの絵だと思うなら、なんでこんなにたくさん描いたの」
「ごめんなさい」
海はさっきより荒れていて、雨が降りそうな天気だ。彼女は黙って近づいてきて、あたしの手首を掴む。今までで一番強い力で。
「帰り方なんて知らないし、知ってても教えてあげない」
「え……」
「私はただの絵で、先生でもなければ川上美咲でもないから、あんたに絵は描いてあげられないけど、あんたと話せるし、あんたに触れるし、死んでないし、あんたを逃したりしない」
掴まれた右手首がぎりぎりと痛む。あたしは身を捩るけれど手を振り解くことができない。
「なんなんですか、あなたは」
「ただの絵、でしょ」
「体温があって言葉を話して、ひとりでに動く絵?」
「そうだよ」
「狂ってる」
「あんたはずっと狂ってて可哀想な女子高生だったよ」
「離してください」
「どうせ帰れないんだから、離しても離さなくても同じことだよ」
「何がしたいんですか、あなた」
「あんたを帰したくないってだけ。私が寂しそうだから、たくさん描いてくれたんでしょ?」
「でもあなたは先生じゃない」
「だから無駄なことしたなって思ってる?先生によく似た得体の知れないただの絵のために時間を無駄にして最悪って思ってるんでしょ」
彼女は泣きそうな顔をしていたけれど、相変わらずあたしの手首を強く掴んだままだった。
「違います、ただあたしは、あたしが描いていたのはあなたのためじゃなかったって言ってるだけで……」
「そんなこと分かってたよ、はじめから。私は先生じゃないし、川上美咲でもないんだから。でもあんたがくれたものを実際に受け取っていたのは私なんだ」
右手首を強く引き寄せられて、前によろけたあたしの左肩を、彼女のもう一方の手が掴む。まつ毛の一本一本が見えるくらい、彼女が近い。
「あんたは、こんなに精巧に私を描くべきじゃなかった。私だけじゃない、この海も空も砂浜も、こんなに緻密に描いちゃいけなかったんだよ」
「なぜですか」
あたしは彼女の瞳から目を逸らさずに訊いた。これだけ近づいても陶器みたいに綺麗な肌だ。
「だって、本物と見分けがつかないでしょ」
「あたしにはわかりましたよ、先生じゃないって」
「あんたじゃなくて、私がだよ」
「は……?」
「私の気持ち、想像したことある?」
呆れたようにそう言われて、ぎりぎりと手首に爪を立てられる。
「痛っ……」
「私が川上美咲のレプリカに過ぎないなら、私のこの感情も、ただの複製に過ぎないと思う?」
あたしが痛みに顔を顰めると、その人は急に穏やかな顔になって、あたしを強く抱きしめる。彼女の身体は柔らかくて温かいけれど、強い力で抱きしめられて息が苦しい。
「好きだよ、穂花さん」
薄手のワンピースの下で彼女の心臓が鳴っているのがわかって、あたしは彼女の言葉の意味を理解する。こんなに精巧に描くべきではなかった。誰もいない場所で、たった一人でずっとそんなことを考えていたんだろうか、この人は。
「教えてくれませんか」
「何を?」
「あなたがここで、どんなふうに過ごして、何を考えて、どんな気持ちだったのかを」
「全部嘘かもしれないのに?」
「あなたが本当だと思うことを話して欲しいんです」
こんなに精巧に描くべきではなかった。あたしは今、この人を知りたいと思っている。何もかもあたしが描いたはずなのに。
「いいよ。話してあげる、なにもかも」
荒れていたと思っていた海は、いつの間にか穏やかになっていた。
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