第8話 話してもいいですよ

 先生が絵から絵を移動すると気がついたのは、あの出来事からしばらくたったある日のことだった。

 おかしいと思ったけれど、もうおかしなことがたくさん起こっていたから、あたしはそういうもんなんだと受け入れることにした。

 先生が現実世界から消えたのかどうか、あたしは知らない。知る術はなかった。だからただ、絵から絵へと移動していくあの人のことを観測することにした。あの人が絵から消えていくのを見るたびに、あたしはあたしの後悔を上塗りしていった。どうして何も言わなかったんだろう。どうして助けられなかったんだろう。あたしが先生の代わりになればよかった。そうすればあの人をあんなふうに傷つける世界から、あの人を守れたはずだった。

 膨れ上がった後悔には手がつけられなくなっていた。先生のひんやりした手も唇の感触も控えめな笑い方も片えくぼも、繰り返し繰り返し再生されて、繰り返し繰り返しあたしの精神を掻き乱した。

 ──須藤さん、絵は好き?

 あの人のいない絵は、あたしにとってはただの紙切れ。高校で美術部に入ってからも、絵なんて少しも好きじゃなかった。

 なのにあの美術教師の提案に乗ってしまった。なんのために?あの人に近づくため?あの人のいる世界を少しでも美しく彩るため?わからなかった。今もよくわからないまま、あたしは背景を描いて、あの人に座標を与えている。いったいどこで何をしているのか、あの人がわからなくならないように。

 あたしの絵は上達しているらしい。だけどそれは、どうだっていいことだった。


 あのとき一瞬、美術室とあたしの絵がすり替わったのは、先生があたしの絵とすり替わったのとおんなじ理屈なんだろうか。それともあたしと石崎先生だけが見た幻覚なのかな。先輩たちは気がついていたんだろうか。

 それにあの猫。あたしは猫を世界から盗んだのかもしれない。元に戻す方法があるんだろうか。あたしはおかしくなっている。よその野良猫を巻き込んで、それに何にも感じないなんて。

 あたしはゆっくり目を開けて、ベッドの中へ倒れ込んだ。もう考えるのはよそう。どうせあたしにはわからない。

 先生がいなくなった理由すら、あたしにはわからなかったんだから。

 わからないけど、あたしは描くしかなくなっている。描くより他に、あの人を思い出す術がない。あたしの世界の中にあの人を留めるために、あたしは描くしかない。どうして先生はいなくなったんだろう。どうしてあんなに苦しそうだったんだろう。先生を傷つけたのはなんだったんだろう。もう二度としたくない、あんな思いは、もう二度と。

 あたしはまたいつか先生に会えるんだろうか。現実で?あれは現実だったんだろうか。現実じゃなくてもいいか。また先生に名前を呼んでほしい。


 それからあたしは今まで以上の集中と献身で絵を描いた。出来上がった絵が何枚になったか、もうわからない。海も森も川も山も、ビルも喫茶店も病院も家も、星空も月も太陽も描いた。あの人はどこにいても変わらず健康そうで幸せそうで、鮮やかだった。呼んでいるような気がした。穂花さん、こっちへおいでよ。もう悲しまなくていいよ。ずっと一緒にいるからね。

 眠っている時間は、ほとんどなかった。もしかしたら、あたしはずっと眠っているのかもしれなかった。先生がいなくなったあの日からずっと夢を見ているんじゃないだろうか。でも、夢だったらなんだっていうんだろう。

 あれが先生じゃなかったから、なんだっていうんだろう。こんなにも鮮明なのに?

 限りなく現実に近い夢は、どうやって現実と区別したらいいんだろう?


 宇宙の絵──先生が土星の輪っかの上を歩いている──を描き上げたあたしは、美術準備室のドアを叩いていた。石崎先生が声で応じるのが聞こえて、あたしはドアを開けた。

「話してもいいですよ。あたしが知っていること」

 部屋に入ってドアを閉めるなりあたしは石崎先生にそう言った。目の下のクマはどのくらい濃くなっているだろう。あたしにはもう以前の自分と、今の自分を比べられなくなっていた。石崎先生は、あたしを気味悪がっているに違いない。

「…どういう風の吹き回しですか」

 石崎先生は目の高さをあたしにピッタリと合わせてそう言った。あたしはこの美術教師を好ましいと思っている。深く詮索してこないし、あたしにとやかく言わないし、ほんの少し先生に似ているから。石崎先生ならたぶん、あたしの望みを叶えてくれるだろう。

 それにきっと、石崎先生にはあたしの気持ちが、あたしの執着が、もうどうしようもなくなったあたしの泥沼が、わかるだろうから。

 初めのうちは、ただの純粋な恋心だった。そばにいて、話を聞いているだけでよかった。どうしてだろう。いつからあたしは、悟られたくないとか、怖いとか、受け入れて貰えなかったら死んじゃうとか思うようになったんだろう。挙句その恐怖のために先生を守れずに、その後悔をこんなになるまで大事に大事に抱えてしまったんだろう。あたしはずっと先生に背骨を掴まれたままでいる。初めて会った時からずっと。先生のひんやりした柔らかい手が、あたしの脊椎をつかんで逃さない。執着と愛のあいだに、境目ってあるのかな。

「かわりに、お願いがあるんです」

 もしかしたらあたしは、助けてほしいのかもしれない。この泥沼から。あたしの脊椎から先生の手を解いてほしいのかもしれない。ううん。どうかな。もうよくわかんないや。どっちが本心なのか、あたしにはもうわからない。こんなにどうしようもなくなったあたしのことを、止めてほしいのかこのまま破滅させてほしいのか、どっちなんだろう。先生がすき、先生に会いたい、先生を助けられなかった自分のことが、あたしは憎くてたまらない。こんなことは許されない。でも許してほしいのかもしれない。あたしにはあたしがわからない。だからずっと間違えてきた。

 あたしはいまでもあの日の美術室から出られない。全部話したら、石崎先生はあたしになんて言うのかな。

「描いてくれませんか、あたしを、この人の隣に」

 石崎先生の目の虹彩は夕日のせいでオレンジ色にきらきらしている。美しい夕焼けのオレンジは、あたしには後悔と深く深く結びついた色だ。

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