第9話 誰なんでしょうね

 須藤の口から語られたストーリーは、信じがたいものだった。

「つまり、この人は」

 俺は須藤が提出した絵の中の女性を指さした。

「あなたの中学のときの美術教師、ということでいいですか」

「正確には中学二年の時の、です」

 須藤穂花は疲れ切った顔をしているものの、真っ直ぐに俺を見据えている。

「で、休職ののちの消息は不明、ある日突然あなたにふらふら会いに来て、あなたが彼女の絵を描いた少し後に、絵に入り込んだ、と?」

 須藤は瞼をぴくぴくさせながら、正確にはわかりませんが、おそらくそうです、と答えた。

「信じませんよね、こんな話」

 俺は机をぼーっと見つめながら考え込んだ。すでにおかしなことはたくさん起こっている。でももしもさっきの話を丸々全部信じるとすると──。

「ここに自分を描いてほしい、って言いましたよね」

 須藤は黙って頷いた。

「それがどういうことか、わかってて言ってるんですよね」

 須藤はもう一度頷いた。唇をきっと結んで、まっすぐに俺を見ていた。

「今までのあなたの話が全部本当だとすると、ここにあなたを描いたら、あなたはここから居なくなって、絵の中へ」

「そうです」

「ずっとそうするつもりだったんですか。そのためだけに、絵を?」

「いいえ。はじめは、寂しくないようにしようと思って。でも、向こう側にたくさん描き込んで、最後には私も描き込めば、向こう側に行けるんじゃないかって思ったんです」

「そのためにこっち側を捨てるつもりなんですか」

 須藤は頑なに頷いた。

「戻ってこられないかもしれないのに?」

「あたしはあの人が居なくなった日から、ここにいる理由がないんですよ」

「そもそもこの人は本当にあなたの前任の美術教師なんですか?」

「わかりません」

「わからない?」

「でも好きなんです」

 たったそれだけの理由で、彼女は今いる世界を手放すつもりなのだろうか。俺は彼女を止めなければならないと直感した。こんなの、自殺の片棒を担ぐようなものだ。この世界からいなくなるのを手伝うなんて。

「須藤さん、あの、こんなことを急に言うのはおかしいと思うかもしれないんですけど、人生って長いんですよ」

「だからやめておけ、ですか?」

「ずっと絵の中に閉じ込められたままになるかもしれないんですよ」

「平気です。今だって同じようなものだと思うから」

「時間があるかどうかも、自由に動けるかどうかもわからないんですよ」

「わかってますよ」

「だったら──」

「この人は」

 須藤の瞳が輝きを増した。声がうわずって、輝きがぽろぽろとこぼれた。泣いているんだ。俺は狼狽うろたえ、黙り込んだ。

「この人はそんな場所でひとりぼっちなんですよ」

 須藤の言っていることが全くわからないわけではなかった。しかしだからといって、向こう側に十代の若者を送り込むことが許されるんだろうか。この少女はこれから大学へ行ったり、就職したり、誰かと恋をしたりするかもしれない。向こうへ行ってもしも戻ってこられなかったら、それら全ての未来が閉じてしまう。そんな危ない橋を渡らせるわけにはいかない。

「あたし、心のどこかで望んだような気がするんです」

 須藤がしゃくり上げながらそう言った。鼻先と目元が赤くなっている。

「先生を、この人を好きとか心配とかじゃなくて、閉じ込めたいって。もう二度とどこにも行かれないようにしたいって願った気がするんです。だから、この人が絵の中にいるのはあたしのせいなんです」

「現実は思った通りにいかないものですよ」

 そう言いながら俺は懸命に頭を働かせたが、わからないことが増えていくばかりだった。そもそも絵の中に人間が入るなんて訳のわからない話、どう理解しろというんだ。とにかく今は、今日聞いたこの奇妙な話を整理する時間が欲しい。前任の美術教師についても、調べたら何かわかるかもしれない。俺は苦し紛れに須藤にこう提案した。

「とりあえず、今日はやめておきませんか。ひどい顔ですよ。絵に描くなら、コンディションを整えてからの方がいい。そうでしょう?」

 須藤は意外にもすんなりと引き下がった。

「じゃあ明日、お願いします」

 そう言って、彼女は美術準備室を出て行った。


 俺に残された猶予はたった一日だった。その間に俺は中学校の連絡先を調べ上げ、川上美咲という美術教師について聞き込みをして回った。後任の教師から校長まで、連絡がつく人には片っ端から電話をかけた。

 そうして俺は彼女について様々なことを知った。二十六歳。一人っ子。生徒からのいじめを苦に精神を病み休職。そして──。

 一晩中調べて、絵の中のその人をぼんやり見つめているうちに、朝になっていた。俺はその日、授業も仕事もロクに手につかなかった。ずっと考え続けていた。もし俺の知ったこの情報が本当だとしたら、須藤は一体誰を、何を絵の中に招き入れたんだろう。

 ギィと鈍い音を立てて、美術準備室の扉が開いた。

「約束ですよ、石崎先生」

 丁寧に気を使って整えたであろう前髪を揺らしながら、須藤が言った。

「描いてくれますよね、あたしのこと」

 須藤の目元のクマは消えている。目元も鼻先ももう赤くないし、睫毛も上向きで頬の血色もいい。髪だって艶がある。その目は決意に満ちて燃えているように見える。俺はゆっくり息を吐いてから切り出した。

「須藤さん、私、昨日あのあと、調べたんです」

「何を」

「川上美咲さんについて」

 須藤は黙って俺を見つめている。

「高校と中学って、一応連絡とってるんですよ。色々、あるでしょうほら、生徒の様子とか共有したりとか。それでその、生徒にはどうやら伏せられていたようなんですけど、」

「なんですか」

 落ち着き払った様子の須藤の前で俺はまた息を大きく吐いて、言った。

「川上美咲という美術教師は、亡くなってるんですよ。休職した一年後に自殺してるんです」

 準備室の小さな窓から風が吹き込んで、わずかに金木犀の香りがした。

「ねえ、須藤さん」

 須藤は無表情なまま、風で乱れた前髪を整えた。

「この人は誰なんでしょうね」

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